「ん? ……」
振り返り、ちょっと不思議そうな顔をしてから、律はリモコンのボタンを押した。
エアコンから暖かな空気が流れ始めたのを確認して、ぞんざいにリモコンを置く。
その間、私の心臓は緊張に堪えかねて、バクバクと跳ねまわっていた。
「で、なんだって?」
聞こえていなかったのか、律は至っていつも通りのやわらいだ顔で私を眺める。
「ああ、あ、あのさ、う、うん」
さっきはするりと喉を通った言葉が、どうしてかせき止められてしまう。
こんな報告のひとつもろくにできないでどうする、
秋山澪。私は拳を握りしめた。
「……まあ、座ってろって。いま飲み物持ってくるからさ」
「あっ……」
しかし私のその姿は、律の眼には無理をしているように映ったのだろう。
律は私の脇をすり抜けて、階下へ降りていってしまった。
言われるままに、私は卓の前に尻を着く。
ちらりと横を見やると、起き抜けのままなのか、布団の乱れた律のベッドがあった。
「……」
落ち着け、私。
胸のすきまを押さえ、心音を感じる。
これはひどい。破裂しそうなほど高鳴っていた。
それでも、これは言わなければいけないことだ。
このまま隠し通していていいことではない。
それに、律はこういうことに関しては鋭いのだ。黙っていたっていつかはバレる。
だったら、私から伝えたい。そして、律のびっくりした顔を拝んでやるのだ。
かちゃり、と背後からドアの開く音。
私は、長く細く息を吐いた。
「ミックスジュースはおいしいねぇ~」
「たとえ世界はくされてもぉ~」
上機嫌で奇妙な歌を口ずさみながら、律は卓の上にグラスを二つ置いた。
ファミリーレストランのウェイトレスよろしく、腕に抱えた盆には大きめのペットボトルが2つ。
パイナップルと、桃のジュースが1本ずつ。いずれも果汁100%だ。
「なんだよ、その歌……」
「パイナップルと桃、どっちがいい?」
私は喉の奥が震えるのを感じた。
せっかくツッコミを入れてやったのに、律がスルーをするなんて。
「桃、かな」
「おっけー」
私の恐怖を知ってか知らずか、律はクリーム色のジュースをグラスに注ぐ。
それはなみなみと、溢れそうなほどに。
「おっとと」
律はあわててペットボトルを立てたが、ほんの一滴だけ、グラスの縁から垂れてしまった。
もったいないな。
瞬時にそう感じた私はグラスの側面に唇をつけると、ジュースのしずくを吸った。
「んふ」
頬を押さえると、律がくすりと笑った。
「いやしんぼさん」
そのいたずらっぽい笑顔に、またしても心がざわめく。
「律!」
動転した私は拳を振り上げて、怒りを表現してみた。
いつもだったら律は、ここでもう一回ふざけた態度をとる。
「きゃー、澪大魔王さまが降臨なすったでー!!」とか、とにかく私をからかってくる。
そしたら私が「誰が大魔王だ!」とか言って拳骨をくらわせる。
ここまでが御約束だ。
「ははっ、まぁまぁ」
けれど律は屈託なく笑うと、もう一つのグラスにもジュースを注いで腰を落ち着けてしまった。
対面に座った律は頬杖をつき、じっと私の顔を見つめてくる。
「……みーお」
鈍重に、律が私の名を呼んだ。
ゆっくりとした唇の動きに、私の目が吸い寄せられる。
「なんか話があるんじゃないのか?」
言われてはっとした。そういえば、それで私は律の家に来ているのだった。
ごくりと喉が鳴った。
無意識に唾を飲み込む。ほんの僅かばかり、桃の甘い匂いが鼻腔をかすめた。
「えっと」
言おう。素直に言うんだ。
規制がとけたのだと、切りださなくては。
「実はっ、私……」
律の目を見つめ返す。
やさしい微笑だった。
きっと、私がなにか悩みごとを抱えているんだと思っているんだろう。
確かにそれは間違いではないけれど、律の想像しているであろうこととはまったく別だ。
律のさやかな笑顔。
私の次の言葉が、それを汚してしまうかもしれない。
「きっ」
喉が詰まった。
その一瞬の隙に、嘘が滑り出る。
「昨日、出版社の人から電話があってさ」
「出版社?」
「うん。実は私、小説を書いてて……ちょっと前に、とある出版社の新人賞に応募してみたんだ」
律の表情は、驚いているのかそれとも勘繰っているのか、判別がつかなかった。
確かに今まで、私のこの趣味を律に話したことはない。
かといって、まるきり全てが嘘でもない。だからこそ、嘘はさらに繋がっていった。
「それで、昨日の電話で……選考には漏れたんだけど、私の小説を良いって言ってくれる人がいて」
「……出版してみないかって、話をもらったんだ」
「それって、すごいことなんじゃないのか……?」
律が黒目を右に左にやりながら、らしくない声で言う。
「……ああ」
私はなみなみと注がれたグラスのふちに唇をつける。
グラスを動かすとこぼれてしまいそうだったので、そのまま息を吸うようにすすった。
桃の甘ったるさが、味覚と嗅覚を撫でる。
過剰な甘さゆえか、喉を通る感覚はどこか刺激的でもあった。
「……けど」
ジュースが唾液と混ざって粘っこく残り、口の中が重くなる。
「けど?」
「……なんていうか、それって私の書いたものが世に出るわけだろ?」
「まあ、そうだな」
律はこの後私の言うことがわかったらしく、少し楽しげに相槌を打った。
「いろんな人に読まれるわけだろ? お金を払わせてまで」
「そうなるな」
律の嬉しそうな笑顔を見つめ、私は顔を赤くさせた。
そして息をふっと吸い、声を張る。
「恥ずかしいよっ!」
両肩から背中にかけて力を込め、ぶるぶると体を震わせた。
気持ちの悪いくらいに、いつもらしい私だった。
「あのなぁ」
ため息交じりに律が言う。
「じゃあ何で賞に応募しちゃったんだよ」
「こんな話が来ると思わなかったんだぁ!」
「おねがい律、代わって!」
「代われるかぁ! そもそも何を代わるんですか!」
――――
「とにかく、その話は受けてみた方がいいって」
私とひとしきりじゃれあった後、律は咳払いをしてそう言った。
「でもぉ……」
「大丈夫だって。誰も澪を悪く言ったりしないよ」
「よく分かんないけど、出版社の人が良いって言ってくれたんだろ?」
律は親指を立てた。
実際にはそんな困った状況にはないのだけれど、私はその姿に頼もしさと安堵を感じていた。
「ていうかさ、一回それ見せてくれよ」
即興書きの台本通りに、律が言う。
「えっ!? そ、それはヤダ!」
用意していた台詞を返す。少し、反応するのが早すぎたかもしれない。
「いいから見せてみろって。この文学少女りっちゃんが正直な感想を述べてやる」
私の心配にもかかわらず、律は眼鏡を上げるような仕草をして、やはりニヤニヤ笑みを浮かべている。
「……そんなぁ、律ぅ」
「こういうのは慣れだって。色んな人に見せてみて、感想聞いて、それでも恥ずかしくならないようにすんの」
暫時、考え込むそぶり。
律が次の言葉で追いこんでくる前に、私は口を開いた。
「わかった。それじゃあ……」
これで、嘘は終わりだろうか。
それとも、まだ続けてしまうのだろうか。
私はカバンのチャックを開き、A4のコピー用紙の束を取り出した。
「見てくれ」
「……マジで?」
思っていた以上のボリュームなのだろうか。律は目に見えて狼狽した。
もとより律は小説を読むことが少ない。
本棚にも、著名な作家の小説が数冊あるだけだ。それも大体、私が薦めた本である。
「でも、1ページに書いてある分量はそう多くないはずだから……」
「まあ、そうかもしんないけど……」
律はあからさまにため息を吐いた。
「じゃあ、時間かかるだろうから今日はもう……」
「帰らないよ」
場に出かかった提案を、私は即座に却下した。
「……いや、けど」
「見ていたいんだ」
「私の書いたお話で、律がどんな顔をするのか……見ていたい」
「場面場面でどんな想いを抱いたか、リアルタイムで聞いていたい」
力のこもった私の言葉。
演技ではない素直な言葉なのに、喉は詰まらなかった。
「そ、そっか……ならしょうがないか」
照れ臭そうに、律は後ろ髪を撫でた。
卓の上に私の書いた物語を置く。律の表情が強張った。
私の顔も緊張に歪んでいたと思う。
律がページの角に細い指をかけた。
澪「明晰夢」
今年の冬は、例年より早く冷え込みだした。
おデコに吹きつける寒風が、氷のように冷たい砂礫をぶつけてくる。
私は昨日の雪が残る道を歩きながら、首に巻いた白いマフラーを鼻の下まで持ち上げた。
「寒いなぁ、澪」
隣で雪を踏んでいる澪に話しかける。この雪の量だとまた、いつかのようにすっ転ぶかもしれない。
「でも、昼には10度くらいまで上がるらしいぞ」
「うちはいつから極寒の地になったんだよ~」
「十分あったかいだろ。ほんと、律は寒がりだな」
いつもの会話。冬が来るたび、毎年やっているような気がする。
「鼻、赤くなってるぞ」
「うるへー」
悪態をつきつつ、私はふと思う。
来年の、今日みたいに冷えた朝にも、澪と同じ会話をして登校できるだろうか。
12月に入ったばかりの町並みは、街路樹もほとんど葉を落としてどこか寂しげだ。
学校への道を淡々と歩きながら、私は最後の一枚が落ちるのを見届ける。
「律、勉強はどうだ?」
「カスだな」
「私のセリフをとるなよ」
「……今の、けっこう酷いぞ?」
軽く笑うと、目の前に白い霧が広がった。
澪の口元からも、白く小さく吐息が漏れていた。
「でも律、本番まであと2ヶ月ちょっとなんだぞ」
「世の中には一週間の勉強で東大に受かった人間もいるらしい」
「そりゃあ、いるかもしれないけどさ……」
呆れたようなため息。くどくどと説教されるよりも、ずっと堪えた。
「わかってるって。私は凡才なんだろ?」
「凡才っていうか……いや、まあそうか」
私に平凡ならざる才能があれば、一週間で東大、なんて話もあるだろう。
だけれど、もちろん私はそんな学才を持ち合わせてなどいない。
子供のころから実直に勉強をしている澪と同じ高校に来ていることを考えれば、
多少は出来る方なのかもしれないけれど。
今回澪につけられた差は大きすぎる。受験勉強を始めて、身にしみた。
「15年」
私は呟く。
「ん?」
「15年間、澪は秀才として、私はバカとして生きてきたけど」
「高校は結局同じところに行ったよな」
「そうだな。あの時の律の末脚はすごかった」
「それで、今回は3年間だけだろ」
「あぁ」
「おかしくないか? ……どうして追いつけないんだよ」
いつの間にか、肩が震えていた。ようやく寒さに体が慣れてきたところだというのに。
「そうか? 律もだいぶ差を詰めてきたと思うけど」
澪の言っていることは、あながちお世辞でもない。
受験勉強を始める前の成績を思い出せば、私は澪のレベルにだんだん迫って来ている。
「ははっ」
でもそれは、私が急速に伸びているからじゃない。
澪が伸び悩んでいるから、少しずつ私が近づいてしまっているだけだ。
「まあ、そろそろ本腰入れますよ……」
強張った背中を伸ばし、私は何度目になるやら分からない言葉を空に投げた。
放課後の音楽準備室には、既に西日が射してきていた。
「日が暮れるのも早くなったねぇ」
しみじみとティーカップを口元に掲げる姿は、まったくいつもの唯だ。
「そうですね……」
対して梓は、どこか歯切れが悪いように見えた。
「……」
ムギは目もくれず、勉強に腐心している。
ムギに限って言えば、私たちが一緒に目指すN女子大なら、とうに模試でA判定をもらっている。
私には、そこまで登り詰めてなお頑張れる理由がわからなかった。
「律、聞いてるのか?」
「エックスは53だ」
「それはお前の偏差値だろ」
「ありゃ」
日がすっかり落ちるまで、私たちは勉強に勤しんだ。
未だに新しく覚えることが多い。世間の受験生はもう反復の段階に入っているらしい。
そう聞くと、焦りを感じないでもない。
「……」
梓は「ふでペン~ボールペン~」を、小さな音で一人練習していた。
そのイントロはどこか切なげで、ソファに腰かけた矮躯によく似合っている気がした。
夏合宿の夜、唯と二人で練習したフレーズらしい。
最終更新:2010年10月12日 22:30