子供のような梓の背中を見ながら、私は梓の心中を察する。
その時、急に梓が振り返った。
「……なんですか、律先輩?」
「いんや?」
私はずいぶんとへたくそに笑顔を作った。
「ぷふーっ」
時計が6時を指したところで、火山が溶岩を噴き上げるがごとく、唯が肺にたまった空気を吐きだした。
「もう限界だっ! ザッツイット!」
参考書類をバタバタと閉じ、カバンに投げ込んでいく。
「そうだな。あんまり暗くなるといけないし」
「そろそろお終いかしらね」
澪もムギも勉強を切り上げて、伸びをした。
もっとも、唯がしびれを切らした以上、勉強を続行することは不可能なのだが。
「帰ってもちゃんと勉強しろよ?」
私は自戒の意味も込めて、唯を小突いた。
だが、唯はぺろりと舌を出していじらしい笑みを浮かべた。
「やだなぁ、当たり前じゃん」
私が唯に敗北した日だった。
その夜、夕食を食べ終えてから私は憂ちゃんに電話をかけた。
コール音を聞きながら、一体何をこんなことに拘ってるのやら、と自省する。
唯が勉強しているというなら、それでいいじゃないか。
『もしもし、律さん?』
考えているうちに、憂ちゃんが電話に出た。
「やっほ、憂ちゃん」
『どうされたんですか? 律さんから電話なんて』
「いや、ちょっと唯がいま何してるか気になってさ」
私は正直に答えた。
そもそも自分の気持ちがどうなっているかも分からないのに、嘘も正直もないだろうけど。
『お姉ちゃんですか?』
「あ、うん」
ちょっとだけ、憂ちゃんの声が尖ったように感じた。
それもそうだろう。こんな用件なら、唯に直接電話すればいい。
『えーと、お姉ちゃんは今……部屋で勉強してるはずですけど』
「様子を見てくれないか?」
『ええ、いいですよ』
スリッパを履いた、パタパタという足音がした。
平沢家では、唯の体質ゆえにエアコンが使えない。
寒い時期になると、素足や靴下では床が冷たすぎるのだろう。
相変わらず、憂ちゃんも苦労させられていると思う。
何となく、私は安堵していた。
『でも、どうしてですか?』
足音のリズムが変調する。階段を上りはじめたのだとわかった。
「いや、なんか……分からないんだけど、気になる」
はぐらかすような私の言葉。しかし、感情が定まらないのも事実だった。
『ふうん……』
憂ちゃんは興味なさげに鼻を鳴らした。同時、足音が止む。
『お姉ちゃん、入るよ?』
ドアノブが捻られた。蝶番が軽く軋む。
『……』
か細い声が電話口に届いた。
『ごめんなさいっ!』
憂ちゃんの悲鳴と、勢いよくドアが閉められる音が、ほぼ同時に鼓膜を震わせた。
うん、だいたいわかった。
『どどど、どうしよう、りっちゃん!!』
「落ち着こうか憂ちゃん。敬語とれてるよ」
この慌てようから察するに、憂ちゃんのほうも初めて見てしまったのだろう。
私もする時はきちんと警戒するから、弟に見られたことはない。
同じ家で暮らしていても、こういう事件は意外と起こらないものだ。
『お、おお姉ちゃんがオナ、オナッ』
『コルクボードからですね、写真が一枚、画鋲だけになってて』
これ以上余計なことを聞いてしまわないうちに、私は電話を切った。
邪魔してごめん、唯。力になれなくてごめん、憂ちゃん。
カバンから英単語帳を引っ張りだすと、無心に単語の羅列を見つめ続ける。
「……コルクボードの写真が?」
しかし、名詞のページまで来たところで、私の思考はまたその事に引き戻された。
ドアが開いてから閉じられるまで、5秒ほどあった。
私だったら、かくも異常な状況下で5秒のうちにコルクボードを確認できるだろうか。
「いやいや、論点はそこじゃないだろ」
問題は、憂ちゃん曰くコルクボードから写真が一枚消えていたことだ。
「画鋲だけになってて」とは、恐らく写真のあった場所に画鋲が刺してあったという意味だろう。
唯はあれでいて、ものの整理はきちんとしている。
写真をアルバムにしまったとすれば、画鋲はコルクボードの隅に追いやられるはずだ。
同じ場所に画鋲を残しておいたのは、すぐまた写真を飾りなおすつもりでいたから。
要するに、写真を手にとってじっと見つめる必要があった。
その必要性が生じる場合となると、二つしかない。
思い出に浸るか、オナニーに使うかだ。
思い出に浸っていたら、オナニーと見間違われた。そんな状況は想像つかない。
何より、唯をずいぶん神格化している憂ちゃんが「姉がオナニーをしている」と判断をつけたのだ。
思うに唯は、相当あられもない姿で耽っていらっしゃったのであろう。おいたわしや。
さて「唯はコルクボードに貼っていた写真でオナニーをしていた」。これが証明できたところで次の命題だ。
写真に写っていた人間は誰か?
1年の春、唯の家で勉強会をした時には、コルクボードには中学時代の写真が多かった。
中には男子と写っている写真もあり、唯はこの男の子が好きだったのかな、と想像を巡らせもした。
しかし次に唯の家に来た頃には、ほとんどが軽音部で撮った写真に貼り替えられていた。
夏フェス前には、中学時代の唯の写真はどこにもなくなっていた。
必死に記憶の糸を手繰る。コルクボードに貼られた写真の面子を、一人一人思い出していく。
唯、澪、私、ムギ、梓、和、憂ちゃん、さわちゃん。
自分自身ということはないだろうから、候補は7人。
「唯の好きな奴か……うーん」
なんとなく、憂ちゃんは違うような気がする。
唯の憂ちゃんに対する接し方を見ていても、そこに恋愛というものは感じられない。
あと、妹でするとしたら、写真よりもっといいものがあるはずだ。
それから、さわちゃんには感謝こそすれ、恋愛感情はやはり見えない。
写真に写っている枚数も、そう多くない。
候補は5人に絞られた。
その内に私も含まれているというのが、ちょっと怖いところではある。
しかし、私の思考は留まるどころか、どんどん暴走を進めていった。
この中で唯が特に好んでいる人間というと、やはり梓だろう。
他は甲乙つけがたい、といった感じだ。
脈絡なく抱きついたり、専用の「あずにゃん」というあだ名で呼んだり、
せっかくの僥倖だった部費を梓のために使ってあげたり。
そうと考えてみれば、あまりに怪しい。
梓かもしれない。
そう思った矢先、私の頭の中に赤いアンダーリムの眼鏡が飛来した。
「そうか、それも有り得るな……」
憂ちゃんの次に唯と付き合いが長い幼馴染だ。
真面目で世話焼きな性格で、私自身もずいぶん助けられている。
和がいるからこそ、唯は今日まで生きてこれたと言っても過言ではない。
幼いころからの、数多の感謝。それが唯の中で恋愛感情へと昇華していてもおかしくはない。
梓か、和か。ここに来て、思考は詰まった。
「……これは、唯に直接問いただしてみるかな」
憂ちゃんに電話をした時以上に、私は自分の意志がわからなくなっていた。
何を思って、私はこんなことを勘繰っているのだろう。
唯が誰をオカズにオナニーしていようが、そんなの本人の胸に留めておけばいい事なのに。
単語帳をちらりと見る。
「……ああー」
そして私は、手を打って納得した。
「frustration」
アクセントを強めに発音して、私は箪笥からタオルを引っ張りだす。
さて、どんなことを考えようか。
――――
私はどろどろした気分で朝を迎えた。
昨夜の痴態を恥じ入る気持ちでいっぱいだった。
「うわあ……」
流行りのアイドルに抱かれるのは好きじゃない。
かといって知り合いの男と言えば、父と弟、中学の同級生くらいのもので、これもあまり興味がわかない。
だからいつものように私は、架空の男に抱かれる妄想をした。
だけれど、昨日はそれでも気分が乗らなかった。
やがて、想像は昨夜の唯へと後戻りをしていく。
私は唯の自慰を克明に想像しながら、なんだかいやらしくなった手つきで性器に触れて、
いつしか私は、今までにないほど高くのぼり詰めたオーガズムを迎えていた。
「……目覚めそうだ」
布団にくるまれ、大きく目を開いたまま、私はそんなことを呟いた。
もう目覚めてるだろ。
ふと、携帯のイルミネーションがチカチカ光っているのに気付いた。
開いてみると、メールが2件来ていた。
どちらも唯から送られたもので、2回に分けて
『何もなかったからね』
『私を見習って、ちゃんと勉強するんだよ!』
というごまかしが綴られていた。
自爆してるぞ、唯。
『昨日はしっかり勉強したぜ!
田井中律という人間の新たな歴史をな』
私は正直に答えた。
やや不可解な文面。唯はどう受け取ってくれるだろうか。
真意を理解したなら、これで痛み分けということにしよう、唯。
返事はすぐに返ってきた。
『昼休み、屋上でね』
胸の奥が震えるのを感じた。
私はゆっくりとベッドから起き上がり、顔を洗うために階下に降りた。
頭の中を、さまざまな想像が渦巻く。
冬の早朝の、凍てつくような水を顔にかぶる。肌がきゅっと縮こまった。
「……」
パイナップルのような頭をした私は、鏡の中で憔悴しきっていた。
何を恐れているんだ。
大方、昨日のことを言いふらさないよう念を押されるだけだろう。
そうだ。きっと、そんなところだ。
「唯……」
彼女の名前を口に出す。
ふるふると震える、奇妙な感情が去来した。
今日は1限から古典の小テストが控えている。
私は澪に「勉強したいから先に行ってる」とメールを送ると、支度を済ませてカバンを背負った。
「はっ、はっ」
目前にかかる靄を振り払うかのように、私は冬空のもとを駆けていく。
寒気が耳をじんじんと痛めつける。こんな寒い日なのに、こめかみを汗が流れていった。
何がしたいんだ、私?
どうして澪を避けるような態度をとっているんだ?
「はっ、はっ」
受験のストレスでおかしくなってしまったんだろうか。
でもそれだったら、ムギのほうが兆候があるだろう。
悠々とゴールに向けて闊歩している私と、
優勝がほぼ確定しているのに全力疾走を続けるムギ。
比べてみれば、私の頭がおかしくなる要素なんてどこにもない。
「……っ!」
足を止める。
荒く吐かれる息が、私の不安を煽った。
いま私の頭をよぎったのは、受験勉強に傾倒するムギへの心配ではなかった。
「はぁっ……」
大きく吐息をつくと、私は自らの頬を平手で打った。
「置いてけぼりは私だけだぞ……」
唇をひきしめ、反対側の頬も打つ。
「おかしくなってる暇なんてない……」
それでも、私の心にはわだかまりが残っていた。
朝早く来て勉強しただけあって、小テストの手ごたえは上々だった。
といっても、私以外の受験組みんなには、あの問題は簡単すぎるようだ。
次の休み時間、その次の休み時間も、小テストの出来について話題はのぼらなかった。
「……」
つくづく自分の遅れ具合にため息が出る。
3限目の授業が終わり、机の上に脱力して倒れ伏していると、トコトコと唯が駆けてきた。
「りっちゃん、早弁しない?」
「あぁ……」
私はその目を見れずに、曖昧に返答した。
想像にせよ、唯をオカズに自慰をしたことを思い出してしまう。
頬に赤みがさしてくるのを感じる。気付かれないように、私は顔を隠した。
「屋上、ちゃんと来てね?」
「うん、行くよ……」
そういえば、そんな約束もしていたっけ。
私は弁当箱を引き出しながら、一方的に取り付けられた約束を思い出す。
頭がぼんやりして、ちっとも働かない。
あるいは、その方が都合いいかもしれないけれど。
「うめー……」
少なめのご飯は、噛んでも味がしなかった。
対する唯のほうは、幸せそうに卵焼きを頬張っている。
まだ、いつもの唯に見える。
授業が終わる。
私は休み時間のうちに食べきれなかったウインナーを胃袋にしまう。
唯はといえば、昼休みが始まるなり屋上へと走っていった。
「あれはどうしたんだ?」
澪に訊かれたが、唯の名誉のために知らぬ存ぜぬを貫き通した。
「さあ? ちょっと私、探しにいってくるよ」
「……うん、頼んだぞ」
澪はあまり釈然としない顔をしていたけれど、結局は私にゆだねてくれた。
これはしっかりしないと。
緩慢な動作で弁当箱をしまうと、私は歩いて屋上へ向かった。
最終更新:2010年10月12日 22:33