屋上の重い扉を開くと、高いフェンス際に、私に背を向けた唯が立っていた。

 肩までの髪をなびかせ、雲を見つめている。

「……りっちゃん」

 ゆっくりと振り返ったその顔に、いつも感じる「唯らしさ」は存在していなかった。

「……唯、来たぞ」

 昼休みの喧騒が聞こえる。

 円陣バレーボールをたしなむ生徒、友人と大声で笑い合う生徒。

 そして屋上を走る北風の笛の音さえも、遠い。

 ある種の静謐が、私と唯の間にあった。

「……」

 鈍重な足取りで唯に近づく。

 唯はやわらかく、白いフェンスに寄り掛かった。

「制服汚れるぞ」

「いいよ、べつに」

 私の忠告には耳を貸さず、唯はまた雲を目で追い始めた。

「……りっちゃん。昨日のこと、知ってるよね?」

 唯の表情は、一切の冗談を許しそうにない厳しいものだった。

 おちゃらけることもできず、私は正直に答えた。

「……その、一人でしてたんだよな」

「うん。そうだよ」

 至って簡潔な唯の返答。表情にも変化は見られない。

「……えっと。それで?」

「へ?」

「それ、だけか? 唯」

 これだけなら、わざわざ呼び出してまでする話だろうか。

 メールでも十分なレベルだ。

 実際に会って確認したい気持ちは分からなくもないけれど。

「りっちゃんこそ、それだけ?」

「……なに?」

「私に訊きたいこととか、ない?」

 どうして唯は、こうも私の気持ちを言い当ててくるんだろう。

 背筋がゾクリとした。

「いや、そんなことは」

 慌てて両手を振る。けれど、唯は不満げに頬をふくらませた。

「そっか……りっちゃんって嘘つきなんだ」

「嘘なんてついてないよ」

「ううん。うそつきだ」

 一方的な唯の物言いに、腹の奥が熱くなった。

 こっちだって、遠慮して訊かないでいてやってるのに。

「じゃあ、一つだけ質問させてくれよ」

 私はニヒリストぶって言った。

「うんっ」

 唯が嬉しそうに微笑む。

 私はきっと、意地悪な表情になっていただろう。

「一体、誰にやられる妄想でオナニーしてたんだ?」

「あずにゃん!」

 唯は即答した。

「あずにゃんだよ!」

 元気たっぷりに。

「……いや、その」

 そんな自信満々に言われると、こっちが赤面してしまう。

「でもね、ちゃんと言うと、私があずにゃんをヤる妄想だからね」

 人差し指を立てるな。なんの注釈だ。

「……」

 私が言葉に詰まっていると、唯も黙ってしまった。

 さっきのような静寂が戻ってくる。

 これはまずい。

「あー、そっか、そうなんだ……」

 意味の薄い言葉を呟く。

「うん……」

「……」

 何なんだろうこれ。

 唯は私に何て言って欲しいんだ?

 とにかく、私の思うことを言ってみよう。

「……唯って」

「ん?」

 言葉は慎重に選びながら。

「唯って、その……女の子が好きなのか?」

「……そうなんだ。ごめんね」

 唯はそこで初めて、悲しそうな目をした。

「軽蔑するでしょ、こんなの」

「……っ」

 泣き出しそうな目で自分を貶める唯を見ているうち、私は唯を抱きしめていた。


「あ、え……?」

 困惑した声。唯が目を白黒させているのが、容易に想像できる。

「相談したのが、私でよかったな」

「……」

「安心しろよ、唯。少なくとも私は味方をしてやる」

 唯を抱きしめる力が強くなる。

「い、いたいよりっちゃん……」

「大丈夫だから、一緒だから……」

「……りっちゃん」

 私は昼休み中、唯を離さないでいた。

 おそらく傍目には、私が唯を慰めているように見えたと思う。

 本当はどうなのか、知っているのは私だけだった。


「りっちゃん、予鈴鳴ってるし……」

「あ、ああ」

 風が抜けるように、唯の体は私から離れていった。

「……ありがとね、りっちゃん」

「お礼言われるようなことはしてないって」

「でも、助かったよ。……私、ずっと理解してもらえなかったから」

「……唯も意外と苦労してるんだな」

 ぼんやりと私は呟いた。

 唯はくすっと笑って、重たい扉を開けて教室に戻っていった。

「……」

 私は唯と同じようにフェンスに寄り掛かって雲を見つめる。

「……私も、一緒なのか」

 自分で唯にかけた言葉を思い返し、私ははぐれ雲に呟いた。

 押しつぶすような冬の空が広がっていた。

「……なんか、違う気がする」

「私は……何なんだ?」

 嘘を吐いた感覚はない。

 ただ、自分の言葉には違和感があった。

「……」

 もう少し、考えがまとまるまで切っ掛けが必要だと感じた。

 私はフェンスから肩を離して、教室に戻ろうとする。

「ん?」

 だが、屋上の重厚な扉が動き出したのを見て、私は足を止めた。

 扉の向こうから現れたのは、真っ黒な髪をツインテールにした少女。結んだタイは赤色だ。

「……梓。どうした?」

「律先輩こそ……」

 梓は私の傍らまで歩いてくると、並んでフェンスに寄り掛かった。

「授業始まるぞ?」

「なんか古典って気分じゃないんですよね」

「あるある、そういうの」

 私は乾いた笑いを上げた。

 梓と話しているだけで、奇妙な重みが肩に乗りかかってくる。

「そうなんですか?」

「うん。何かよくあるだろ、『今は英語だけは勘弁して』みたいな」

「……そんな単純なものじゃないですよ」

 梓は細く長い息を吐く。

「律先輩、古典ってなんのためにあるんですか?」

 そして、月並みな問いを投げかけてきた。

「……受験科目、だからだろ」

 そして私も、何の捻りもない答え。先輩失格かもしれない。

「そういう質問じゃないですよ」

「えっ?」

「どうして、大昔の人間が書いた文章が残るんでしょうね」

「そして、どうして皆でそれを読むんでしょうね」

 梓も雲を見つめていた。

 ツインテールがどこかへ行かないように、背中とフェンスの間に挟んでいる。

「……話が見えないぞ」

「最後まで聞いてください」

 私は軽く頷いた。

「いま、古典では更級日記をやってるんですよ」

「菅原孝標女?」

 私が言うと、梓は目を丸くした。

「よく知ってますね」

「バカにしてんのか」

「……更級日記は、回想形式なんですよ」

「知ってるよ。オバサンが若かりしころを思い返してるんだろ」

 梓がほうっと息を吐いて、俯いた。

「どんな気持ちで書いていたんでしょうね」

「昔の自分を……源氏物語に夢中になっていた自分を、どんな気持ちで記したんでしょうか」

「……」

 梓の言いたいことは、いまいち分からなかった。

 それでも私は、梓の横顔をじっと見つめていた。

「……でも悲しいですよね。今となっては、懐かしむ自分すらいない」

「どんな物語でも終わってしまうんです……どんな時間でも、過ぎてしまうんです」

「そうだな……永遠って無いんだよな」

「……私、終わってしまうのが嫌です」

「永遠に、ここで……皆さんと夢中になっていたいです」

「梓……」

 そんなことを言うな。

 私だって気持ちは同じだ。

 だけど、私たちはもう駄々っ子をやっていい歳じゃない。

「……ずっと、一緒がいいよな」

 思考に反して、私はそう言った。


「一生じゃなくて、永遠にって……そう思う」

 かっこ悪いな。

 私は梓の背中を押さなきゃいけないのに。

 そっと梓の肩を抱き寄せる。

「2年間じゃ、ぜんぜん足りないです……」

「なんで、なんで終わっちゃうんですか……」

 梓の小さな肩が震えないよう、力を込める。

「終わらないよ……大学に行っても、放課後ティータイムは続けよう」

「それでも、あと4年だけですよ?」

 言葉に詰まる。

 時間が動いている限り、いつか終わりは来てしまう。

「……私たちのやってることは音楽だろ。音楽は金になるんだから」

 言いながら気付く。それも、いつかは終わるものだ。

「……ごめん、梓」

 後輩の肩の震えも止められない、私の弱い左腕。

「いえ、いいんです……」

 どうして時は戻らないんだろう。

 止まってくれないんだろう。

 そんなに急いで私たちを運んでいって、時は一体どうしたいんだ。

「なぁ、梓」

「はい……」

「まだ、たくさん猶予はあるんだからさ……涙はとっておけよ」

「……う」

 どんなに止めたくても、止まってくれるものじゃない。

 時と涙は似ているな、と私は思った。



――――

 私たちは、そう上手い演奏ができる訳じゃない。

 新曲の演奏が形になるまで、かなり時間もかかってしまう。

 プロにはなれない。

 放課後ティータイムは、あと4年きりだ。

『そっか……あずにゃんがそんなこと言ってたんだ』

「すごく思いつめてたからさ。唯からも、安心しろって言ってやってほしいんだ」

 私はその日の夜、唯と電話で話していた。

 私に止められなかった涙も、きっと唯になら止められると思ったからだ。

『わかった。あずにゃんを励ましてみるよ』

「……よろしく」

「なあ、唯。聞いてもいいか?」

 なんだかんだで、私も結構精神的に参っていたんだと思う。

『うん?』

「時間って、止められる?」

 そんなことを尋ねていた。

『時間……? 時間は止まらないよ、りっちゃん』

 唯の答えは、当然のものだった。

 時は止まらない。サルでも知ってる常識だ。

「そう、だよな」

『まぁ私も、時間が止まったらいいなとは思うよ』

『勉強時間、ぜんぜん足らないし』

「ははっ、ほんとだな」

 唯のその言葉を聞いた時。

 梓の涙を拭くハンカチを唯に持たせて良かったのかと、少し惑った。

「……でもさ、唯」

『なに、りっちゃん?』

「もしあと1年あったら……やっぱりもう1年、軽音部をやりたいよな?」

『もっちろん、当たり前だよ!』

 唯の声が、とたんに活気づいた。

 かと思うと、すぐにまたしおらしくなる。

『……そんなこと、訊かないでよ』

『りっちゃんのバカ』

「……ごめん」

 電話口の向こうで、鼻をすする音がした。

「唯……大学行っても、私たちは放課後だからな。終わったり、しないから」

『うん……ぐしゅ』

「……じゃ、切るから」

 これ以上、泣き声を聞いていれる自信がなかった。


「勉強、がんばろうな」

『切っちゃうの……?』

 唯のすすり泣きが、涙腺を刺激した。

「私まで、泣いちゃいそうで」

『そっか……しょうが、ないね』

『おやすみ。りっちゃんも、がんばって、ね』

「ああ……おやすみ」

 私の声も震えていた。定まらない親指で、終話ボタンを押す。

「すぅー……はぁー……」

 深呼吸をして、唯の泣き声を頭の外に追いやる。

「勉強だ、勉強」

 私は黄色いシャーペンをとると、一心不乱に歴史用語を書きつづる。

 これも過去だな、と私は思った。


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最終更新:2010年10月12日 22:35