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「おはよう、律……」

 朝、私の顔を見た澪は、歩き出そうとした姿勢のまま硬直した。

「……なんだよ」

「どうしたんだよ、その目……」

「私だってひとり泣きたい夜くらいあるんですよー」

 澪は深く追求してこなかったが、登校中もちらちらと私の目元を見てきた。

 赤く腫れた目元は、私が昨夜泣いていたことをはっきり伝えている。

「昨日、唯となにかあったのか……?」

「いや。ちょっとアンニュイになっちまっただけだよ」

「……卒業するから、か?」

「……そんなとこだ」

 流石は幼馴染みってところか。あるいは、私はサトラレなんだろうか。

「私たちも、いつか離れ離れになるのかな」

 澪が、うつむき気味に白い息を吐く。

「……」

「大学が忙しくなって、就活とかやって、会社で働いて」

「結婚して、子供産んで、おばさんになるうちに」

「いつか、律とも会わなくなるのかな」

「放課後ティータイムでベースを弾いていたこと、忘れちゃうのかな」

「……そりゃあ、いつかはな」

 永遠に一緒にいられることなんてない。

 人間の命にも限りがある。

「小学校のころからずっと一緒に居ようと……永遠に一緒にはなれないからな」

「そう、か……」

 澪は落胆して、ちょっと歩くスピードを遅くした。

「……それは、悲しいな」

「うん……」

「でもいつか、絶対にそんな日が来ちゃうんだろうな」

「そうだな……なんでか、それだけは絶対なんだ」

 澪の足が、動かなくなっていく。

「……みお」

 右手を伸ばして、澪の左手を掴んだ。

「……うん」

 私に手を引かれると、ゆっくりと澪は歩き出す。

「腹立つよなぁ、澪」

「なんで大嫌いな数学は無限ばっかで、私たちには永遠がないんだっての」

田井中律じゃなくて円周率になりたかったよ」

 私がぼやくと、澪は首をかしげて厭そうな顔になった。

 渾身のネタを挟んでみたんだけど、くすりともしない。

「でも、円周率じゃ演奏できないぞ」

「紅茶だって飲めないし、海を泳ぐこともできない」

「そもそも、お話しできないだろ」

「だったら私は、有限でもこのままがいい」

 言葉の終わり、澪の声がちょっと震えた。

「……そっか」

 この楽しさは、永遠との対価なんだな。

 数字の世界を想像して、私はちょっとげんなりする。

 澪の言うことも、もっともだと思った。

 輝きと永遠。

 私たちは、わがままを言いすぎているんだろうか。



 放課後。

 湯気の立ち上るティーカップ。

 梓が奏でるギター。

 ノートを削る黒鉛。

 トンちゃんの水槽のポンプ。

 唯にシールを貼られた鏡。

 運動部の揃った掛け声。

 落書きだらけのホワイトボード。

 音楽準備室。

「……」

 目に耳に、失いたくないものが飛び込み続ける。

 この場所は、この時間は、輝いている。


 どうして、ここから去るために努力をしなければいけないんだろう。

 モチベーションが上がるわけない。

 私は大きく背中を反って、壁に頭をつけた。

「このままで、いいよな……?」

 唯が手を止めて、私に振り返る。

「このままがいいね……」

 そしてまた、勉強を再開する。

「なぁ、ムギ」

 私は疑問を我慢しきれなくなって、対角に座っているムギを呼ぶ。

「どうしたの?」

 ペンを持ったまま、ムギは顔を上げた。


 ずっと不思議だった。

 とうに合格ラインを突破しているムギが、何故ここまで勉強にこだわり続けるのか。

「どうしてムギはそんなに頑張れるんだ?」

「N女はとっくにA判定をもらってるんだろ?」

 ムギはやわらかい微笑みを浮かべた。

「そんなの、みんなと一緒の大学に行きたいからに決まってるじゃない」

「……いや、でも。だったらもう十分じゃないのか?」

「偏差値的にはもう余裕だろ。少しくらい休んだって……」

「りっちゃん。覚えた事って案外すぐ忘れてしまうのよ」

 唯がうんうんと頷いている。

 お前は別格だと思う。

「それに、見えないところできちんと休んでるから。心配しなくても大丈夫よ」

「そっか? ならいいんだけどさ……」

「なんかムギ、慎重になったな」

「そうかしら?」

 ムギはきょとんとする。

 自覚はないようだけれど、以前のムギはもっと猪突猛進なところがあった。

 後先考えないというか、自分の気持ちに忠実というか。

「ああ。でも、悪い事じゃないぞ」

「そうだね。ムギちゃんが成長したって事だよ」

 唯が鼻をふくらます。

「いや、なんでお前が自慢げなんだ」

「ふふ……。成長、そういうことにしておこうかしら」

 苦笑して、ムギはちょっと引っかかる言葉で納得を示した。


「……」

 時刻は6時10分。

 唯が時計を気にし始めた。

 もう一度、用語集に目を落とす。

 けれどその目線は文字を撫でるのみで、まったく頭に入っていないようだ。

 ああ、天井を向いてしまった。

「ふっぷすー!!」

 頑張っていたけれど、今日もここらで噴火である。

 唯は息を噴き、足を机にぶつけながら強引に立ちあがる。

「もうゴールしてもいいよね? ねぇいいよね?」

「あかん唯ちゃん。ゴールしたらあかん」

 ムギが流暢な京言葉で返す。

「ゴールはともかく、そろそろやめにしとくか」

 澪が時計を見て、ノートを閉じる。

「んじゃ、帰るか……」

 ここを私たちの自習室として使う上で、実は事前に取り決めがあった。

 澪が許可を出すまで、帰ってはいけないというものだ。

 ルール自体はとっくに形骸化しているが、私としては基準があるのはありがたい。

 そういう基準がなければ、勉強に疲れた時点で帰ってしまうかもしれないからだ。

 澪の言葉を聞いて、私もノートを閉じてカバンにしまう。

「あーずにゃん!」

「にゃぁっ!?」

 唯は早速片づけを終えて、梓に抱きついている。

 見慣れた光景だけれど、唯の気持ちを知っている以上、純粋な気持ちで見ていることはできなかった。

「またやってるのか……」

「仲が良くていいじゃない。ねぇりっちゃん?」

 澪とムギは、いつも通り遠巻きに眺めている。

「ほらほら、その辺にしとけって」

 私も、普段通りに歩み寄って、唯の肩に手を置こうとした。

 しかしきっと、唯の気持ちを知っている私は、いつもと何かが違ったんだろう。

「やっ」

 伸ばした手は、唯に払われてしまった。

 そして一層強く、梓を抱きしめる。

「も、もう……苦しいですよ唯先輩……」

「……ごめんね、あずにゃん」

 謝りながら、唯は梓を離さない。

 すがりつく姿は、昨日の私のようだった。

「……あの」

 梓が唇を舐めた。

「律先輩、すいません……先輩方は、今日はもう帰ったほうが」

「唯先輩は私がみておきますから」

 梓の目は唯の陰になっていて、どんな瞳の色をしているのかは分からなかった。

 なんにせよ、私ではどうにもなりそうにない。

「澪、ムギ。帰ろう」

 私は二人に声をかけた。

「けど……」

「いいんだ。梓に任せた方がいい」

 澪は少し渋ったが、私に押されると素直に音楽室を出ていった。

「唯、どうしたんだろうな……」

 帰り道、マフラーの高さを直しながら澪は心配そうに言った。

「おセンチなんじゃないの。私と一緒でさ」

 澪は私の右手に触れてきた。

「センチメンタルって、人肌恋しさみたいなものかな」

「どうかな……人との関わりでセンチメンタルになるやつもいるからな」

 澪の手を握り返す。当然のように手を繋いで、私たちは帰路を歩いていく。

「……澪、知ってる?」

「うん?」

「百合の対義語は、薔薇って言うんだ」

 澪がげんなりとした表情になる。

「……どうでもいい知識だな」

「今の言い方で、意味わかるんだ」

「えっと、まぁ、な」

 からかわれたのに、澪は怒るでもなく少し顔を紅潮させた。

「女子高だと、いくらかそういう話も耳にするしな」

「耳年増」

「なんでそうなる」

 今度は怒られた。

 澪のツボはよくわからない。

「だいたい律だって同じだろ」

「正論だからって何でもかんでも言葉に出したら友達なくすぞ」

「律は友達じゃなくなる?」

「なんでそうなる」


 タイムリミットがあるのは知っている。

 けど、だからといって澪と友達じゃなくなる日はどうしても想像できなかった。

「……律と友達ならいいや」

「私も、友達ならいいけどさぁ……」

 そう。

 ずっと友達でいられるなら、ちょっとくらい傷つけられても構わない。

 だけど、私の心はなんだかちくちくする。

「……あんまり、言いまくることじゃないな、こういうことは」

「うん……私も言いたくない」

 澪は私の手をきゅっと握った。

 私も軽く握り返す。


 未知の気持ちが私を包んでいく。

「澪、知ってる?」

「なんだ……?」

「唯って、梓のことが好きなんだって」

「……へぇ」

「また、どういう意味か訊かないんだな」

「話の流れを汲めばわかるからな」

 呼吸の速い私とは対照的に、澪はずいぶん落ち着いている。

 私は澪の手を握る。

 澪の包み込むような大きな手が、私の手を握り返す。

「……ねぇ」

「……律、知ってる?」

「なに?」

 心音が異常に高鳴っている。

「ムギもな、そっちらしいぞ」

 私たちの言葉は、どんどん簡潔になっていく。

「……それは、なんとなくわかってたけど」

「むぅ。じゃあ、これは知ってるか?」

「な、なに?」

「……私もだ」

 全身に、甘い痺れが走った。

 唯に性癖を告白された時とは全く違う、幸福な感覚。

「……それは、知らなかったわ」

「そっかそっか」

 澪は満足そうに、笑みをたたえた。

「じゃ、じゃあこれは知ってるか?」

 私は、あるいはすべてを捨て去る覚悟をして、唾をぐっと飲み込んだ。

「何だ?」

「……私もだ」

「……意外だな。律はノーマルだと思ってた」

 私は耳まで赤くなっていた。

 なんとか気取られないよう、マフラーを必死で持ち上げる。

「なら……これは知ってるか、律?」

 澪はまだこれを続けるつもりのようだった。

 勘弁してほしい。これ以上続けたら、本当に恥ずかしさで倒れそうだ。

「……なんだよ」

「もう、私の家に着いちゃった」

 澪の声が、悲壮そうに吐き出された。

「……」

「じゃあ、ここで……だな」

 喜びとも落胆ともつかない感情が、私の中でわだかまりを作った。

「律」

 去ろうとした私を、澪が呼びとめた。


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最終更新:2010年10月12日 22:36