星は時に気まぐれなことをする。
ある時はこの青い星に惹きつけられ、熱を上げて燃え尽きてしまう。
またある時は燃え尽きずに、地上に落下して隕石と名づけられる。
地上に住む者に一定の時間、無敵の力を与えることもある。
そして、稀にこんなことも……。
「冷えるわね、りっちゃん」
「おお、もうすぐクリスマスだからな」
それは、街に色とりどりのツリーが立ち並ぶ季節。
唯達軽音部は楽器店にいた。レフティフェアが開催されるので、澪の希望で来たのだ。
「おーおー、熱心に見ちゃって。何も買わないからなー」
澪の顔いっぱいに、無邪気な子供の笑みが咲いていた。律の声も耳に入らないようだ。
店は穏やかなクリスマスソングに包まれている。胸に熱いものがこみ上げてくるような、優しい音色。
「何かいい曲が流れてるけど、これ、何なんだ?」
「オルゴールフェアもやってるのよ。この季節はけっこう売れるの」
「オルゴール、ねえ。音楽はロックに限るよ。なあ唯」
「……」
唯の返事は返って来なかった。彼女は澪とは別のウィンドウに釘付けになっていた。
両の手をガラスに貼り付けて。いつになく真剣な眼差しで。
「なーにを真剣に見てんだよっ」
律が唯の背中をどやしつける。だが彼女の返事は上の空だった。
「んー……ちょっとね」
唯の熱心な視線は、一つのオルゴールに注がれていた。
それは、ガラスのドームに包まれた回転木馬のオルゴールだった。底のネジを巻くと、木馬が回りだすのだ。
木馬には、一人の少女がちょこんと腰掛けていた。黒い髪をツインテールにして、純白のワンピースを着た少女。
「なんだ、これがほしいのか?」
「……うん」
唯は相変わらず上の空だ。律はふと、ここにギターを買いに来た日のことを思い出す。あの時も唯は、一つのギターに熱を上げていた。
「買っちゃおうかな……」
「おいおい、衝動買いは止めておけよ」
「……どうしてもほしいの!」
唯の声はどこまでも真剣だった。
「どうしたの?」
ムギが声をかける。
「唯がこのオルゴール買いたいんだってさ。お前、小遣いはあるのかよっ?」
「お母さんからもらった五千円あるから大丈夫、だと思う」
やれやれ。律は呆れたような笑みを浮かべる。今更何を言っても、唯の熱意はどうにもできないだろう。
「あのー、こちらのオルゴール、売っていただけないかしら?」
紬が店員に声をかける。
「あ、お客様すみません。実はそちらは非売品でして」
「……売っていただけないかしら?」
「ひっ!?」
瞬間、店員の全身を凍りつくような戦慄が駆け抜けた。
そう。穏やかな笑みを浮かべて仁王立ちしているこの少女は、紛れもなく社長の娘なのだ……!
「……で、でしたら五千円でいかがでしょう?」
「もう一声~」
「で、で、でしたら三千円で!三千円でいかがでしょう!?」
店員の顔は恐怖に引きつっていた。紬は唯の方を向く。
「唯ちゃん、どうかしら」
「……本当に?やった!ムギちゃん大好き!」
唯が紬に抱きつく。凍てつく冬の風も溶かしてしまうような、満面の笑みを浮かべて。
「……ありがとうございましたー……」
「店員さんが半泣きになってるんだが……」
「ムギちゃんは神様だよ~」
茶色の紙袋を幸せそうに抱えた唯が言う。まるでぬいぐるみを抱えた幼い少女だ。
「唯ちゃんが喜んでくれたなら、それでいいの」
「おーい、澪。そろそろ帰るぞー」
「やだ」
澪はまだウィンドウにくっついていた。夏の終わりの蝉のようだった。
「はーい、また今度来ましょうねー」
「やだー!もっと見てるー!」
……
家に帰ってから、唯は早速オルゴールの包みを開ける。
底の堅いネジを回すと、なんとも心地よいメロディが居間を満たす。優しく、そしてどこか切ないメロディ。
「シューマンのトロイメライかぁ。素敵な曲だね」
憂が曲の名前を教えてくれた。
「遠い未来?」
「トロイメライ」
ドームの中の木馬が回る。木馬に乗った少女も回る。
「さあ、そろそろご飯にしよう?」
「あー、うん……」
唯の視線はまだオルゴールに……木馬に乗った少女に……釘付けになっていた。
本人が気づくはずもないが、唯の目にはこれまでにない輝きが宿っていた。慈しみに溢れた輝きが。
「お姉ちゃん?」
「……あー、うんうん。すぐ行くよ~」
「今日はお姉ちゃんの大好きなオムライスだよ!」
「……わぁ、嬉しいなぁ!ありがと憂!」
優しい黄色をしたオムライス。確かに食べた記憶はある。
しかしその記憶は、まるで誰か他人の記憶のようにぼんやりしていた。
気がついたら唯は、自室にこもってオルゴールのメロディを聴いていた。
何度も何度も底のネジを巻き、木馬と少女をじっと見つめる。
他のことは頭になかった。唯の関心のすべてはオルゴールに向けられていた。
「お姉ちゃーん、お風呂入らないと」
「……後で」
「もう、さっきもそう言ってたよ?めっだよ?めっ!」
「あぁー、ごめんなさーい……」
翌日、音楽室。
唯は紬に、あのオルゴールについて詳しく聞いてみた。
あのオルゴールの何が、自分をそこまで惹きつけるのか知りたかった。
「あのお店で売ってるオルゴールは、大半が小樽から取り寄せたものなの。唯ちゃん、小樽はご存知かしら?」
「んー、知らないなぁ……」
唯は地理に弱かった。
「北海道の西側の、海辺の小さな町。ガラス細工とオルゴールで有名だけど、この季節はきっとすごく寒いわねぇ」
「小樽か……。行ってみたいな」
澪が目を輝かせる。
「唯ちゃんが昨日買ったのは、とある有名なメーカーの商品なの。だから年代物ってわけじゃないけど……」
そこまで言ってから、紬は言葉を切る。
「ごめんね。あまり役に立たないみたいで。今度もう少し詳しく調べてくるわ」
「……ううん、いいよ。教えてくれてありがとう」
確かにあまり役には立たなかったが、あのオルゴールのことを少しでも知ることができて嬉しかった。
「さて、そろそろ練習するぞ!」
「えぇー、もう少しお茶してようぜー」
「あらあら」
その日の練習は、あまりいい演奏ができなかった。
「唯、今日はミスが目立つな」
澪が指摘する。確かに唯のギターは、お世辞にも誉められたものではなかった。
「ダメだぞ、家でもしっかり練習しなきゃ。最近調子よかったのに」
「ふぁーい……」
唯は間の抜けた返事を返す。
「唯も女の子だからな、あの日だったりして」
次の瞬間、凄まじいスピードで拳が律の頭に飛んできた。
「バカ律!」
帰り道。クリスマスソングが薄暗いアーケードを霧のように漂っている。
「唯、アイスでも食べていくか?」
「今日はいいよ」
「じゃあゲーセンでも寄ってくか」
「ううん、今日はまっすぐ帰るよ」
唯は相変わらずぼんやりしていた。そして、心なしか歩調が速かった。
「なあ律……。唯の調子おかしくないか?」
唯と紬と別れた後で、澪が言った。
「確かになー、いつも以上にぼやっとしてるっていうか、何て言うか」
「体の調子でも悪いのかな?」
「いや、案外恋かもしれないぞー」
「こっ……!」
途端に澪が真っ赤になる。頬を染める幼なじみを見て、律は嫌な笑みを浮かべる。
「だってそうだろー、私らには縁がないけど、もうすぐクリスマスだからなー」
「ゆ、唯が……!だって、あの唯が……へ、変なこと言うなバカ律!」
再び拳が律を直撃した。
帰宅してすぐに、唯はオルゴールのネジを巻いた。制服も着替えずに、優しい音色に全神経を集中させる。
優しく、そしてどこか切ないシューマンの名曲。オルゴールのトロイメライ。
……この胸の苦しさは何だろう。
この甘く華やかで、けれど外を吹き荒れる風のように冷たい感覚は、何だろう。
どれくらいの時間、そうしていただろう。部屋の戸口に立った憂の大きな声で、唯は我に返った。
「お姉ちゃん、ご飯だってば!」
「うひゃいっ!?」
「……もう、よっぽど気に入ったんだね、それ」
その晩、彼女は夢を見た。オルゴールの木馬が逃げ出した夢だった。
『私の馬を探してください』
木馬の少女は、必死にそう訴えていた。けれど唯は足を動かすことができない。
足には何本もの腕が、蛇のように絡みついているのだ。腕の持ち主が口々に言う。
『唯、練習するぞ』
『唯、今日こそは付き合ってもらうぜ』
『お姉ちゃん、ご飯だよ』
シーツがびしょ濡れになるほどの汗をかいて、唯は目を覚ました。時計を見ると三時だった。
最終更新:2010年10月17日 00:19