窓の外を、闇が後ろへ飛んでゆく。

闇と海の区別すらつかない、夜の車窓。

唯と紬を乗せた電車は、海辺の線路を疾走していた。

雪混じりの風が、緑のラインが走る車体を痛めつける。

オレンジ色の明かりが灯る車内。

紬はぼんやりと、窓の外に広がる闇を見つめていた。

きっと今窓を開けたら、闇は針のような冷たい風と一緒に容赦なく車内に侵入してくるだろう。

そうしたら、向かいの座席で眠っている唯が起きてしまう。

彼女はこの座席に座ってすぐに眠ってしまった。無理もない。ずいぶん長い旅だったのだ。

車内に、車掌の暖かみを欠いた声が響いた。

「まもなく終点です。どなた様もお忘れ物のないようお支度下さい。まもなく……」

紬は唯を揺すぶる。

「唯ちゃん、着くわよ。唯ちゃん、起きて」

「……んむぅ……」

もぞもぞと身を揺すってから、唯は瞼をこじ開けた。……と思ったら、すぐに閉じてしまう。

「……カポエラ……」

「唯ちゃん、唯ちゃん。二度寝はダメよ、もうすぐ終点よ」

電車はゆっくりと、だが確実に速度を落としている。

窓の外に、町の灯りが見えた。オレンジ色の灯りは降り続ける雪を照らし出す。見るからに寒々しい光景だった。

紬はなおも唯を揺する。唯はようやく目を覚ました。ハムスター顔負けの大あくびをして、体をめいっぱい伸ばす。

「……ムギちゃん、おはよう」

「おはよう」

がたんと大きな音をたてて、電車が完全に止まる。

小さな駅だった。そして何もかもが錆び付いていた。駅名が書かれた青いプレートも、その下のビール会社の小さな広告も。

海から吹いてくる風が、時間をかけてそうさせたのだ。

ボストンタイプの旅行鞄を肩にかけ、二人は電車を降りる。

プラットホームに一歩踏み出した瞬間、唯の足が思い切り滑った。

凍りつくような焦りが唯の頭から全身に広がり、血管を駆け巡る。

彼女は腕を大きく振り回し、必死にバランスを保とうとする。だが非情にも、彼女の体は大きく傾き……。

止まった。

唯は紬のコートの胸元に顔をうずめ、まだショックで痺れている体をなだめる。

力強い、だが優しい腕が唯をしっかりと抱き止めてくれていた。

「……ありがと、ムギちゃん」

「いえいえ。ホームが凍ってるかもしれないって、言っておくべきだったわね」

「私、またムギちゃんに助けられちゃったね」

「気にしないの。唯ちゃんのためならどうってことないわ」

唯の心臓はまだ暴れていた。紬がとっさに抱き止めてくれていなかったら、どうなっていたことか。

「今日こそは、絶対に今までのお礼をするんだからね」

「はいはい、期待しておくわ」

紬が苦笑いする。

「……私、生まれ変わってもこの電車にはなりたくないなあ」

唯が言う。

「どうして?」

「こんなに寒くて、コチコチに凍ってるところで一生をおくるの嫌だもん」

一仕事終えた電車は、何も言わずにヘッドライトで闇を照らしていた。

この駅の先にも、線路は続いている。けれども電車が先に進むことはない。

そこは闇と沈黙の支配する世界なのだ。

ホームには二人の他、誰もいない。わずかに積もった雪にも、足跡は残っていなかった。

「寒いね、早く行こうよ」

「ええ、早くしないとお店も閉まっちゃうわ」

自動改札を抜ける。切符が凍った虚無に吸い込まれていった。

駅員室には、人の姿はない。

「澪ちゃんとりっちゃんは?」

「二人とも宿で待ってるわ」

駅舎を抜けると、くすんだオレンジ色の灯りが出迎えてくれた。電車の窓から見えたあの灯りだ。

逆三角形のガス灯。雪を照らすスポットライト。

「誰もいないね」

「ええ、おまけに車一台走ってないわね。これじゃあタクシーは期待できないわね」

雪に足を踏み入れると、かすかな抵抗が足に伝わる。新雪を踏む柔らかな音が耳を撫でた。

二人は、雪道の真っ白なキャンバスに足跡のアートを刻んでゆく。

「唯ちゃん知ってる?この町は夏になるとハマナスのメッカと呼ばれるの」

「ハマナス?」

「紫色の花が咲く、海辺の植物。赤くて可愛い実がなるの」

「へえー、見てみたいなぁ。夏にくればよかったね」

「夏に来たら、もう卒業旅行じゃないわよ」

紬がまた苦笑いする。三月の大きな雪片が、彼女の笑顔をくすぐる。

「すごい雪だね。前がよく見えないよ」

「私の腕につかまっていれば、大丈夫」

二人の言葉が白く漂い、宙に飲まれてゆく。

唯は紬の腕が、微かに震えていることに気づいた。

「ムギちゃんムギちゃん」

「なあに?」

「あったかあったか」

唯の手が、紬の凍えた手を優しく捕らえる。

「ありがとう。唯ちゃんはあったかいわね」

「ムギちゃんだって、十分あったかいよ」

大きな通りを抜けると、赤レンガの倉庫が立ち並ぶ運河に出た。

倉庫の屋根で、たくさんのカモメが羽を休めている。鋭い目つきの、くすんだ白の鳥たち。

「唯ちゃん」

「んー?」

「あそこの二羽のカモメ、なんだか私たちみたいじゃない?」

「ありゃ、ほんとだ」

二羽のカモメは、群れから少し離れたところで寄り添っていた。

「澪ちゃんカモメとりっちゃんカモメも探しましょう」

「あずにゃんカモメはどれかな。あのきつい目つきのかな」

二人は声を上げて笑う。わけもなくおかしかった。

「……あずにゃん、今年から一人なんだよね」

「……うん」

「大丈夫かな。寂しくないかな」

「憂ちゃんもいるし、きっと大丈夫よ」

数週間前、別れを告げた母校のことを思う。途端に二人の胸がきゅっと締めつけられた。

……白い校舎。ワックスのにおい漂う教室。放課後をすごした音楽室……。

「……行こうか」

「……そだね」

二人の足跡は、すでに降り続ける雪に飲まれかけていた。


遠くから鐘の音が聴こえた。町の歴史と威厳がこめられた音。

鐘は正確に時を六つ刻む。

二人は小さな通りを足早に進む。体温が足先から少しずつ、だが確実に奪われてゆくのがわかった。

通りには様々な店があった。ガラス細工の店、オルゴールの店、アロマキャンドルの店。

どの店先にも、色とりどりの暖かな光が灯っている。

だが、人の姿は見えない。足跡もまったく見当たらない。

やがて紬は、一件の小さなガラス細工の店の前で立ち止まる。

「ここよ唯ちゃん。ここにあなたを連れてきたかったの」

それは小さな古い店だった。入口に吊された提灯は破れていたし、店先のベンチは雪が積もって使い物にならない。

それでも、唯はこの店を素敵だと思った。すぐに好感を持てた。

都会のどんな店にも、ここまで純粋な好感を持ったことはない。

「見ての通り、小さなお店だけど……気に入ってもらえたかしら」

紬が少し心配そうに言った。唯はにっこりと笑って言う。

「私はすっごくいいと思うよ。ムギちゃん、連れてきてくれてありがとう」

紬も安堵の笑みを浮かべる。

「そう言ってもらえると、嬉しいわぁ。来てよかった」

「早く入ろう。わくわくしてきたよ」

唯は重厚な木の戸をゆっくりと開ける。熊よけ用とおぼしき鈴が鳴った。

瞬間、暖かで優しい時が二人を包み込んだ。


本物の暖炉で踊る火。

オルゴールのBGM。

きゃしゃな軋む木の床。

そして、ランプの灯に輝くたくさんのガラス細工。

そこはすべてに満ち足りた場所だった。そこではすべての欲は何の意味もなさないのだ。

唯は自分という存在を、ひどくちっぽけに感じた。

「いらっしゃいませ」

小さな澄んだ声が聞こえた。

カウンターに、一人の少女が立っていた。歳は唯とそう変わらないだろう。

制服と思われるブルーのエプロン。すっきりしたショートカット。赤い縁の眼鏡。

唯の全身を、電気ショックのような衝撃が走る。

「の……の……和ちゃん?」

「はい?」

少女は少し困ったような笑みを浮かべる。

「あのー、唯ちゃん。そろそろ入れてくれないかしら」

紬が入口で震えていた。唯はまだ戸口につっ立っていた。

紬が唯の手を引き、ガラス細工の解説をしてくれる。

「これはトンボ玉。もっともポピュラーなお土産ね。こっちはブローチね。それは……」

唯はほとんど聞いていなかった。

見れば見るほど、カウンターの少女は和に似ていた。

唯はふと、少女の私生活を想像してみる。だがまるでうまくいかなかった。

もしかしたら、あの女の子もガラスで作られたのかもしれない。そんな突飛な考えまで浮かぶ。

「……唯ちゃん、見て。このギターのガラス、唯ちゃんのギー太にそっくり」

紬が指したのは、小さなギターの形をしたガラス細工だった。

「……本当た。ギー太にそっくり。どうやって色をつけたのかな」

「気に入ってくれたかしら」

唯は心からうなずく。

「じゃあ、唯ちゃんへのプレゼントはこれで決まりね」

「え?……わ、悪いよムギちゃん!私、こんな高いもの、受け取れないよ!」

紬は思わず吹き出してしまう。

「な、何がおかしいの?」

「……ごめんなさい。唯ちゃんの口から、そんな遠慮の言葉が出るなんて思わなかったから」

「……ぷぅ。ムギちゃんさりげにひどくない?」

「今の唯ちゃん、変よ。ここに来てから何となく変よ?」

おかしそうに笑う紬と、膨れる唯。少女はそんな二人を微笑みながら見守る。

「これは私の唯ちゃんへの気持ちなの。受け取ってくれないかしら。それとも、違うものがいいかしら?」

唯は首を振る。

「じゃあ、決まりね。お会計を済ませてくるわ」

店にいる間に、雪は積もるスピードを速めたようだ。二人が歩いてきた跡は、もはやまったく見当たらない。

哀れなベンチの前。二人は再び雪が降りしきる小路にいた。

もし唯が店をもっとよく観察していたなら、時計の針が止まっていることに気づいただろう。

いずれにせよ、彼女は戻ってきたのだ。住み慣れた時の流れの中に。

「今の店員さん、和ちゃんに似ていたね」

唯は大きな声で言う。そうしないと、雪に阻まれて声が届かない気がしたから。

「そう?私は知り合いの親しいおば様を思い出したわ」

「ムギちゃんのおばさんも、赤い眼鏡をかけてるの?」

「いいえ」

「えぇー?だって、絶対に眼鏡をかけてたよ」

「ああ、唯ちゃんは知らないのね。このお店で働く女の人は、見る人によって姿が異なるの。
だから唯ちゃんには和ちゃんに見えたし、私には知り合いの方に見えたの」

紬がいたずらっぽい笑みを浮かべて言う。冗談なのか本気なのか、唯には判断ができなかった。

「さあ、そろそろ宿に行きましょう」

「まだだよ」

「え?」

「いったよね?私、絶対に絶対に今までのお礼するって。
ムギちゃんは、私のためにギー太2号を見つけてくれた。だから今度は私がムギちゃんにお返しをするよ!」

いつの間にか、ガラス細工に名前がつけられていた。

「さあ行くよ、絶対にムギちゃんが気に入るものを見つけてみせるから!」

「あらあらあら」

唯は親友の手を握って駆け出す。雪に阻まれて、思うように進まなかったが。

紬は最後に一度だけ、店を振り返った。灯がすでに消えていた。


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最終更新:2010年10月20日 02:03