ひらさわけ!

憂「えっと、三年ぐらい前の話だけど、していい?」

梓「三年前だと…唯先輩が中三の時?」

憂「そうだよ。たしか九月ぐらいだったかな」

梓「あ。そのころって……」

憂「うん。お姉ちゃんが引きこもってたころ」

梓「でも想像できないなあ……だってあの唯先輩でしょ?」

憂「お姉ちゃんはずっとやさしかったよ」

梓「まぁ、ニートになってごろごろしてるだけなら目に浮かぶけど…」

憂「あはは、それ律さんにも言われちゃった」くすっ

梓「私も憂や純からちらっとは聞いてたけど、つまり……そういう事情だったんだよね?」

憂「……うん。学校、行けなくなっちゃって」

梓「ごめん、つらかったらいいよ」

憂「気にしないで、梓ちゃんには聞いてほしかったから」

梓「憂がそういってくれると、ちょっとうれしいかも」

憂「ありがと……えっと、そのころベタってお魚飼っててね」


  ◆  ◆  ◆

唯「ういー、アイスー…」

憂「おはようお姉ちゃん、お昼ごはん食べてからね」

 九月のよく晴れた水曜日のことでした。
 カーテンの閉められた薄暗い部屋ではたきを掛けていると、お姉ちゃんの眠そうな声が聞こえてきました。

唯「あれ…うい、起きてたの」

 そっとベッドに腰かけた私を見上げる、まだ寝ぼけた目のお姉ちゃん。
 熱っぽい湿気を帯びた布団から白い腕だけを出すと、私の手を探して握ってくれました。
 布団の中で汗ばんだ手のひらはどうしても昨日の夜を思わせるので、あわてて話題をそらします。

憂「えっとね、九時ごろにおばあちゃんが来てたんだ。お野菜とか持ってきてくれたよ」

唯「そっかぁ……ありがと、うい」

 お姉ちゃんはふわっとほほえみを浮かべてまた布団の中にもぐり込もうとします。
 遮光カーテンに光を遮られたこの部屋はどこか湿っぽく、教室に忘れられた水槽のようによどんだ空気に満ちています。
 でもその生ぬるい空気もなぜだか居心地がよくて、なんだかお姉ちゃんと一眠りしたくなってしまいました。
 いけない、いけない。

 私は無理やりお姉ちゃんのベッドから立ち上がり、カーテンを開けました。

 差し込む強い光は、この部屋の水分すらも蒸発させていくようで、心地いいはずなのになぜか心もとなく感じてしまったりして。

唯「ん…まぶしい……」

 お姉ちゃんのうるんだ二つの瞳はまだ夢と現実との間をさまよっているみたいで、陽の光にきゅっと目を細めています。
 カーテンをもう一度閉めてあげようかちょっとだけ迷いましたが、やっぱり起こすことにしました。

憂「ほら、もう十一時過ぎなんだよ?」

 もぐり込もうとするお姉ちゃんの布団を少しだけゆすって声を掛けると、お姉ちゃんは中から顔を出してごまかすように笑いました。
 つられてこちらの口元にも笑みがうつってしまい、胸の奥にほっこりした熱が点るのを感じます。
 日差しに乾いていくシーツをすがり付くように握り締めたお姉ちゃんがいとおしくて、カーテンを開けてしまったことをちょっと後悔します。
 本棚のホコリすらしっとり湿らせるような心地よい蒸し暑さと、甘味料のように吹き込むかすかな風。
 重なった二つの含み笑い。

 ……ごめんなさい。
 こんな瞬間が一番幸せなんです。


唯「じゃあご飯たべなきゃだねぇ」

 お姉ちゃんは布団の中をごそごそと探り、脱ぎ捨てた下着をつけなおして身体を起こします。
 見慣れた着替えなのですが……やっぱりどうしても意識しちゃうので、パソコンのホコリをわざと念入りに落とします。
 すると机の下で電源が入れっぱなしのモデムがかなり熱くなっていました。
 お姉ちゃんは昨日、一緒に寝る前に誰かとチャットでもしていたのでしょう。
 一晩ずっと点いたままだったモデムは人肌ほどに温まり、今も接続先を求めてちかちかと点滅しています。
 このままだと壊れてしまうのですばやく電源を落として、早く冷めるように日差しの当たらぬところに移しました。

唯「ねぇ、憂」

 ぼんやり考えていたら、すっかり目を覚ましたおねえちゃんに話しかけられました。
 その声がやけに冷たく聞こえて、息苦しく感じて一瞬戸惑ってしまいます。

唯「……やっぱいいや」

憂「あっごめん、なぁに?」


唯「私。引きこもり、やめた方がいいよね」


 お姉ちゃんは今年で中学三年なのですが、いまは学校に行っていません。
 学校でうまくいかなかったせいで、玄関から外に出ようとすると体調を崩して立っていられなくなるみたいです。
 心の病気で家から出られないお姉ちゃんが心配で私も付き添う生活が続き、かれこれ半年近く経ちました。
 両親は今もどこか遠い国を飛び回っていますが、お隣のとみおばあちゃんと和ちゃんが週に二、三度食料などを持ってきてくれるので不自由はしていません。

 思い返すと昔から私たちの両親は不在がちでした。
 私も両親に抱きしめられるより、とみおばあちゃんに抱きしめられたことの方が多かった気がします。
 お母さんの腕の感触や手の温もりはかろうじて覚えていますが、お父さんの手のひらは今ではよく思い出せません。
 もちろんお姉ちゃんはあの頃からその百万倍抱きしめくれましたけどね。
 言葉のあやでなく本当に、平沢憂はお姉ちゃんの腕の中で育ったようなものなんです。

 とにかく、私たち二人は和ちゃんやおばあちゃんの助けを借りながらもなんとか暮らせています。
 狭い家の中だけれど私たちは満ち足りた生活を送っている。そうに決まってるんです。
 けれどときどき……これから先のことを考えると、不安でたまらなくてめまいを覚えてしまうのです。
 そう。今みたいに。

憂「無理、しなくていいんだよ? お姉ちゃん」

 お姉ちゃんが無理に外に出てしまったら、どうなってしまうんだろう――


 自分の声が変に震えてしまって、唇がうまく動きません。
 どうしよう。お姉ちゃんを元気付けなきゃいけないのに……。

唯「あっごめんね、なんでもないよ。 じゃあお昼にしよっか!」

 お姉ちゃんはそう言ってベッドから飛び出して、Tシャツにホットパンツだけの格好で私の手を引きました。
 やわらかい外の日差しを集めたようなお姉ちゃんの笑顔は、いつだって何もかもを忘れさせてくれます。
 手を引かれてリビングに着く頃には、不安の種も消えてしまったみたいです。

 でも、お姉ちゃん。
 家の中だけど、一応ブラはつけてほしいかな……。


 しばらくして、私たちはお昼ごはんをいただきました。
 と言ってもちゃんとしたものでなく、冷蔵庫にあった鶏肉と卵を使って簡単な丼ものを作っただけなのですが。
 ご飯を作っている間にソファーに仰向けで横たわったお姉ちゃんが向けた、さかさまの笑顔。
 床に垂れ下がった伸びた髪は窓から吹き込む風にかすかに揺れる姿は、台所でガスを使う私の心も風鈴のように涼ませてくれました。


唯「ええー…だって、寝てる間とか背中きっついんだもん」

憂「お姉ちゃん、そんなこと言ってるといいお嫁さんになれないよ?」

 テーブルに二人向かい合って箸を動かしながら、そんなたわいもない会話を交わします。
 みりんの量を少し変えたのが功を奏したのでしょうか、お姉ちゃんのほっこりした顔も今日は多いようです。
 机の下でちょっとこぶしをにぎって、ガッツポーズ。バレたらはずかしいな……。

唯「うい? 憂、きいてる?」

憂「あっごめんお姉ちゃん」

 おいしそうに食べるお姉ちゃんを眺めていたら、いきなり話しかけられてびっくりしてしまいました。

唯「ははーん、さては私の顔に見とれてましたな」

憂「もう……そんなことないよ、お姉ちゃん」

 あわててお漬け物に箸を伸ばして落としそうになってしまいます。
 なんでわかっちゃうんだろう、私のこと。

唯「でもね、私お嫁さんにならなくてもいいかな」

 ふいに箸を止めて、お姉ちゃんはそんなことを口にしました。

憂「どうして?」

唯「憂と結婚すればいいじゃん」

 それはお姉ちゃんにとって、話の流れからふいに湧いた軽口に過ぎなかったのでしょう。
 けれど胸の奥に無邪気に飛び込んできたその言葉は内側から必要以上に甘く蝕んでいく気がして、

唯「……あは、そんな顔しないでよ。そういうことじゃないって」

憂「もう。変なこと言わないでよ、お姉ちゃん」

 場をつなぐようにお姉ちゃんと笑い合ってみます。
 けど、ほほえみを浮かべようとするこの唇はどこかぎこちなくて。
 なんとなくだけど、お姉ちゃんも無理して笑い合おうとしてるみたいで。

唯「じゃあ、きょうはお皿洗うよ」

憂「うん。……ありがとう」

 気を使わせてしまったのが少しうしろめたいです。
 私、お姉ちゃんに迷惑かけてばっかりだ……。
 なにかしていないと落ち着かなくて、とりあえず電話の棚から熱帯魚用のえさを取り出しました。


 私たちはリビングの窓際に置いた金魚鉢でベタというお魚を飼っています。
 ゆれる水草と透明な水の中で、空をひとかけら持ってきたように青々とした尾ひれが揺れているのを見ると私もどこか涼しげな気分になります。

 このベタは半年ぐらい前、病院帰りにお姉ちゃんとお散歩に行ったついでにホームセンターのペットショップで見つけました。
 水槽の照明に照らし出されたベタはこのときものんびり泳いでいて、お姉ちゃんは一目惚れしてしまったみたいです。

唯『小さくてかわいくてやわらかそうで、なんだか守ってあげたくなっちゃうなあ…』

 その時、お姉ちゃんは私の手をつないだまま水槽を見つめて言っていました。
 あったかい手を握りしめながら耳元でつぶやかれたので、私に向けて言っているような気がしてちょっと顔が熱くなってしまいました。


 そうしてその場のお姉ちゃんの勢いに流されて買ってしまったベタですが、今も小さな金魚鉢のなかで気持ちよさそうに泳いでいます。
 名前はベタのたーくん。
 もちろん、名付け親はお姉ちゃんです。
 お姉ちゃんらしい、かわいい名前だと思いませんか?

憂「たーくん、お昼ごはんだよ」

 金魚鉢にえさを一粒落とすと、たーくんは振り向いてえさ粒をぱくっと食べました。
 振り向いたいきおいで水草の気泡がひとつふたつ浮かんで水面に消えました。
 日差しの向きが変わったからか、金魚鉢を通した半透明の影がゆらゆら揺れています。

 そういえば、朝起きたときにも私はえさをあげてしまいました。
 むかしグッピーを飼っていた和ちゃんに「えさのあげすぎは水質を悪くして、寿命を縮める」って言われたのを思い出します。

憂「……ごめんね、おなかいっぱいだったかな」

 なんとなく、不安を感じたりいたたまれなくなるたびにたーくんにえさをあげてる気がしました。
 とりあえず手のひらに残ったえさ粒をえさの缶に払い落としました。


唯「きゃっ」

 後ろでガラスの割れる音が聞こえました。


憂「お姉ちゃん大丈夫?!」

唯「ごめんね……コップ、割っちゃった」

 あわてて駆け寄ると床にはちらばったコップの破片。
 私はすぐお姉ちゃんの指先や手の甲や足首を見渡しました。
 よかった、ケガしてなかった。
 ほっと一息ついてから、お姉ちゃんに少し離れててもらって袋に大きめの破片を集めていきます。

唯「憂、ごめんね。私、なんにもできなくって」

 その場に立ちすくむお姉ちゃんが沈んだ声でつぶやきました。
 そんなことないよ。
 だって、お姉ちゃんは私のために――。

唯「あっ拾うの手伝うよ!」

憂「ううん、大丈夫。それより掃除機持ってきてくれるかな?」

唯「あ……うん、わかった」

 できることを見つけてうれしそうなお姉ちゃんは、ぱたぱたと足音を立てて飛び出していきました。

唯「ふぅ…これで大丈夫かな」

憂「ちゃんと掃除したし、大丈夫だよ」

 お姉ちゃんが掃除機で小さな破片を吸い取ったあと、私たちは台所の床の拭き掃除をしました。
 コップは割れてしまいましたが、おしまいには前よりも床がきれいになってうれしいです。
 これもたぶん、お姉ちゃんのおかげです。
 こんなこと言うと、また純ちゃんに叱られちゃいそうですけどね。

憂「床きれいになってよかったね」

唯「えへへ、まさしく七転び八起きだね!」

 お姉ちゃん、それはちょっと違うと思う……。

唯「あっそうそう、今日は和ちゃんがね、」

 そう言い掛けたとき、チャイムが鳴りました。
 インターホンをのぞき込むと荷物を手に持った和ちゃんがいます。

和『お米入ってるから早く開けてくれない?』

憂「うわさをすれば、って感じだね」

唯「もしかしてタイミング見計らってたとか?」

和『…何のタイミングだっていうのよ』

 二人でくすくす笑ってしまいます。
 重い荷物を抱えてる和ちゃんがかわいそうなので、掃除機の片づけをお姉ちゃんに任せて私は玄関に向かいました。

憂「和ちゃん、今日早いね。まだ十二時だよ?」

和「ほら、校内模試で半日なのよ……って、知らないわよね」

 制服姿の和ちゃんは牛乳やお米の入った大きなビニール袋を玄関横に置くと、そばに座り込みました。
 ドアの外では強い日差しが縁石を白く焼き尽くすほどに照っています。
 こんな日差しの中、お姉ちゃんが外に出たら大変なことになってしまいそうです。
 私はドアを閉め、それでも窓から差し込む日光から一歩足を引いて、ビニール袋を抱え上げました。

和「はぁ…この量はなかなか腰にくるわね。せっかくだからってさすがに買い込んじゃったかしら」

憂「なんか今の和ちゃん、おばあちゃんみたい」

和「買い出し班にひどいこと言うわね、あんた。ところで唯の調子はどう?」


唯「あ。和ちゃん!」


 廊下の向こうから冷たい水のように澄んだ声が聞こえて、思わずほころんでしまいます。
 掃除機をしまったお姉ちゃんはそばに腰掛けている和ちゃんを後ろからスリーステップでいきおいよく抱きしめました。

和「ちょ――唯、危ないじゃない!」

唯「だって三日ぶりだよー?」

 少しふりほどこうとした和ちゃんも、あきれたように笑って抱きしめられました。
 ちょっとうらやましくなってしまいます。
 和ちゃんを抱きしめている、お姉ちゃんが。
 お姉ちゃんに抱きしめられる、和ちゃんも。

和「……憂も見てないでちょっとは止めなさいよ」

憂「えへへ、ごめんね」


 私たち三人はリビングで和ちゃんの持ってきたケーキを食べることにしました。
 お茶を入れている間、和ちゃんが担任の先生から預かってきた課題を取り出しました。
 厚くて大きなその問題集はどうやら百ページ近くあるらしく、お姉ちゃんはそれを見るなり力を失って椅子に倒れこんでしまいます。

唯「の、のどかちゃん…量多くなってない?!」

和「私が出したんじゃないわよ」

唯「でもこのワークブック一冊は多いよ! それにこの範囲わかんないもん! ぶーぶー!」

 お姉ちゃんはぱくぱく口を動かしたり数学の問題集を机にぱんと叩いたりして抗議します。
 なんだか水揚げされた魚のように見えて、ちょっとおかしかったです。

 めくれたページを見ると計算用の余白が多かったので、見た目ほど大変な量ではないみたいです。
 とはいえ、大きくて重たいこの問題集自体に最初からおそれをなしてしまうお姉ちゃんの気持ちも分かります。
 これじゃあ先が見えないもんね。

和「一ヶ月あるんだから余裕じゃない。たかが一日三ページちょっとでしょう。少しずつ進めていきなさいよ」

唯「あは、あはは…」


2
最終更新:2010年10月23日 00:25