お姉ちゃん、昔から夏休みの課題を始業式前夜に始めるタイプだもんね……。
 なんとなく一ヶ月後にあわてる姿が浮かんでしまって、思わず笑ってしまいます。

和「ほら、憂だって笑ってるわよ。ちょっとずつ解いてくしかないじゃない」

唯「ういーっ!」

憂「あはは、ごめんお姉ちゃん」

和「あっそうそう、いいもの持ってきたわよ。最近、唯が元気ないって聞いてたから」

唯「えー? そんなことないよ、うい」

 お姉ちゃんはきょとんと小首をかしげます。

憂「うーん…ほら、朝だって」

唯「あれはなんでもないって。気にしすぎだよお」

 私は腕をゆすって困ったように笑うお姉ちゃんの声は、なぜか必要以上に強く聞こえました。
 お姉ちゃんは外が怖くて出られないけど、本当はいつもどおり元気一杯なんだ。
 そう思わせたがっているかのように。

 でも、朝に「引きこもりやめる」って――

憂「――あつっ」

唯「う、憂大丈夫?」

 唇を刺すような痛みが走ります。
 その場しのぎに口に含んだ紅茶が思ったより熱くて、思わずむせてしまいました。

和「まったくもう、唯だけじゃなくて憂までそんなんじゃどうするのよ」

憂「ご、ごめんなさい…」

唯「そうだよ、憂もしっかりしなくちゃねっ」

和「これ、突っ込むところ?」

 わざと胸を張って答えるお姉ちゃんにまた笑ってしまいます。
 考えすぎなのかな。やっぱ。
 考えすぎる頭をお姉ちゃんの優しさにあずけると、なんだかこのままでいいような気もしてきました。

唯「ほら、もうさめたよ?」

 お姉ちゃんは私のコップをひたひた触って温度を確かめてから渡してくれました。
 落ち着いて、やけどしないようにそっと息を吹きかけて、紅茶を口に含みます。
 少し冷めた、でもほんのり熱の灯った液体が身体の奥へと流れていきました。

和「もう一心同体ね」

 和ちゃんの笑い顔が、少し呆れているように見えて思わず目を背けてしまいます。

唯「それで和ちゃん、いいものって?」

和「ああ、これこれ」

 和ちゃんが取り出したのは貯金箱ほどの大きさのジャムびんでした。

和「ローヤルゼリー。滋養強壮にもいいらしいわよ、毎朝早起きして食べなさい」

唯「は、はあ……」

 お姉ちゃんはびんを受け取ったものの、どうしていいかわからないのか私に目を向けました。
 ときどき私も和ちゃんが分からなくなります……。

和「憂、あまりあげすぎないようにね。肝油ドロップのこと覚えてるでしょう?」

憂「う……うん、小三のときだよね」


 小学三年のとき、学校で肝油ドロップの販売業者が来ました。
 ビタミンCが含まれたサプリメントのようなもので、食べると夜盲症の予防や身体の成長に良いそうです。
 そのときお姉ちゃんはもの珍しがってとみおばあちゃんに頼んで注文し、届くやいなやすっかり肝油ドロップにはまってしまいました。
 たしか、おばあちゃんや私に隠れて一日十数個食べてお腹を痛くしちゃったんだっけ。

唯「あぁ…懐かしいね、あれ甘くてグミとハイチュウの間みたいでおいしいんだよね!」

和「買ってあげないわよ」

唯「まだなにも言ってないよ私?!」

 唯の考えてることぐらい分かるわよ。
 そう言う和ちゃんは呆れたように、でも優しくほほえんでいました。

憂「そうだよね。いくら身体のためだからって、甘くておいしいからって、たくさん食べ過ぎたら身体に毒だよ」

 すると和ちゃんは不意に顔を曇らせ、なにか私たちの向こう側を見やるような遠い目をして黙り込んでしまいました。

唯「……? どうしたの?」

和「いや……憂の言うとおりだなって」

憂「エサのやりすぎはよくない、ってこと?」

 和ちゃんはちょっと困ったような顔をして、金魚鉢の方をちらちらと見やりました。
 まるで何か代わりの言葉を探しているかのようでちょっと不自然です。
 私なんか変なこと言っちゃったのかな……。

和「私ほら、昔グッピー飼ってたじゃない」

唯「ああ、小二の時だよね!」

和「それであの時も私、エサあげすぎて逆にグッピーを病気にしちゃったことがあって……」

 だからそうやって手を掛けすぎるとダメになることもあるのよ。
 和ちゃんはその言葉を、なんだかお姉ちゃんの方に向けて言っているようでした。
 お姉ちゃんも何か言いたげな顔をしていますが……よくわかりません。

唯「うーん…たーくんはいっぱいエサもらえてうれしいと思うけどなぁ…」

和「唯じゃないんだから」

唯「ねぇねぇ和ちゃん、参考書いっしょにやろ?」

 ふいに顔を上げたお姉ちゃんが言いました。
 お姉ちゃんから参考書をやろうなんて、珍しいな。

和「えっ…うん、いいけど。じゃあ憂、後片付け頼むわね」

憂「うん。しばらくしたらおやつも持ってくね」

 あの時の感覚はよくわかりません。
 言葉に出せない何かがよどんだ水のように部屋の中を満たしている気がして、少し息苦しく思えました。

 それからお姉ちゃんたちは部屋で勉強することになり、私もお皿を洗い始めます。
 和ちゃんの言葉を聞いたせいか、心なしかベタのゆるやかな動きも弱ってきているように見えたのは、気のせいでしょうか。


――――――

和『……なに?』

唯『なにって、平方根とかよくわかんないから教えて?』

和『そうじゃないでしょ。何の話なのよ』

唯『……憂に変なこというのやめて』


和『それは、だって…唯も、このままじゃダメなの分かってるでしょう?』

唯『分かってるよ』

和『じゃあ少しでも良い方向に向かった方が――』

唯『分かってないのは和ちゃんの方じゃん』

和『……私も、悪かったわよ』

唯『もういい。早く帰って。チャットしたいから』

和『それを言うなら唯、あんただって――』

唯『憂は悪くない!』


唯『悪いのは、ごろごろして学校に行かない私なの』

和『ちょ、ちょっと唯』

唯『もういいじゃんそれで。私は一生家でごろごろしてニート暮らししてやるから』

和『……分かったわ。話はまた今度にしましょう』

唯『うん』

和『でもね』

唯『……なに』

和『あんたの憂に対する付き合い方も、褒められたものじゃないと思うんだけど』

唯『……だって憂のこと、本当に大好きなんだもん』

和『じゃあ憂のために前向きなことしなさいよ』

唯『してるよ!』

和『一日じゅう引きこもってネットするか寝てるかが、憂のためなの?』

唯『……和ちゃんは分かってるでしょ』

和『唯だって、いつまでもこんなことしてられる訳じゃないことぐらい分かるでしょう』

唯『もういい。この話終わりにしよ』

和『…………』

唯『私もう寝るから。おやすみ』


和『……憂のこと、ちゃんと考えてあげるのよ』

唯『うん。……ごめんね、和ちゃん。言い過ぎたよね』

和『いいわよ。私のせいでもあるし』


――――――

憂「あれ、和ちゃんもう帰るの?」

和「うん。唯、ひさしぶりに頭使って疲れちゃったみたいね」

 お皿を洗い終わってクッキーとレモンティーを持ってお姉ちゃんの部屋に向かうと、和ちゃんはもう帰り支度をはじめていました。
 部屋の中にはふくらむ布団の中に、寝ぐせが付いたままのお姉ちゃんの髪が見えます。
 和ちゃんは一度出した筆記用具をてきぱきとしまい、それから机の上の消しかすをさっとゴミ箱に落とします。
 その間、お姉ちゃんはずっとお布団の中でぼーっとしていました。

憂「お姉ちゃんの様子はどう?」

和「心配ないわ。またしばらく寝たら起きてくるはずよ」

 和ちゃんは優しそうに言うのですが、それに反して部屋の中はやけに空気が重く感じるのです。
 私は部屋に入って遮光カーテンを開けて外の風を入れました。
 まぶしがってお姉ちゃんは布団をかぶります。

和「じゃあ行くわね。唯、あんまり憂を心配させたらダメよ」

唯「……和ちゃんだって」

 お姉ちゃんの声は変にとげがあって、また少し息苦しさを覚えました。
 この部屋には酸素が足りない、なんとなくそう思えます。
 ……お姉ちゃんさえいれば、大丈夫なはずなのに。

 和ちゃんを見送ってからお姉ちゃんの部屋に戻りました。
 ですがお姉ちゃんはパソコンを始めたらしく、部屋に入ってきて欲しくないみたいです。

 リビングに戻り、一人分あまったクッキーとレモンティーをテーブルに置いてソファーに腰を下ろします。
 気づけばもう陽が傾き始め、オレンジの光が窓際の植物や金魚鉢の影を伸ばしています。
 しばらく網戸のままにしていたせいか、乾いてしまった部屋の空気がやけに冷たく感じました。
 私も昼過ぎのお姉ちゃんみたいにソファーに仰向けに寝転がって、床や天井をぼんやりと眺めてみました。

 和ちゃんは、本当はたぶん私たちの関係を快く思っていないのでしょう。
 それなのに私たちのお世話をしてもらって……迷惑をかけてばかりです。
 床に広がった半透明の影の中でもたーくんが不安げに揺れ動いているのが見えました。

憂「たーくん」

 なんとなく、影に向けて声を掛けてみます。
 なにを言おうとしたのかは自分でも分かりません。
 ですが、言葉は浮かび上がるのを待っていた気泡のようにするすると湧いてきました。

憂「……ごめんね、こんな狭いところに閉じ込めちゃって」

 ごめんなさい。
 本当に、ごめんなさい……。


 いつしか私は眠ってしまって、夢を見ていました。
 水の中をどこまでもどこまでも泳いでいくような、そんな夢を。

 青く深い海の中をどことも知れず泳いでいきます。
 はじめ誰かと泳ぎ始めたころは楽しかったですが、気づけば泳ぎ続けているのは私一人だけでした。
 身体が疲れて動かなくなっても、息が詰まっても、泳ぐのをやめられません。
 だって、泳ぐのをやめたら死んでしまうから。
 それに――ここを泳ぎきったら、とてもいいところにたどり着くのだと。
 誰かがそう言っていた記憶があるのです。
 早く無事にたどり着かなきゃ。そしたらみんな喜んでくれるはずなんだ。

 それなのに、私の身体は少しずつうまく動かせなくなってしまいます。
 うまく泳げなくなればなるほど身体に酸素が行きわたらなくて必死でもがきます。
 けれどもう光すら届かないほどの深みに来ていた私を、水圧がゆっくりと押し潰していきます。

 助けてよ。
 息が出来ないよ。
 もう、泳げないよ――。

 そんな時、唇から温かい息が流れ込んできました。

唯「……えへへ。おはよう、うい」

 水中から浮かび上がるようにして目を覚ますと、ぼやけた視界の向こう岸にいたのは私の大好きな人でした。
 抱え上げるようにそっと腕を回したお姉ちゃんの背中に私もしがみ付くように抱きつきます。
 気づけばさっきまでの息苦しさが嘘のように薄れていました。
 あまりの安心感に、思わず目から涙があふれてしまいます。

唯「よしよし。いいこいいこ」

 お姉ちゃんはそれから何も言わず、抱きしめた私の頭をずっと撫でていてくれます。

憂「……あのね、こわい夢、みたの」

唯「そっかぁ。それはつらかったね……」

憂「うん……くるしくて、息ができなくなったの」

唯「でも大丈夫だよ、憂にはお姉ちゃんがいるからね」

 気休めだと誰かは言うでしょう。
 ともすれば気持ち悪いとさえ思われているかもしれません。
 だけど――何よりも、お姉ちゃんの言葉と温もりは私を守ってくれるんです。

憂「おねえちゃん……はなれないでね」

唯「うん。ずーっとそばにいるよ」

 ごめんなさい。
 でももう少しだけ、ここにいてもいいですよね?

憂「お姉ちゃん、今日はパソコンやらないの?」

唯「んー、チャットの人が来てなかったんだよねぇ」

 もう陽もすっかり沈んだ頃、夕食を作り始めました。
 いつもこの時間、お姉ちゃんは部屋でパソコンを使うか本を読むかして過ごしています。
 ですから食事を作っている時にお姉ちゃんがそばにいると、なんだかちょっと落ち着きません。

唯「あぁっ! おはぎ落としちゃったよう……うい、ティッシュどこぉ?」

 いろいろな意味で、落ち着けません……。

 私はウェットティッシュを持ってソファーのところに行き、一緒に床を掃除します。
 コップといい、おはぎといい、なんだか今日のお姉ちゃんは調子が悪いみたいです。
 最近、長い時間パソコンを使うのが多くなったからでしょうか。
 ……お姉ちゃん、ネットでどんなことしてるんだろう?

憂「ねえねえ、いつもチャットでどんな人と話してるの?」

唯「あー……えっとね、クリスティーナさんっていうんだけどね」

憂「ええっ、外国人の方なの?」

唯「ちがうよ、ハンドルネームだよ。ネットの中の名前」

 お姉ちゃんの話だと、ネットの中では身元がばれないように違う名前を使うのだそうです。
 ちなみにお姉ちゃんは「あいす」って名前でした。お姉ちゃんらしいなあ……。

唯「それでね、クリスティーナさん大学生で、バンドやってるんだって!」

憂「へえ……どんな音楽やってるの?」

唯「ええっと、なんだかいかつくて怖そうなやつ……」

 お姉ちゃんは頭の上に指で角を立てたり、手を怪獣のようにこわばらせたりしました。
 いったいどんなバンドなんだろう……。

 床をきれいにした後、お姉ちゃんとおしゃべりしながら夕食を作って一緒に食べました。

唯「あれ? なんかこの煮物あまい!」

憂「和ちゃんからもらったハチミツを入れてみたの。どうかなあ?」

唯「おいしいよ、憂はやっぱ天才だね!」

 工夫した料理を作ったとき、お姉ちゃんがそう言ってくれるのはうれしいです。
 ですがお姉ちゃんのおいしそうに食べる様子は言葉以上にうれしくて、なんだか心があたたまるようです。

憂「でもローヤルゼリーだと思って見てみたら普通のハチミツでびっくりしたなあ…」

唯「その二つって違うの?」

憂「ローヤルゼリーは錠剤か粉末だよ。でも……こんなに高いものもらっちゃっていいのかなあ?」

唯「あっそれは大丈夫だって和ちゃん言ってたよ!」

 和ちゃん甘すぎるのは苦手なんだって。
 栄養があって成長に必要なのはわかるけど、甘すぎて体悪くしそうで……みたいに言ってたよ。
 そう、お姉ちゃんは無邪気な笑顔で教えてくれます。

憂「甘すぎると、からだが悪くなるのかなあ……」

唯「……うい?」

憂「あっごめん、なんでもないよ」

 甘すぎると、身体に良くない。
 食べ終わった食器を洗いながら、なぜかその言葉が頭をぐるぐると回っていました。
 ハチミツだけでなく糖分は成長に必要ですし、なかったら頭が働かなくなります。
 けれど……肝油ドロップのようにそればかり食べ過ぎてしまったら、いずれお腹を壊してしまうでしょう。

唯「ういどうしたの?」

憂「えっ…なんでもないよ。お姉ちゃん、お風呂沸かしてくれる?」

唯「……うん、わかった。一緒に入ろうね!」

 何か言おうとして押し留めたのか、その声はわざと明るくしたように聞こえました。
 嘘が下手なお姉ちゃんはいとおしいけれど、時々どうすることもできずに苦しくなるのです。


憂「そうだね……うん」

 なんとなく答えてしまいますが、こうしていていいのかも分からなくなってきました。
 和ちゃんはたぶん気づいてるんだと思います。
 だから「そういうこと」を続けるのはお姉ちゃんのためにならない。
 今日の和ちゃんは私たちにそれを伝えたかったのでしょうか。

 お姉ちゃんが引きこもりになってからの半年。
 それは私にとってもかつてないほど、どうしようもなく甘い一時でした。
 ……いや、ダメだ。
 これはお姉ちゃんの回復のためなんだ。
 私は理性を働かせようと、お風呂場の方に声を投げかけました。


憂「お姉ちゃんごめんね、今日は一人で入る」


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最終更新:2010年10月23日 00:27