しばらくして、お姉ちゃんがお風呂から上がった後に一人で湯船につかりました。
ここ最近、お姉ちゃんとお風呂に入ることが多かったので一人でこうするのは久しぶりです。
うなじに胸元、二の腕を通って指先を一本一本洗い流す――自然とお姉ちゃんが洗うようにしてしまいます。
けれど、いつもと違って背中から伝わる熱はありません。
意識するとよけいに一人に思えてきてしまうので、シャワーの蛇口を力をこめてひねりました。
目をつむった中で温水に打たれながら、難しい考えを一度洗い流してしまおうとします。
ですが水に当たっているとさっきの夢を思い出してしまって、思わずシャワーを止めました。
……誰もいません。
水音が消えたお風呂場は、やけに静かに思えました。
なにかで埋めなければ耐えられなくなるほどに。
頭と身体を自分の手で一通り洗い流してから、ゆっくりとお湯につかります。
温かい水が身体中に沁み込んで全身を暖めてくれます。
ですが浴槽の反対側に手を伸ばすとあるはずのやわらかい肌は、今日はありません。
なんとなく目をきゅっとつむって、広くはない湯船の中に頭を沈めてみます。
そうしたら自分が狭い金魚鉢の中のたーくんになったように思えて少し楽しくなりました。
一人では広く感じる浴槽の中で、さっき見た夢のように自由に泳ぐ姿を想像してみます。
どこまでもどこまでも深く。暗い海の向こう側へ。
『海の向こう側には、幸せが待っている。』
顔の分からない優しそうな人たちが口々にそんな言葉をかけるイメージが頭をよぎります。
とみおばあちゃんや和ちゃんも手を叩いて応援してくれている気がして、深く深く潜っていくのです。
けれどそのイメージの中ではいつまで経ってもお姉ちゃんの声が聞こえませんでした。
憂「――ふぅっ」
声が聞きたくなってしまって水の中から顔を上げます。
浴室の照明に目が慣れず、まばゆさにくらくらしてしまいました。
私はどのくらい浴槽に沈んでいたのでしょうか。
水から顔を上げると急に狭い世界に閉じ込められたように感じます。
けれども程よく狭い水の中はかえって居心地がよく、泳ぐ気も薄れてしまいます。
たーくんのような魚が捕まえられて飼育されるときも、こんな感覚なのかもしれません。
憂「……お姉ちゃん」
ダメだ。
やだよ、ひとりでなんていられないよ。
お姉ちゃん、なんでお風呂にいないの?
身体の奥に空けられた穴が心を乾かしていくようで、息が詰まります。
その穴はたぶんお姉ちゃんの腕の中でしか埋められないものなのです。
どうしてこんな風になってしまったんだろう。
甘い日々に我をうしなって、すでに身体のどこかが壊れてしまったからなのかな。
……いや、私に限ってはもっと前から壊れていたのかもしれないけれど。
お風呂を出た私はその晩、結局お姉ちゃんの部屋に行ってしまいました。
みなさん、本当にごめんなさい。
夜遅くに目が覚めるとお姉ちゃんのやわらかい腕に抱かれていて、それだけでずいぶん満たされるものです。
重ねた肌と、溶け合わせた汗。眠りに落ちる前に繋いだ手は、今日はまだほどけずにいてくれました。
お姉ちゃんはすっかり眠ってしまって、はだけた布団を掛けなおそうともしません。
その呼吸に合わせて上下するやわらかい胸にゆっくりと頭を乗せて、心臓の音を聞いてみたりします。
胸の奥から響く一定のリズムは私の頭をなでる時のように優しくて、空いた方の腕でもう一度お姉ちゃんを抱きしめました。
憂「お姉ちゃん……あいしてる」
身体を少し起こして、目を覚まさないようにゆっくりとキスしました。
暗い部屋で目を閉じると唇の感触がいっそう強く響くようで、もっともっとお姉ちゃんを求めたくなってしまいます。
そしてその度に自分がとても気持ち悪いものに思えて耐えられなくなるのです。
身体を重ねるようになったのは、お姉ちゃんが不登校になった辺りからです。
あの頃はおたがいにどうしていいか分からず、ただ抱きしめなきゃいけない気がして、気づくとここまで来てしまいました。
求められたくて、お姉ちゃんそのものが欲しくて、すがるようにそうしてきました。
お姉ちゃんも私のバラバラになりそうな心や身体の輪郭をなぞるように、崩れそうな私を集めて守るようにして抱いてくれました。
それはセックスの時だけではなく、例えば一緒にお風呂に入る時だって同じです。
お姉ちゃんは丁寧に――変な言い方ですが、溶け崩れていく私を身体に集めてしまいこむようかのように――指先から爪先まで洗ってくれるんです。
昔から好きだった人にそんな風にされたらもっと好きになっちゃいますよ。
愛してはいけない人でも、愛してしまいますよ。
もう一秒たりともお姉ちゃんから離れたくない自分もここにはいます。
だから、ときどき思ってはいけないことまで考えてしまうんです。
たとえば、お姉ちゃんがずっとひきこもりでいてほしい、なんて。
憂「……最低だよ、私。しんじゃえばいいのにな」
自分を傷つけるナイフのような言葉を、わざと口に出してみました。
なにか罰を受けたくなったのです。
今もお姉ちゃんを抱きしめている自分が、どうしようもなく思えて。
セックスはすばらしいものだと言う人がいます。
だけど私はうまくそう思えません。
今さら「女の子同士だから」とか「姉妹だから」なんて考え直せるほど私は強い人間じゃないです。
でも、だからって全てを肯定する勇気もありません。
甘い蜜のような快楽は一瞬だけすべてを忘れさせてくれます。
けれども理性を溶かすような快楽が終わって、祭りの後のように一人目覚めたとき。
逃げていた現実に急に引き戻され、打ち揚げられた魚みたいに呼吸の仕方すら分からなくなるんです。
私は、せっくすがきらいです。
すきだけど、やっぱりきらいなんです。
矛盾してますよね。身体がバラバラになりそうなぐらいに。
布団の奥で足を絡ませながら、お姉ちゃんの心音をずっと聞いていました。
肌の感触と体温とが私を安心させてくれるけれど、同時にお姉ちゃんを閉じ込めているようにも感じます。
息苦しさを感じると空を見上げたくなるものですよね。
お姉ちゃんから見せてもらった不登校の方のブログに空の写真が多いのもそういう理由かもしれません。
たとえ狭いディスプレイの中の空の画像でさえも、水草から浮かぶ気泡のように意識をゆらゆらと浮かばせられる気はするのでしょう。
お姉ちゃんにしがみ付くように肌を重ねたまま、窓の外の空に目を向けました。
今夜は満月のようです。薄い雲ににじんだ月明かりが、雲の動きによって揺れ動いて見えます。
もし、あの窓ガラスが私たちを外とを隔てた壁だとすれば。
私たちもたーくんと一緒で、この家という小さな金魚鉢に閉じ込められているのかもしれません。
そうして私たちは外での泳ぎ方を忘れて、ここで息絶えてしまうのでしょうか。
閉塞感の心地よさが怖くて、私はその夜うまく寝付くことが出来ませんでした。
ぼんやりと眺めた窓ガラスの向こう側。
月明かりは雲の波間に浮かんで、いつまでも揺れていたのでした。
◆ ◆ ◆
憂「・・・・・ごめんね。変な話、聞かせちゃって」
梓「いいよ、私と憂の仲じゃん。それに唯先輩は私にとっても大事な人だし」
憂「ありがとう。じゃあ、続き話してもいい?」
梓「うん。……憂は大丈夫?」
憂「へいきだよ。ありがと、梓ちゃん。……それでね、」
◆ ◆ ◆
うなされる時はいつだって溺れる夢を見ます。
今朝もそうでした。
教室。解答用紙。席に着いた生徒の群れ。
今はもう懐かしくも思える休み時間の騒ぎ声が蝉のように遠く近く響いています。
次の瞬間――木製の机と椅子と床が砂のように崩れて足下の濁流に飲みこまれ、手も足も出せずに沈んでいきます。
ずぶずぶずぶと身体が水中に飲み込まれていき、気づくと私は海の中に漂っていました。
生徒たちはいつしか深海魚へと姿を変え、もう名前も思い出せないほどです。
尾びれが肥大化したり、何か触覚のようなものが生えたりして畸形化したクラスメイトたち。
どうやら私もその気になれば魚の姿に変われるみたいですが、周りの深海魚を見ているとどうにもそういう気になれません。
ですが……背中が急速に、あたかも氷で焼かれるように冷たくなっていきます。
息が出来ません。
吸い込めば吸い込むほど酸素が逃げていき、苦い味の海水が喉の奥へと押し込まれていきます。
助けて、苦しいよ。
水の中でもがく制服姿の私を、深海魚たちは遠めで不思議そうに眺め、時々笑っています。
なんだか私も人間のままでいるとこのまま溺れ死んでしまいそうです。
あきらめて指先に力を込めてヒレに変えようとしたとき、どこか遠くからやわらかいまなざしを感じました。
――無理しなくていいんだよ。
その声は水の中を伝って私に届いたかと思うとすぐ途切れてしまいました。
ですがその声は水中に伝わる深海魚たちの発する音とは違って、私を優しく包み込むように響いたのです。
もっと、あの声が聞きたい。
こっちに来てよ。
離れないで。
助けて。
水の中でぶざまに手足を動かしていると、やがて射した光が辺りを飲み込んでいきました。
憂「……はあっ、はぁ…………ん」
体温と感触と熱のこもったタオルケット。
落ちるように目を覚ますといつものお姉ちゃんの部屋でした。
なんだか背中が冷たいです。
寝ている間に掛け布団がはだけてしまったのでしょうか。
自分の息づかいがうるさいです。
また変な夢でも見てしまったのでしょうか。
憂「……お姉ちゃん、おはよう」
声をかけて、抱きしめます。
かけがえのない存在を確かめるように、身体をくっつけて抱きしめます。
お姉ちゃんはまだ夢の中で、ときどき寄せては返す静かな波のようにかすかな笑みを浮かべます。
私のようにうなされてなければいいけれど。
私は眠っているお姉ちゃんを起こさないように気をつけてベッドから降りると布団の中に押し込んだ下着をつけ、自分の部屋に戻りました。
二人きりの家とはいえ、無防備な姿で歩くのにはさすがに抵抗があります。
お姉ちゃんはときどき、バスタオル一枚でお風呂から部屋に戻ってそのまま寝てしまうこともありますけどね。
それにしても今日はずいぶん寒い日です。
灰色の雲が空を覆いつくしてるせいでもあるのでしょう。
九月に入っても続いていたはずの生ぬるい天気から急に冷え込んだらしく、ちょっと喉の調子もよくないです。
私は服を着替えるとお姉ちゃんの部屋に戻って、タオルケットの上に掛け布団を敷きなおしてリビングに向かいました。
……お姉ちゃん、身体冷やしてなければいいけど。
それから私はリビングに着いて顔を洗い、朝ごはんの前にたーくんにエサをあげようとしました。
ですが、なんだかたーくんの様子がおかしいです。
憂「あれ。なんか、ぜんぜん動かないよ…」
たーくんは私がエサをあげようとしても少しも動かず、じっとしています。
いつもは金魚鉢を指でかるくつついてみるとすぐにたーくんは反応するのに。
もしかして、病気になっちゃったのかな。
憂「エサ、あげすぎちゃったからかな…」
どうしよう。
私が世話しすぎたせいで、苦しめてしまったのかも。
エサの缶を握ったままどうしていいか分からず動けずにいる私の顔が、金魚鉢にゆがんで映ります。
憂「とりあえず、水の中の掃除しよう……うん、汚れとかあるかもしれないよね」
自分に「なにごともない」と言い聞かせようとひとりごとを口に出すのに、かえって不安が頭に響くばかりでした。
唯「ういー、おはよ」
急に声がしてびっくりして、思わずスポイトを取り落としそうになります。
振り返ると髪のハネたお姉ちゃんが眠そうな目をこすりながら立っていました。
さっき着替えたばかりなのか、パジャマのボタンが途中から一個ずつ掛け違えているのにも気づいていません。
唯「うい、どしたの?」
お姉ちゃんは何かに気づいたようにほんの少し目を見開いてこちらを見ます。
まだ何も言ってないのに。
やっぱり、かなわないです。
憂「たーくんが…朝起きたらね、たーくんの具合がわるくなってて」
唯「ええっ」
大げさに驚く声をあげたお姉ちゃんは金魚鉢に駆け寄ります。
そしてしばらくの間、弱っているたーくんをじっと見つめていました。
唯「……死んでないよね?」
憂「うん、大丈夫だと思うけど」
狭い水の中で弱ったたーくんの姿に、半透明に歪んで映る私たちの顔が重なります。
錯覚なのか、自分がたーくんを閉じこめいたぶっているような気がしました。
見ないようにしてその場を離れるため、引き出しにエサをしまいに行きます。
するとお姉ちゃんが私の方を向いて真剣な顔つきで訊ねました。
唯「ねぇ、たーくんって……もしかして食べすぎ?」
なんだかミスマッチな気がして、思わず吹き出してしまいました。
唯「ちょ――ういー、わたし本気で…」
憂「そういうお姉ちゃんだって、ちょっと笑ってるじゃん」
二人でつられあって笑ってしまいます。
なんだか、それほど心配するようなことじゃないようにも思えました。
お姉ちゃんはこうやって、いつも自然と私の心を軽くしてくれます。
それからお姉ちゃんはシャワーを浴びに行き、私は金魚鉢のなかのごみをスポイトで吸い取るのを再開しました。
ベタはカルキが抜かれて酸素がほどよく入った水でないと弱ってしまうので、あまり水を入れ替えるわけには行かないのです。
たーくんは弱っているようですが、ときどきひれを少し動かしては部屋の照明の方へ向き直ったりしています。
お姉ちゃんをあまり心配させたくなかったのですが……やっぱり、不安は消えません。
金魚鉢のゴミ掃除を終えてから、私は前に和ちゃんからもらった熱帯魚用の薬を数滴垂らしました。
薬浴といって、薬の入った水に浸かることでたーくんの具合がよくなると聞いています。
私はまたソファーに身体を預け、ぼんやりと金魚鉢や窓の外を見ていました。
窓の向こうの曇り空はにごった水槽のようで、リビングの生ぬるくていけない空気も実は心地よかったです。
ときどき家の外を通る車の音が小さな気泡がはじけるように遠く聞こえて、すぐ前の道路ですら遠い世界のように思えます。
窓を開けなきゃ。
換気をしなくちゃ。
そうは思うのですが……なんとなく、このままでもいい気もしてしまって、ソファーに寝そべってしまうのです。
そういえば。
ここ最近は金魚鉢の水を替えていませんでした。
あまりに何度もきれいな水に替えてしまうとかえって住み心地が悪くなって弱ってしまう。
和ちゃんはそう言うので抵抗はあるのですが、さすがにそろそろ替えなければいけない時期かもしれません。
唯「おばあちゃん来た?」
気づくと、髪を濡らしたお姉ちゃんがそこにいました。
茶色がかったきれいな髪の毛は色鮮やかな魚のひれのようで、もう少しだけ濡れた髪を見ていたい、そう思ってしまいます。
憂「あ……まだだよ。九時だし、そろそろだと思うけど」
唯「ふぅん。ういもシャワー浴びる?」
憂「んー…そうだね。寝汗かいちゃったし」
唯「さくばんはおたのしみでしたねぇ」
憂「……お姉ちゃんが言わないでよ、はずかしいよ」
にやにや笑うお姉ちゃんから逃げるように私はリビングを出て、自分の部屋に着替えを取りに行きました。
シャワーをあびて髪を乾かし終わった頃、電話が鳴りました。
お姉ちゃんは自分の部屋にいるみたいなので、ドライヤーを置いて一呼吸おいてから受話器を取ります。
憂「はい。平沢です」
とみ『ああ憂ちゃん、おはようさん』
憂「なんだぁ、おばあちゃんだったんだ…びっくりしちゃったよ」
とみ『そうかい? それはすまなかったねぇ』
憂「ううん、だいじょうぶ。でもおばあちゃん、いきなり電話かけてどうしたの?」
とみ『それがねぇ…リウマチの病院行かなきゃならないの、てっきり忘れちゃってね』
年取ると物忘れが激しくていやだねえ、そう言っておばあちゃんは笑います。
憂「そうなんだ…腰の具合はどう?」
とみ『だいぶよくなったと思ったんだけどね……やっぱり無理はよくないねぇ』
憂「ごめんねおばあちゃん、無理はしないでね?」
とみ『いいのよ。憂ちゃんも唯ちゃんも私の孫みたいなものだから』
憂「………うん」
孫、という言葉を聞いてお父さんたちのことを思い出してしまいました。
最近は電話もめっきり減って、ずいぶん忙しくしているみたいです。
とみ『お父さんお母さんがいなくて、さみしかったりしないかい?』
私の気持ちを分かってくれたのでしょうか、おばあちゃんは優しく聞いてくれます。
心からいたわるような声でそう尋ねてくれるので、かえって申し訳なく感じてしまいました。
わたしは、おねえちゃんさえいればいい。
……両親の不在がそれほど気にならなくなっている私は、たぶん悪い子です。
とみ『ほんと、年頃の娘をほっぽらかしてなにやってるのかねぇ、平沢さんとこのだんなは…』
受話器の向こうでなげく声にどうしようもなくとがめられてる気がして、ごめんなさい、と一言つぶやきました。
ごめんなさい、本当にごめんなさい。
……ときどき私はおまじないのように、無意識につぶやいてしまうのです。
とみ『憂ちゃんが謝ることないじゃないの』
憂「でも、お姉ちゃんがこうなったのだって……」
最終更新:2010年10月23日 00:33