とみ『いいのよ。人生八十年、まだまだ長いんだから疲れた時はゆっくり休むのが一番じゃない』

 憂ちゃんは小さい頃から頑張り屋さんだったものね。
 とみおばあちゃんの気遣いは冷たい水のように心地よくて、それがかえって痛ましく感じるのです。
 言葉が心のどこかに開いた傷口に、間に合わせで固めたかさぶたを溶かすように染み込むんです。

とみ『元気になったら、二人で手をつないで外にでも行きなさいね』

憂「うん。私もお姉ちゃんとお散歩できたら……いい、かな」

とみ『そうよ。お天道様も照っていて、気持ちいいわよ。今日は曇っちゃってるけれどね、ふふふ』

憂「……うん、ありがとう」

 私は電話を切った後、開けていたカーテンを閉めました。
 陽の光が、窓の外から注ぎ込まれる熱が、ちょっとだけ怖かったのです。

唯「おばあちゃん、なんだってー?」

憂「……あ、うん。なんでもないよ」

唯「え…?」

 いつの間にかリビングに降りてきていたお姉ちゃんが、いぶかしむような表情で立っていました。

憂「あー…うん、ええっとね、おばあちゃんが来ないんだって」

唯「どして?」

憂「なんかね、リウマチの病院いかなきゃいけなくて……そうそう、お散歩がいい…って、ううん、なんでもない」

 とっさにわけが分からなくなって、つながらない言葉をやみくもに並べてしまいました。
 急に頭の中にいろいろなものがあふれてきて、息がうまくできません。

憂「――けほっ、こほっ」

唯「わわ、大丈夫?」

憂「……う、うん…水、あるかな」

 お姉ちゃんはすぐキッチンへと走り、コップに水を入れて戻ってきました。
 そして床に少しこぼれて広がった水滴に気づきもせずに、相変わらずせき込む私の背中をさすります。

唯「だいじょうぶ? 紙袋、いる?」

憂「ううん、落ち着いてきたから大丈夫……ごめんなさい」

唯「……憂は悪くないよ」

 背中をあたためていた手が離れると、すぐにその腕は私の身体ごと抱きしめました。

 肩にそっと頭を乗せて、頬を近づけるようにしてお姉ちゃんはささやきます。

唯「……あのね、私が全部悪いの。学校行けなくなっちゃったのも、私が引きこもりだから」

憂「……うん」

 『そんなことないよ。だって――』

 そんな言葉が頭に浮かんで、けれどお姉ちゃんの柔らかい腕がそれをかき消しました。
 このまま抱きしめられていてはいけない。
 けれど、そう思うこともお姉ちゃんを裏切る気がして、なにもかもが壊れてしまいそうで。

唯「……ごめんね、だめなお姉ちゃんで」

憂「……ううん、そんなことないよ。一緒にお姉ちゃんの引きこもりを治していこうね」

 怖かったんです。
 プールの中みたいに居心地のいいこの場所が、ガラスのように割れて壊れてしまうことが。

 もっとも、ずいぶん前に壊れてしまっているのかもしれないのですけど。

 落ち着くと私たちはいつもどおりの生活に戻しました。
 お姉ちゃんは自分の部屋で数学の問題集を進めて、私は洗濯機を動かしてから部屋の掃除を始めます。

 本当は掃除なんていらないほどきれいなリビングの床に掃除機をかけ、ほこりの溜まりそうな所を濡れ雑巾で拭きます。
 あまり掃除をし過ぎてしまうと居心地が悪くなってしまいそうですが、日課なので欠かすことはできません。

 昨日お姉ちゃんがコップを割ってしまった床を特に念入りに磨き上げ、ほかの床よりもきれいにできたところでようやく一休みです。
 お姉ちゃんも和ちゃんに言われて勉強がんばってるみたいだし、クッキーでも作ってあげようかな。
 小麦粉、まだ残ってたかな……。

 と、そのとき電話がかかってきました。

憂「はい、平沢です――」

純『やっほー。憂、元気してた?』

 声の主は同じ中学に通っていた純ちゃんでした。
 最近は電話も少なくなっていたので、前に話したときから一ヶ月ぐらい経っているかもしれません。

憂「純ちゃん久しぶりだね。でもどうしたの? 今日って学校じゃ…」

純『まぁね。行く気しないからさぼっちゃった!』

 えっ、それってどうなんだろう……。
 私たちもぜんぜん人のこと言えないですけれど。

純『あ、いやじょーだんだって。ほら、創立記念日。国民の祝日だよ!』

憂「国民のではないよ、純ちゃん」

純『まあいいじゃん別に。ところで暇だから遊び行ってもいい?』

憂「えっ……うん、別にいいけど」

 なんとなく喉が渇くような気がして、先ほどせき込んだ喉の皮膚がかすかに痛むのに気づきました。

 純ちゃんとは小学校の時に通っていた塾で知り合いました。
 はじめて会ったときは、私にとってちょっと苦手なタイプだと思っていました。
 けれども話してみるととても人なつっこくて、すぐに私たちは打ち解けたんです。

 そのころ通っていた塾で私は特別進学クラスに入っていたので、帰りがいつも夜の十時近くになっていました。
 お姉ちゃんも同じ塾に通っていて、中学に入るまでは純ちゃんと三人で一緒に帰っていたのを思い出します。

純『……うい? 聞いてる?』

憂「あ、うん。ごめん」

純『はぁ……憂がしっかりしないと平沢家ヤバいんだからさ、がんばんなよ?』

憂「……うん、ありがと」

 がんばれ、という言葉は重たくて昔は苦手でした。
 けれども最近はそうでもないみたいです。
 必要としてくれることが実感できて、ここにいてもいいんだって気がして。

純『あっそうそう! 憂、和さんから宿題もらってたっけ?』

憂「うん、昨日お姉ちゃんの分と一緒に」

純『……悪いんだけどぉ』

 なんだかちょっと吹き出してしまいます。
 宿題を見せてあげたり、教えてあげたりしていたのは塾のころからずっと変わってなくて。

純『笑わないでよー、私は憂と違って飲み込み遅いんだから』

憂「ごめんね、そういう意味じゃないよ。なんか……昔みたいだなって」

純『昔ねぇ……まぁいいや。じゃあ四時ごろ行くね』

 そのとき、ふいに純ちゃんが何か言いよどんだように感じました。
 私は一瞬問いかけようとしたんですが――結局、聞かずじまいでした。

憂「…うん、四時だよね。クッキーでも作って待ってるよ」

純『おおー神じゃん! じゃあ、おなかすかしとくからねー』

 弾んだ声で約束を決めて、電話が切れました。
 純ちゃんとは久しぶりに会うのでわくわくするはずですがが……なぜかそのとき、心にひっかかるものを覚えたのです。
 どうも無理しておどけた声を出していたような気がして。
 被害妄想だとは、思うのですが。


 それから私はチョコクッキーを焼き、シナモンティーの準備をして待っていました。
 お姉ちゃんもクッキーの焼ける香りにひかれてリビングに降りてきたので、ちょっとだけ味見をしてもらいました。

唯「うん、今日のとびっきりおいしいよ!」

 お姉ちゃんはそう言って、おどろいたような笑顔を見せてくれました。
 味見してもらったのは久しぶりに純ちゃんと会うのでおいしくできたか気になっていたのもあります。
 けれどやっぱり、できたクッキーをお姉ちゃんに真っ先に食べてほしかったのです。

唯「昨日のシフォンケーキもおいしかったけど、やっぱり憂の作るのが一番好きだよ!」

 あめ玉のように響くお姉ちゃんのうれしそうな声に、私は思わず抱きしめたくなってしまいました。


 純ちゃんがうちに来たのは四時半すぎでした。

純「ごめんごめん! 道混んでてさぁ」

憂「えっ、行く途中に近くで事故でもあったの?」

純「う……いや、そういう訳じゃなくてさぁ…」

 私が尋ねると、純ちゃんは困ったように目をそらします。
 何か聞いちゃいけないことでも聞いちゃったのかな……。

純「いや、あのね? 道混んでたとかって、単に寝坊したとかの言い訳で使わない?」

憂「うーん…寝坊したことがそんなにないから分からないよ」

 純ちゃんは大きくため息をつくと、やけになったみたいに少し大きめの声で言います。

純「ごめんなさい、お昼寝してたら寝坊しました!」

 あ、寝坊だったんだ……。

憂「あはは、純ちゃんらしいね」

純「なんか平沢姉妹と話してると自分が申し訳なく思えてくるんだけど…」

憂「え、どうして?」

純「いや、そのー…いい子だなって」

 私には純ちゃんがなにを言おうとしているのか、いまひとつ分かりませんでした。
 けれどもリビングから広がるクッキーのにおいに気づくと、純ちゃんは子犬のように「早く食べよ!」と私をせかします。

憂「……なんだか、変わんないね」

純「それどういう意味さっ」

 頬を膨らませてむくれる純ちゃんに謝ってから、わたしはシナモンティーをいれにキッチンに行きました。
 純ちゃんと久しぶりに話して、会うときまで胸につかえていたものが少し溶けた気がしました。

純「ほら、早く食べよっ」

憂「もう……食べたらちゃんと数学もやるんだよ?」

純「はいはい」

 小学校の塾の時も、私の作ったお弁当を食べながらこんな感じでおしゃべりしたんだっけ……。
 ちょっと懐かしい気持ちになりました。

唯「あー純ちゃん、久しぶり!」

純「わわ……唯さん、ハグ激しいですよっ」

 お姉ちゃんは純ちゃんに気づくと、昨日の和ちゃんの時みたいに強く抱きしめます。
 ふいに抱きしめられてはじめびっくりしていた純ちゃんの顔もとまどいからあきらめへと変わります。
 そうしていつしかやわらかな、ほっこりしたような顔を浮かべていました。
 私の大好きな、お姉ちゃんの腕の魔法です。

純「唯さん、相変わらずっすねー…」

唯「えへへ、久しぶりだとこうしたくなっちゃうんだよねえ」

 考えてみるとお姉ちゃんは外から誰かが来るたびに抱きしめていました。
 お姉ちゃんだって病気が治ったら外に早く出たいんだと思います。

憂「……お姉ちゃん。クッキー、食べようよ?」

唯「あっごめん、じゃあおやつにしよっか!」

 一瞬だけ胸の奥が曇ったような気がして、そんな自分がいやになりました。
 なに考えてるんだろう、私。


 純ちゃんはリビングに着くとすぐにソファーに寝ころがってお菓子をねだりました。

純「ういー、くっきー」

憂「ふふ、なんだかお姉ちゃんみたいだね」

唯「だって憂の料理おいしいんだもん、しょうがないよ」

純「んっとにラブラブだよね、平沢姉妹……」

 クッションを抱きしめて足をぱたぱたさせている純ちゃんがちょっとあきれたように言いました。
 さっき心の奥で溶かしたはずの良くないものがまた固まるような気がして、私はあわててクッキーを取りに行きます。

 シナモンティーを入れてリビングに戻ると、純ちゃんが金魚鉢をのぞき込んでいました。

純「ねぇ……このベタ、なんか弱ってない?」

憂「あ、うん……。今朝からなんか様子がおかしいの」

唯「今日はくもりだし、たーくんも元気じゃないんだよ」

 純ちゃんと入れ替わりにソファーに寝ころがったお姉ちゃんが、仰向けになって言います。
 決して忘れていたわけではないけれど、たーくんのことを思い出して喉の痛みがぶり返すように胸の奥で何かが黒く広がるのを感じました。

純「あのさ、憂」

憂「な、なにかな…?」

純「これ、そろそろ水入れ替えた方がよくない?」

 きっかけはささいなことだったんです。

憂「え……でも和ちゃんが『あんまり水換えるのよくない』って、そう聞いたから」

純「うーん、それにしたってもう替えなきゃだよ。スポイトで吸い出して捨てられるゴミだけじゃないんだし」

憂「そうかな……水替えたら、たーくん環境に慣れなくて」

 さっきまでと違って、どう話していいか分からなくなって言葉を選ぶのに焦ってしまいます。
 純ちゃんも言葉を選んでいるみたいですが、なぜかあわててしまう私を諭すように話しています。

純「ずっとおんなじ水の中にいる方が体に悪いよ」

憂「うん……その、水換えた方がいいのは分かってるんだけど、うん、分かってる」

純「っていうか、その、さ? 憂ってやっぱ過保護すぎて逆になんかベタとかも…」

唯「ちょ、ちょっと純ちゃん――」

 やっぱ最近の憂、なんか憂らしくないよ。
 ……いつ聞いたともしれない言葉がもう一度聞こえたとき、急に喉が苦しくなりました。

純「ちょ――憂大丈夫?」

 さっき治まったはずのせきがまたぶり返してしまって、立っていられなくなりました。
 弾みでティーカップを落としてしまい、破片が床に散らばります。
 どうしよう、またこぼしちゃった。
 どうしよう、どうしよう……。

唯「う、うい大丈夫?! 待ってね、いま紙袋持ってくるから――」

純「あ、あの唯さん私も」


唯「純ちゃんはだまっててよ!」

 突き刺すようなお姉ちゃんの声が部屋に響きました。

 なにも言えず立ちすくむ純ちゃんの横をお姉ちゃんは駆け出し、すぐに紙袋を握りしめて戻ってきました。

唯「ほらうい、大丈夫だからね? ゆっくり息して、深呼吸だよっ」

 私の身体を抱き留めて背中をさするお姉ちゃんの向こう側で、純ちゃんは食べかけのクッキーを握りしめたまま私たちを見ていました。
 おびえているのか、あわれんでいるのか分からないけれど、純ちゃんの目が怖くてお姉ちゃんの手を握りしめます。

唯「ごめんね、お姉ちゃんがこんなことになったせいで、憂に迷惑かけちゃって」

 違う。違うって分かってるのに……。
 大丈夫大丈夫大丈夫って自分に言い聞かせて呼吸を無理矢理整えようとするのですが、酸素はうまく身体に入っていきません。
 どうにか空気を吸い込もうとするのですが、するとよけいに咳がひどくなって涙までこぼれてきます。

 だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ。
 お姉ちゃんの声と背中をさするあったかい手に合わせて、少しずつ呼吸を楽にしていきます。

唯「だいじょうぶだよ、うい。私がそばにいるからね」

 お姉ちゃんは床にうずくまった私の右手と指を絡ませて、息が苦しくならないように身体を支えてくれます。
 体重を預けてリズムに合わせて深呼吸を繰り返していくうちに、がらがらと鳴っていた喉も次第に落ち着いていきました。

唯「……純ちゃん」

純「ごめんなさい、私が変なこと言ったせいで…」

唯「ううん、私だって分かってるもん」

 来たばかりの純ちゃんはクッキーをちょっと迷ってお皿に戻し、ごちそうさまでした、と言って身支度をはじめました。
 お姉ちゃんはその間もだいぶ楽になった私の身体をずっと抱きしめて、だいじょうぶだいじょうぶとささやいてくれていました。

純「あの……言いにくいんですけど」

 帰りの支度を整えた純ちゃんが、目をそらしながらお姉ちゃんに声をかけます。
 お姉ちゃんは私を守るようにぎゅっと抱きしめて、純ちゃんの方を向きます。

純「唯さんは憂のためにも、引きこもりやめた方がいいと思います」

唯「……分かってるよ、そんなこと」

 ――やっぱり、おかしいですよ。こんなの。ラブとかじゃないです、ぜったい。

 とがめるでもなく、いたわるでもなく、ただ心配そうな声で最後に純ちゃんはそう言いました。
 それからドアを閉める間際に振り返り、何かを言おうとして――代わりに目を伏せて、その場を後にしました。

 お姉ちゃんの身体が震えたのに気づいて顔を上げます。
 すると……その大きな瞳から涙がこぼれて、ぽたりと私の服に染み込みました。

唯「ごめんね、うい…なんにもできなくて、こんなことしかできなくて、つらいまんまで」

 お姉ちゃんが顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり、私に抱きついてずっと謝り続けていました。
 違うのに。全部、わたしのせいなのに。
 お姉ちゃんが学校行けなくなったのも、外に出られなくなったのも。
 全部私が悪いのに……。


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最終更新:2010年10月23日 00:34