予感はいつも、悪いほうばかり当たってきました。
私たちがこの半年間、未来のことを考えるのから逃げ続けてきたのも、たぶんそのせいです。
憂「あれ、入ってない……?」
後になって家に着いてカバンの中を調べた時に、奥の方で折れ曲がったプリクラが見つかりました。
だからたまたま何かに引っかかって財布から落ちてしまっただけなのでしょう。
けれどもそれは、緊張していた私の心をバラバラにするのに十分すぎるほどでした。
憂「……はぁっ…かはっ……あがっ…ふぅっ……」
問題用紙が配られる頃には、私の喉はまた呼吸の仕方を忘れてしまいました。
試験開始前、静まり返った会場に自分の呼吸音がうるさく響きます。
ダメだ。
大丈夫にしなくちゃ。
これは病気なんかじゃない、ちょっと息がおかしいだけなんだ。
……そう言い聞かせても呼吸が戻るはずもなく、おさえようとするほどかえって悪化していきます。
開始二分前、私の席に試験監督の先生が駆け寄って来ました。
私はなんとか試験を受けたくて、だいじょうぶです、と言おうとします。
けれども言葉の代わりに出たのは気管支まで響くようなくぐもったせきだけでした。
それでも試験だけは受けようとしたので、解答用紙を腕で守ろうとします。
その時、試験監督の人に腕をつかまれて椅子から倒れてしまいました。
転げ落ちた足元から会場の教室を見上げたとき。
私の視界に、着席した深海魚の群れが飛び込んで来ました。
『アクシデントのため、この教室の国語試験は五分遅延します』
副監督の先生が響かせた声を遠く聞きながら、私の意識は薄れていきました。
それから次の年の四月、私が桜ヶ丘中学に進学するまでのことはよく思い出せません。
受験勉強からの反動で無気力状態に陥り、卒業式の練習で学校に行く以外はずっと自分の部屋にいました。
ベッドの上でいらない参考書を読み返したり、純ちゃんから借りたマンガ本をぱらぱらめくってみますが、何が書かれているのかもよくわかりません。
文字が文字としてしか映らず、主人公の表情もただの絵にしか思えなくなっていたんです。
そんな状態の私を気づかってか、お姉ちゃんは私の手を引いて買い物やアイスクリーム屋さんへと連れて行ってくれました。
唯「うい、おいしい?」
三段重ねのアイスクリームをおいしそうになめながら、お姉ちゃんが聞きます。
私はそのころ、本当は食べ物の味すらもよく分からなくなっていました。
けれどもなんだか楽しそうなお姉ちゃんを見ていると、私の緑色のアイスがとてもおいしいような気がしました。
憂「……うん、おいしいよ!」
お姉ちゃんはやわらかく笑って、私のアイスを一口かぷりと食べちゃいました。
唇に緑色のアイスをつけたお姉ちゃんがなんだか子どもっぽくて、吹きだしてしまいます。
たぶん私を笑わせる方法を、世界で一番知っているのはお姉ちゃんなんだと思います。
一年前の四月から、私は桜ヶ丘中学に進学しました。
お父さんが私立に行った方がいいのではと手紙で提案しましたが、お姉ちゃんと同じ中学校を選びました。
どこか知らない中学に通ってお姉ちゃんと離れ離れになる方が不安が大きかったからです。
唯「えへへ、ういとおそろいの制服だね!」
春休みじゅう、ずっとお姉ちゃんが一緒にいてくれたおかげで私もいくぶんか元気になりました。
そのころ、受験中にいろいろお世話をしてくれた恩返しとして私は毎日お姉ちゃんにごはんを作ってあげることに決めました。
それは春休みを過ぎてもずっとずっと続き、いつしか私の家のご飯はぜんぶ私が作ることになっていました。
ずっと前からとみおばあちゃんと一緒に料理を作るのが好きだったのもあります。
けれどもそれ以上に、恩返しはぬきにしたってお姉ちゃんを毎日喜ばせてあげたかったんです。
困ったときにはずっとそばにいてくれて、つらいときにすぐ駆けつけてくれる。
そんなお姉ちゃんを笑顔にすることだけが、私の生きがいになっていました。
唯「ういの作るごはんがおいしいから、生きるのが楽しいよ!」
食べ終わった食器を片付ける時、お姉ちゃんはおどけたそぶりでそんなことを言いました。
あの言葉が冗談だと分かっていたとしても、私の胸は音を立てそうなほど高鳴ったのです。
あの頃から、私はお姉ちゃんに恋していたんだと思います。
中学校での生活ははじめ、それほど楽しいとはいえなかったです。
クラスメイトは小学校の時とほとんど変わらなかったので、わだかまりを残したまま進学してしまったからです。
教室に入るとその頃のクラスメイトと顔をあわせるのが怖くて、なんとなく避けてしまいます。
そういう態度をとってしまうせいで、ますます私は他の子たちとも話が出来なくなってしまう一方でした。
それでも学区の区分けが変わって、純ちゃんと同じ学校になったのはうれしかったです。
一年次のクラス分けでは別になってしまいましたが、休み時間のたびにちょっとずつ純ちゃんやその友達と仲良くなることができました。
とはいえ……自分の教室に戻ると、誰とも話が出来ないまま本を読むような日々が続いていました。
やっぱりこのままではいけません。
こんな気持ちで通学していたらいずれはお姉ちゃんを悲しませてしまいます。
そう思って私は和ちゃんに頼んで、生徒会のお仕事を手伝わせてもらうことにしました。
純「ふーん……やっぱぞっこんなんだね、憂」
純ちゃんと一緒にいつものハンバーガーショップでお話していた時のことです。
私とお姉ちゃんの話をしていたら、いたずらするみたいににやにやと口を挟まれました。
憂「え……そうかな。私はお姉ちゃんっ子なだけだよ」
純「ええー? それぜったいラブの域いってるって!」
お姉ちゃんと、ラブの関係……。
恥ずかしくて顔が熱くなってしまう私は気にせず、純ちゃんのテンションは上がります。
こんな風に恋の話で盛り上がっていると、私も女子中学生なんだなって変に納得してしまいます。
純「じゃあもうコクっちゃいなよ! お姉ちゃん、すきです!って」
憂「あはは……うん、お姉ちゃんのことは、好きだけどね……うん」
純「憂、めっちゃ照れてるじゃん。いいなー私も恋したいなあっ」
あの時どのくらい本気で純ちゃんが私の恋を応援していたのかは分かりません。
普通に考えたら、自分の家族に恋愛感情を抱く時点でいろいろ間違っているはずです。
純ちゃんは私といる時も学校と同じようにおどけてくれます。
その言葉が冗談だとしても純ちゃんが私を元気付けようとしているのは伝わったので、なんだかほっこりした気分でした。
純「じゃあ、選挙終わったらデート行って告白しなよ」
とんでもない提案をされてしまいました。
憂「えっ……ええっ! そんな、そんなことしたら…うちで気まずくなっちゃうよぉ…」
純「なにさ、憂だってコクったあとのことリアルに想像してんじゃん」
こういう時だけ勘がするどい純ちゃんが怖いです……。
そのとき私は六月に和ちゃんが会長に立候補する次期生徒会役員選挙で選挙管理委員となっていました。
書類整理など生徒会の仕事をいろいろ任されるうちに他の生徒会員のみなさんからも信用がある、そう和ちゃんは言っていました。
生徒会役員選挙は和ちゃんだけでなく、私にとっても正念場となる催しでした。
だから……これは失敗するわけには行きません。
純「まったくもー。憂はがんばりすぎなんだよ、お姉ちゃんとデートの一つでも行ってくりゃいいじゃん」
憂「はい、はい……うん。じゃあ、選挙終わったらどこか出かけてみるね」
そう考えると、純ちゃんのおかげで選挙の日が楽しみになってきました。
デートプランは純ちゃんが考えてくれるらしいので、私は選管の仕事に専念しました。
投票方法を公示したり、立候補者のスピーチを録ってお昼の時間に流したりと実は選挙以外にも大忙しです。
けれども生徒会や同じ選管の先輩がたに助けられながらの仕事は、楽しくてやりがいがありました。
純ちゃんにはよく言われることですが、誰かが自分のおかげで笑顔になってくれることが一番うれしいんです。
中でも一番好きな笑顔は……お姉ちゃんの、花が開くようにふわっとした顔なのですが。
和「無理しないでよ、憂は自分ひとりで抱え込みすぎるんだから」
憂「ありがとう、和ちゃん。でもだいじょうぶだよ」
和ちゃんは心配そうに言いますが、生徒会や同じ選管の人に信用されたことが強い自信につながっていました。
それに小学校の頃から和ちゃんには迷惑をかけどおしだったので、恩返しもしたかったのです。
あとは……選挙が無事に終わったら、お姉ちゃんとデート。どきどきします。
いろんな人のために、私は中学校で初めての選挙管理委員をまっとうしました。
そうして、本番を迎えました。
綿密な準備の上での本番は、たぶん成功だったのでしょう。
体育館での選挙演説で和ちゃんは部活の活動時間を増やすマニフェストを掲げて、見事トップ当選しました。
集計作業のとき、他でもない「
真鍋和」の名前が丸で囲まれているのを見るたびに温かいものを感じたのです。
けれども……次の週の月曜日、登校したときでした。
同じクラスの子たちが集まってなにかうわさ話をしていました。
そうして登校してきた私を見つけると、ちらちらと私の方に冷たい視線を向けるのです。
私の方を見てはひそひそとささやきあうクラスの子たち。
何を話しているのかはよく分からなかったですが、よくない話に繋がっていることは伝わりました。
そんな彼女たちを見て、小学校の教室が一瞬、頭に浮かんで息を詰まらせます。
――ダメだ、そんなことないよ。お姉ちゃんに心配掛けちゃダメ。
心の中でそう言い聞かせながら通学カバンを置くと、純ちゃんが教室に駆け込んできました。
純「ちょっと憂、時間ある?」
どこか様子のおかしい純ちゃんに引っ張られるようにして階段を少し早足で上り、私たちは四階の社会準備室に入りました。
授業用の世界地図や地球儀なんかが置かれたその部屋は普段入る人が居ないため、純ちゃんや私はそこでお弁当を食べることが多々あったのです。
そこにお姉ちゃんや和ちゃんを交えることもあって、社会準備室は私たちの秘密の隠れ家のような場所でした。
純「……あのさ、私は憂のこと信じてっからね? だから、落ち着いて聞いてほしいんだけど」
その口ぶりがいつもと違って重くて、何が純ちゃんをそうさせているかと思うと怖くなります。
純ちゃんは私の左手にそっと手を乗せると、制服のポケットから携帯電話を取り出しました。
純「土日辺りから変なうわさ流れてるっぽいんだよ。和先輩の当選が、不正だったんじゃないかって」
――それから、その不正に関わっていたのが和ちゃんと仲のいい選挙管理委員の、
平沢憂なんじゃないかって。
胸の奥が変な風に響きだして、自分の息遣いが良くない方向へ強まるのを感じました。
純「――憂、大丈夫?」
繋いだ手を思わず強く握ってしまうと、心配した純ちゃんが背中に手を置いて心配そうに声をかけました。
憂「ごめん、大丈夫……。でも、不正って、どういうことなの?」
純「うーん……いいや、私が話すよ」
一瞬、携帯電話に目をやって悩んだそぶりの純ちゃんは、やがてそれをカバンに投げ込んで話始めました。
昨日あたりに、純ちゃんの携帯にとあるサイトのアドレスがチェーンメールで送られてきたそうです。
それは桜ヶ丘中学の裏サイトというもので、生徒や先生のうわさについて書き込みする掲示板みたいなものだったみたいです。
純ちゃんが言うには、開票と和ちゃんの当選が決まった日の夜に掲示板へ「得票数がおかしい」という内容が書き込まれていたそうです。
憂「……その裏サイトっていうの、今も見られるの?」
純「ごめん、見せたくない。ひどいことしか書かれてないもん」
そう言ってカバンを遠ざけようとした純ちゃんの腕を握って、見せてくれるように頼みました。
いつしか、自分の声が涙交じりになっていたのに気づきました。
『名無しさん:×ナベの一年の票が多すぎるけどこれ絶対票数いじってるよね?ワラ』
『名無しさん:バスケ部のヨコタニ先パイが落ちるとかマジでない ×ナベってやつ裏でなんかしただろ』
『名無しさん:あのガリベン!って感じのメガネのやつ?(^ω^;)』
『名無しさん:前も生徒会にいたよなあの女 長い間生徒会に居座って内申書良くしてほしいってのが見え見え』
『名無しさん:ってか票数工作したんじゃね?ww グルなんだろ』
『りお☆:↑今年の選挙が自作自演だったってコトですか??』
『名無しさん:俺1年だけど、×鍋の友達のH沢ってやつがアヤしいと思います コネで選管入ってたって先輩言ってたし』
『真・バスケ狂:H沢って誰?』
『平行世界に住む男:ところで昨日UFO見ました スーパーのカップ麺売り場で』
『名無しさん:ユーウツの鬱って字書く子でしょ? 同じクラス』
『通りすがりの桜中生:実名出すなよ つか根拠ないのに変なこと言うな』
『名無しさん:↑↑鬱じゃないよwww』
『名無しさん:↑↑↑知ってる 小学校でいじめられてたって友達から聞いた』
画面を下に移動させながら、自分がえたいの知れないものに飲み込まれるような感覚に襲われていきました。
続きを見るのが怖くて、けれども見なくてはいけない気がして――そんなとき、純ちゃんは携帯電話を無理矢理閉じました。
憂「……どうしよう、わたしの、私のせいだ…」
純「えーっとうん、気にしない方がいいって。こんなの面と向かって言えない人が陰口書いてるだけだしさ」
指先が少しずつ震えてくるのを抑えられず、そんな私の手を純ちゃんはずっと握っていてくれます。
和ちゃんに恩返しをするどころか、信用を奪ってしまった。
私が選管じゃなかったらこんなことにならなかったのに。
不正のことはもうクラス中に伝わっているみたいで、うわさが見えない怪物のように私を囲み込んでいるのです。
とめどない罪悪感と錯覚とも妄想ともつかないような何かが頭の中でぐるぐると膨れ上がって、学校中の誰からも憎まれているようなそんな気がして、
憂「――もう、いやだよぉ!」
純「うあ、ちょっと憂、落ち着こうって、ほらっ」
唯「憂、入るよ?!」
飛び込んできたのはお姉ちゃんでした。
手足のふるえが止まらなかった私を両腕でなんとか押さえつけていた純ちゃんに代わって、お姉ちゃんは全身で抱きしめてくれます。
純「あ、あの……唯先輩、授業とかって」
唯「だいじょぶさぼるから。純ちゃん、メールくれてありがとう」
お姉ちゃんは即答すると震える私の身体を力強く抱きしめて、頭をなでながらだいじょうぶだいじょうぶとささやきます。
中学に入ってから、私はお姉ちゃんに自分がクラスでも元気でやっているように振る舞ってきました。
たぶん、その反動が来てしまったんです
憂「おねえちゃん…たすけて、つらい……」
唯「だいじょうぶ、ういのそばにいるよ」
憂「がっこう、いきたくないよ…もうやだよぉ……」
――じゃあ、家にずっといようよ。
その時のお姉ちゃんのささやき声は、いつかに食べたハチミツのように甘かったのです。
純「えっと、じゃあ…私戻りますね」
唯「うん。ありがとね、純ちゃん」
少し落ち着いてから準備室を出て、私はお姉ちゃんに抱きかかえられるようにして保健室へと向かいます。
そこまでの道のりで生徒とすれ違うたび、私はその人たちの視線が怖くてお姉ちゃんの胸元に顔をうずめてやり過ごしました。
あの掲示板に誰がどう書き込んでいたのかなんて分からないので、道行く人すべてに憎まれているような錯覚が消えなかったんです。
そしてそれは赤の他人だけじゃなくて――
憂「……おねえちゃん、ごめんなさい…」
唯「だいじょうぶ! 今日の晩ごはんは私にまかしといてよっ」
憂「そういう、はなしじゃなくて……あは」
思わず口にでてしまった私の言葉を、お姉ちゃんは見当違いな方へ解釈して元気づけてくれました。
今も涙が乾き切らないほど泣いていたのに、思わず笑ってしまったんです。
その日、私はお姉ちゃんと一緒に学校を早退して家でゆっくり過ごしました。
私はベッドでお姉ちゃんに抱きついて、眠るまでそのままでいてとおねだりして、起きてからもそばにいてとお願いしました。
選管の仕事でなかなか一緒にいられなかった分を、それに今までふれあえなかった分を取り戻すように。
そうしてお姉ちゃんの腕の中で、何度目かに目を覚ましたころには。
冗談半分で純ちゃんに見抜かれた気持ちを隠す気力なんてなくなっていました。
私、やっぱりお姉ちゃんのこと、好きなんだ……。
最終更新:2010年10月23日 00:42