隣のお姉ちゃんは笑いました。
 そよ風の吹く暖かい道のりを、二人で歩く。
 絡ませた指に力を込めると、同じように握り返してくれる。
 たったそれだけのことが……とても尊いものに感じたんです。

 陽の光に照らされて半年振りに歩くこの街は、全てがきらきらと光って見えました。


唯「どこ行こっか?」

憂「うーん…」

唯「じゃあさ、あっちいこうよ」

憂「うん!」


 昼間のまばらな人通りの道を、手をつないで歩きます。

 肌を暖める陽の光。
 遠くで響く、鳥の鳴き声。
 うなじをなでて吹き抜ける風。
 一つにつながって伸びた二つの影。
 そのどれもが、家の中から水槽のような窓を通して見た時には味わえなかった新鮮な感触でした。

 私はただ、お姉ちゃんの進む方へ歩いてきます。
 言葉を交わさなくたって、どこへ向かってるかは分かりました。
 もしかしたら手の温もりが教えてくれたのかもしれません。

唯「ついたねえ」

 そこは、むかし私たちが一緒に遊んだあの公園でした。
 向こう側のベンチは、いつか見た夢のように砂金のような木漏れ日に照らされていました。

 二人でそのベンチに腰掛けてみたら、ちょっと窮屈でした。
 小学生やその前は広く感じたので少し不思議な気分です。

唯「ベンチが小さくなっちゃったのかな…」

 お姉ちゃんはくすくす笑って言うので、私もつられてしまいます。

憂「私たちが、おっきくなったんだよ。お姉ちゃん」

 言葉に出してみると、幼稚園の頃の私たちがふっと浮かんで……なんだかとても遠くまで歩いてきたような気がしました。

 握ったままの手を私の太ももの上に乗せて、お姉ちゃんの肩に頭をあずけてみます。
 こうして狭いのも、くっつけるからうれしいかな。

 木漏れ日が足下できらきらと揺れるなかで、私たちは寄り添って過ごしました。

 お姉ちゃんは今朝、私の復学に必要な手続きを調べに学校に行っていたそうです。
 話によると、一年近く休んでいても心療内科の診断書があればなんとか取りはからってくれるみたいです。

唯「落ち着いたら、さ」

憂「うん」

唯「学校、いこっか」

憂「……そうだね」

 学校に行って、中学生をやり直す。
 それは私たちが、姉妹をやり直すという意味でもありました。

唯「ねぇ」

憂「なあに?」

唯「…すきだよ」

憂「うん…わたしも」


唯「…やっぱ、ういのこと、すきじゃない」

憂「………」

唯「……あいしてる」

憂「うん……わたしも、おねえちゃん」

 隣にいるお姉ちゃんの顔を見上げると、うっすらと涙を浮かべていました。
 かすかに震えるお姉ちゃんの手を、私も強く握ります。
 私もまぶたが熱くなって、視界がうるんでいくのを感じました。

唯「……うい、わたし…離れたくないよ…」

憂「おねえちゃん…わたしも」

唯「でもね、私たち……おとなにならなきゃ。でなきゃ、愛せないよ」

 依存じゃなくて、愛にするためには、お互いが自立しなくちゃいけない。
 お姉ちゃんは、チャットでそういわれたと涙ながらに教えてくれました。

 いつも私のことを真っ先に守ってくれたお姉ちゃんが、そのときはとても小さく見えたのです。
 私は立ち上がって、そんなお姉ちゃんに覆いかぶさるように抱きしめました。

唯「うい、あったかいね…」

憂「おねえちゃんだって、あったかいよ」

 涙声のお姉ちゃんが真っ赤になった目で私を見つめます。
 大きな瞳の中には、同じような顔の私が小さく映っていました。

唯「ねぇ……うい、やくそく。してくれる…?」

憂「……いいよ、おねえちゃん」

 ――いつか、ほんとの恋人になろうね。

 私は大きくうなづいて、愛する人に最後のキスをしました。
 その味もまた……涙で、ちょっとしょっぱかったです。


  ◆  ◆  ◆

梓「……やっぱ、付き合ってたんだ」

憂「えへへ。ばれてた?」

梓「ばれてるっていうか、隠す気なかったじゃん」

憂「そ、そうかな…」


梓「それでさ。明日からなんだよね」

憂「……うん」

梓「唯先輩が、東京で一人暮らしはじめるのって」


憂「うん。荷物はおととい送っちゃったけどね」

 梓ちゃんの顔がどこか不安げに見えたので、思わず話をそらします。

 事実、お姉ちゃんの部屋はもうからっぽでした。
 本や勉強机、教科書、布団……さまざまなものがまだ置かれているのに、お姉ちゃんの匂いを感じないのです。

 あまりに掃除が行き届いた部屋は、ホテルのように生活感がなくなると聞いたことがあります。
 それはたとえば、きれいすぎる水槽では魚は生きていけないことと似ているのでしょうか。

 数日前まで部屋を埋め尽くしていたダンボール箱がいなくなった今では、部屋に入ってもお姉ちゃんの存在を感じないのです。
 私は今朝、ただの部屋を掃除しているのがつらくなって昼過ぎに梓ちゃんを呼びました。

 そして……お姉ちゃんとのことを、梓ちゃんに話したのです。


 三年前のあの日。
 お散歩から帰ってきた私たちは、半年ぶりに心療内科への予約を入れました。
 自分の名前の入った診察券を使わなくなったお財布の奥から取り出して、初めてお姉ちゃんと病院に行った日を思い出したりします。

 お姉ちゃんはしばらくチャットをしてからリビングに戻ってたので、一緒に晩ごはんを食べました。
 相変わらずお姉ちゃんは好きなものを口にほおばりすぎてむせるので、なんにも変わってないんだって安心できました。

 それからテーブルを挟んで私たちは少しお話をします。
 距離間について、でした。

 キスはダメ。
 それ以上はもってのほか。
 したら嫌いになる……そう誓いました。

 本当は嫌いになれっこないのだって分かっています。
 ただ、一度そういう振りをするのが大事なことも、互いに分かっていました。

 それを全部分かった上で、私はお姉ちゃんに頼みます。

憂「でも……お姉ちゃんと、手はつなぎたいな。それだけで、それぐらいでいいから」

唯「……そうだね。じゃあどっか行きたいなら、連れてってあげるよ!」

 テーブルから恐る恐る伸ばした手を、お姉ちゃんが両手で握ってくれた時。
 私は、もう一度がんばってみようって思えたんです。


 お母さんやお父さんと、少しずつ話ができるようになったのもそのころからです。

 お父さんは相変わらず忙しく、お母さんも付き添っているので今でもあまり話す暇はありません。
 でもお散歩した日の後で書いた手紙に、お母さんから返事が来ました。

 小さい頃から仕事の都合でとみおばあちゃんにたびたび預けられていた私たちは、お母さんよりもおばあちゃんになついていたそうです。
 それが腹立たしくて、自分から私たちを遠ざけるような育て方をしてしまった……手紙には、謝罪の言葉とともにそう書いてありました。

唯『……自分勝手だね』

憂『うん…』

唯『でも……お母さんには、感謝してるんだ』

憂『どうして?』

 だって、憂を産んでくれたんだもん。
 そう言ってお姉ちゃんは手をぎゅっとにぎってくれました。

 私たちは話し合って、少しずつ両親のことを許していこうと決めました。

 親の居ない子供は無理やり大人になろうとするから、かえって途中で子どもに戻ってしまう。
 子どもでいなきゃいけないころに大人の役割を演じだしてしまうと、いずれ子供に逆戻りしてしまう。
 お姉ちゃんのチャット相手の人はそんな話を聞かせてくれたみたいです。

唯『おおきくなったら、ういのおよめさんになるんだ…!』

憂『だめだよお姉ちゃん、そしたら、私がお姉ちゃんのお嫁さんになれないもん……』

唯『……なんか、幼稚園のころもそんな風にいってたよね』

憂『そ……そうかなあ?』

 ういってこどもみたいだね。
 そう言ったお姉ちゃんも、やっぱりこどもみたいにはにかみました。


 クリスマス近くになって、お母さんだけが帰国しました。
 お父さんは忙しいと聞きましたが……本当は、私たちに会うのが怖いのだと聞きました。

 私たちは、自分たちの関係をそれとなく伝えました。
 否定されるかと思ったら……二人そろって抱きしめられました。

 ――こんなになるまで、逃げてしまってごめんね。

 お姉ちゃんとはどこか違った、私を包み込むように抱きしめる感触。
 変わった感覚にとまどうけれど……いつかはお母さんにも慣れて甘えられるような、そんな気がしました。

 お姉ちゃんの提案で、私たちは仕事でがんばるお父さんのために手紙を書きました。
 それからお父さんとは、エアメールのやりとりをするようになりました。
 私たちは少しずつだけど、家族へと戻っていったのです。

梓「……なんか、憂たちは大人だなー」

 話を聞いていた梓ちゃんが、ぽつりとつぶやきました。

憂「えっ……そんなこと、ないと思うけど」

梓「共働きっていえばさ、うちもそんな感じだったじゃん」

 梓ちゃんのご両親はプロのギター奏者で、公演でたびたび渡米しているそうです。
 だから梓ちゃんの家も、家に子どもの梓ちゃん一人になることが多かったそうです。
 私は軽音部を通して梓ちゃんと仲良くなって間もないころ、鍵っ子仲間だと分かって距離が近づいたのを思い出しました。

梓「授業参観に来てくれないとか、そんなぐらいだったけどさ。やっぱ、親を許そうって気にはなれなかったよ」

 別に恨んでたりとかしてないけど……距離とかあるんだよね。
 梓ちゃんはそうつぶやくと、うつむいてさみしそうに笑います。

梓「唯先輩がお姉ちゃんだったら、そういう意味で惚れてちゃってたかもしれないなぁ……」

憂「……私は、お姉ちゃんじゃなくても惚れてた気がするよ」

 思わず口にしてしまったら、心の奥にしまっておいた不安のかけらがみるみる大きくなるのを感じました。
 ……お姉ちゃんの一人暮らし、応援するって、決めたのに。

梓「ところで、さ」

憂「なあに?」

梓「唯先輩って、なんで一人暮らしすることにしたの?」

 そういえばこの質問は軽音部のみなさんにも聞かれました。
 律さんはふざけて「あんなけなげなお姉ちゃんっ子を捨ててどこに行く気だ!」とお姉ちゃんをいじめてたぐらいです。
 そんなことを聞いたらその場に居合わせた私の方が恥ずかしくて、顔から火が出そうでした。

 お姉ちゃんはその時「自立します! 妹に頼ってごろごろする私はもうやめたのです!」と高らかに宣言します。
 その場はどっと沸いて、みなさんもお姉ちゃんと一緒に笑っていたのですが……私は、それほど楽観的にはなれずにいました。

憂「……自立するためって、言ってたよ」

梓「それは聞いたよ。でも、それよりなんかあるんじゃないかなって」

 梓ちゃんは、私の瞳の奥を射抜くような眼差しでじっと見つめます。

憂「……うん。私と、離れて暮らしたいって」


 卒業式の二、三日前のことでした。
 お風呂から上がって眠る間際、私はお姉ちゃんから一人暮らしすることを聞きました。
 急な話なのでとにかくびっくりしてしまって、思わず問いただすような形になってしまったのを覚えています。

唯「う、ういぃ…あのね憂。そういうわけじゃ、なくてね」

 お姉ちゃんは私を落ち着かせるように、なだめるように語りかけます。

憂「うん」

唯「ほら、憂と私ってさ、ずっと一緒に暮らしてきたじゃん」

憂「……うん。生まれたときから、ずっとだよね」

唯「だから、その……一度、離れて、私が憂と一緒にいていいってことを、ちゃんと確かめたいっていうか…」

 お姉ちゃんはうまく言葉を選べずにいましたが、その意味ははっきりと私に届きました。
 あの日、公園で交わした言葉が優しい波の音のように耳の奥で響いた気がしました。

憂「私のために……大人になってくれるんだよね」

唯「うん、憂のためだもん……憂も、大人になる前に、ちゃんと大人になるんだよ?」

 お風呂上りのまま髪どめを外したお姉ちゃんが、少し震えた声で私に言いました。
 なんだかお姉ちゃんが私を置いて一歩先に大人になってしまったように見えて――思わず手を伸ばそうとしてしまいます。
 あれ以来、お姉ちゃんに触れることが少し怖くなってしまった私はすぐ手を引っ込めようとしました。

憂「……あ」

唯「えへへ。ぎゅ」

 気づくと私はお姉ちゃんの腕の中で、いつかのように頭をなでられていました。

唯「……よしよし。いいこいいこ」

 お姉ちゃんは私の身体を抱きしめると、私の頭をやさしくなでてくれました。
 髪の毛をなでられていると、心の奥につかえたものが甘いドロップのように溶けていくようで気持ちよかったです。
 三年以上前から、私は自分で作った壁に閉じ込められそうになるたびにお姉ちゃんはいつでも助けに来てくれました。

 でも、そんなお姉ちゃんが……あと数週間もしないうちに、離れて行ってしまう。

憂「――おねえちゃん…やだよぉ、さみしいよおっ…」

 心の壁がお姉ちゃんの体温で溶けるころ、私の涙もあふれ出してしまいました。

唯「うい…だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 するとお姉ちゃんは抱きしめた耳元で、またささやいてくれました。
 だいじょうぶ、だいじょうぶ。ういはいいこ、いいこいいこ。
 そんなささやくリズムに合わせて私の心は温かいもので満たされて、落ち着いていきました。

 飴玉のようにころころと甘く鳴る声は、お姉ちゃんだけが使える魔法です。
 お姉ちゃんの歌声が人の心に届くのは当然なのです。


憂「ねぇ、お姉ちゃん、約束……おぼえてる?」

唯「うん! ……忘れたりなんか、しないよ」

 公園のことを思い出して、ちょっと聞いてみました。
 でもすぐに「約束」という言葉ひとつで伝わったことが、私を心から安心させてくれました。

憂「……がんばってね。がんばる、から」

唯「うん。……ずっと、いっしょだからね」

 この手や身体は離れていても、心は繋がっていられる。
 そんな、なんだか小説に出てきそうな言葉でさえも……お姉ちゃんは信じさせてくれたのです。

憂「――でもね、梓ちゃん」

 二人きりでは広いリビングで、梓ちゃんは私の話をずっと聞いてくれました。
 お昼過ぎにうちに来て、気づけばもう四時を過ぎていました。
 お姉ちゃんとのことをずっと話し込んでしまって、もう四日ぐらい経ってしまったような気もします。

梓「うん」

憂「私、やっぱ……お姉ちゃんいなくなるの、こわい、かも」

梓「それは…しかたないよ」

 お姉ちゃんと一緒にいるときは、上京のことなんて遠い先のように思えていました。
 けれども荷物の整理が始まって、少しずつ家の中からお姉ちゃんのかけらが消えていくにつれて……たまらなくなりました。
 明日が来るのが、怖いんです。
 広すぎるリビングに、ひとり取り残されるのを想像するだけで。

梓「……でもさ。憂は、大丈夫だよ」

憂「そう、かな…?」

梓「てかさ、知ってる? 唯先輩って、一緒に練習してても憂の話ばっかしてるの」

憂「そ、そんなになの?」

梓「平沢姉妹は互いののろけ話しかしてこない、って純もあきれてたよ…」


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最終更新:2010年10月23日 00:47