律「なんだよ薮から棒に」
梓「だから唯先輩に抱きつかれると、なんかムカつくんですよ」
律「せっかく二人で銭湯に来ているというのに、まったく……」
梓「いいじゃないですか。お湯につかってたら、なんだか喋りたくなったんですから」
律「なんで唯に抱きつかれるとムカつくんだよ?」
梓「知りませんよ。だから『なんか』ムカつくって言ったんです」
律「ほほう。つまり梓は自分でも、どうしてムカつくのかわからないわけだな?」
梓「ええ、まあ……そういうことです。律先輩はどうしてわたしがムカつくんだと思いますか?」
律「え……こんなの真剣に考えなきゃダメなの?」
梓「いいじゃないですか。どうせ湯につかっている間はヒマなんですから」
律「……仕方ない。カワイイ後輩のために、特別に考えてやろう」
梓「わーい」
律「ズバリ、 わたしが思いついたのはな。梓は人の視線を気にしているんじゃないか、ってことだ」
梓「どういうことですか?」
律「ほら、唯ってどんな場所でも梓を見かけたら抱きつくだろ?」
梓「たしかに。正直、恥ずかしいからやめてほしいですね、あれ。」
律「そう、それだよ」
梓「なにが『それ』なんですか?」
律「つまり、梓は唯に抱きつかれるとムカつくんじゃなくてだ」
律「抱きつかれたところをほかの人に見られるのがムカつくんじゃない?」
梓「なるほど。一理あるかもしれませんね」
律「だろ? 我ながら素晴らしい着眼点だと思ったんだけど」
梓「でも、よくよく考えると別に私は恥ずかしくないですよね」
律「いつも、唯に抱きつかれると恥ずかしそうに、やめてください、って言うのにか?」
梓「人目が気にならないわけじゃないですけど、この場合、むしろ人の目線を気にしなければいけないのは唯先輩でしょう?」
律「まあ、たしかに唯みたいに、『あ~ずにゃん!』って言いながら抱きつくのは少しなあ……」
梓「ええ、正直イタいですよね」
律「アレ、きっと唯本人は自覚してないんだろうな」
梓「自覚って……。自覚してたら、ただのカワイコぶりっ子じゃないですか」
律「でも、養殖天然の可能性がもしかしたらあるかもしれないぞ」
梓「本人に聞いてみますか?」
律「そんな度胸は私にはない」
梓「意外ですね。律先輩ならそれぐらいのことなら平気で言えると思ったんですが……」ジー
律「……あのさ。いくら裸のつき合いを現在進行形でしているとはいえ
そんな風に胸をジーっと見られるのは、りっちゃん隊員もさすがに恥ずかしいんだけど」
梓「すみません。度胸という言葉についつい反応してしまいました」
律「度胸って言葉で、人の胸見るヤツは梓くらいだと思うぞ」ジー
梓「そういう律先輩こそ、私の胸を凝視するのはやめてください」ジー
律「……なんかさ」ジー
梓「はい」ジー
律「あまりないはずの胸が痛いんだ。この話はお互いに触れないようにしない?」
梓「そうですね。やめましょう。私たち人間にはコンプレックスから逃げる権利がありますもんね」
梓「……はぁ~、それにしてもいい湯ですね」
律「そうだなぁ。やっぱり日本と言ったら銭湯と米だよな?」
梓「はい。心から日本に生まれてよかったと思います」
律「銭湯はスバらしいな。こう、お湯にぬくもってると身体の疲れがとれるっていうか、癒されるっていうか」
梓「肩コリにもいいらしいですよね。まあ、私たちには無縁ですけどね」
律「まだまだ若いからな。あ、でも澪はけっこう頻繁に肩凝るみたいだけどな」
梓「ああ~胸が大きい人は肩コリ、大変らしいですね」
律「ははは、私らには無縁だな!」
梓「そうですね! 肩コリってどんな感じなんでしょうね!あはは!……はぁ~」
律「なんでだろう。受験が終わって不安なことなんてないはずなのに胸が大きくなったみたいに重くなってきたぞ……」
梓「律先輩、安心してください。それは間違いなく錯覚です」
律「梓、どっちが息が持つか勝負しない?」
梓「絶対にやらないほうがいいと思います」
律「なんでだよ?ほとんど人いないし、気にすることなくないか?」
梓「そういうことではなくて。今、お湯の中にもぐったら、沈んだままあがれなさそうなんで」
律「たしかに。気持ちと一緒にどこまでも沈んでいきそうだな」
梓「うっかり間違えて、銭湯で溺死するかもしれません」
律「そうだな。普通に銭湯を楽しもう、普通に……ブクブクブクブク」
梓「そうしましょう。……あっ!」
律「どうした?」
梓「私、わかったかもしれません」
律「なにが?」
梓「唯先輩に抱きつかれると、ムカつく理由が!」
律「!! なんだって……!」
梓「これは推測の域を出ませんが……おそらく正解だと思います」
律「もったいぶらずに早く話せよ」
梓「律先輩は、いつか澪先輩の恥ずかしがりを克服するために、喫茶店でバイトしたことを覚えてますか?」
律「覚えてるけど、それがどうかしたのか?」
梓「思い出してみてください。私たちがあの給仕服を初めて着用した時のことを」
律「……そういうことか。わかったよ。梓が何が言いたいのか」
梓「ええ。我ながらすごく情けない理由ですけどね」
律「給仕服を着た時、ムギが聞いたんだよな。服のサイズはどうだ、って」
梓「ええ、唯先輩はこう言ったんですよね。胸がキツい、と」
律「そして澪は、腹がキツいって言ったんだよな」
梓「澪先輩のことはどうでもいいです」
律「そうだな。澪のことは本当にどうでもいいな」
梓「どうでもいい澪先輩はさておいて、唯先輩の胸の話です」
律「うん、だいたい予想はついているけど、聞いてあげるよん」
梓「ありがとうごさいます」
梓「そう、そもそも私が唯先輩に抱きつかれて、ムカつくようになったのは進級してからです」
梓「唯先輩が抱き着くと、つまり、私と唯先輩の肉体が密着するわけです」
律「とりあえず、肉体って言うのはやめろ」
梓「失礼。それで、唯先輩が抱きついてくると……感じるんですよね」
律「か、感じる?」
梓「はい。それはもう、感じまくるんです。
唯先輩の胸の感触を。
服越しでありながら、たしかな存在感を持って」
律「なるほど。唯の胸が梓に押しつけられるわけだな」
梓「はい、まるで嫌がらせです。唯先輩の胸が大きくなったことを嫌でも実感させられるわけですから」
律「なるほど、たしかにそれはムカつくな」
梓「しかもそれだけではありません」
梓「唯先輩は私に抱きついて、胸を押しつけてくるだけではないんです」
梓「なにかって、神経の集中する背中に、私の胸を押しつけてくる時が一番タチが悪いんです」
梓「唯先輩の柔らかい乳房が私の背中に押しつけられ、さらに、官能を刺激されるわけです」
梓「それで、むくむくと頭をもたげた、未知の欲望が理性を蝕んでいく中、唯先輩は追い撃ちをかけるのです」
梓「甘ったるい愛生ボイスで『あ~ずにゃんっ』と」
梓「唯先輩ボイスと、私のむきだしの耳たぶにかかる生暖かい吐息が、それはもう、限界まで私を苛むわけです」
梓「唯先輩の声と、はく息と、シャンプーの柑橘系の匂い。そしてトドメは……」
梓「首に回された唯先輩の手が、制服越しに私の小さな胸にさりげなく触れる」
梓「そうして、私は暴れ狂った欲望と、必死にそれを押さえ込もうとする理性の中で悶えながら、絶頂をむか……ふ、ふもっ!?」
律「とりあえずこれ以上喋んな」
梓「ふ、ふもふも、ふもももも!ふも、ふもっふ!!」
律「その気持ち悪い語りをやめるか? やめたら口をふさいでる手をはなしてあげる」
梓「ふもっ!ふもるるっ!」コクリ
律「わかったわかった、はい」
梓「ぷはっ! ……律先輩ひどすぎですよ! 危うく銭湯で、溺れたわけでもないのに窒息死するとこでした」
律「ひどいのはお前の語りだ。さすがの私もドン引きだ」
梓「わ、私はただ事実を言っただけじゃないですか」
律「さっきの語り、本当に事実なのかよ」
梓「私は嘘はつきませんから」エッヘン
律「ない胸を張るな。むなしくなるだろうが」
律「ていうかさ。梓の話を聞いてるとムカついているどころか、逆に嬉しそうに聞こえるんだけど」
梓「とんでもありません。唯先輩に抱きつかれるなんてムカつく以外のなにものでもないです」
律「……ホントかよ」
梓「はい。本当ですとも。だからこうして、律先輩に頭を下げて悩みを聞いてもらってるんですよ」
律「嘘つけ。一度も頭なんて下げてないだろうが」
梓「あ、下げてたのは自分の評判でした」
律「なんでもいいから、これ以上私の中の梓のイメージを崩すな」
梓「努力します」
律「だけど、梓のことは梓にしかわからないから、私がアレコレ言ったところでなあ」
梓「私にもムカつく原因がわからないから律先輩に相談したんですけどね」
律「うーん……梓は固く考えすぎなんじゃない?」
梓「なにをですか?」
律「だからさ。梓ってよく唯が抱きつくと、やめてくださいって言うじゃん」
梓「だって、実際にやめてほしいんですもん」
律「どうして?」
梓「人前で、抱きついたりするとかはしたないと思いませんか。生粋の大和撫子である私には恥ずかしすぎます」
律「さっきキモい語りを垂れ流していたくせによく言えるな」
梓「そんなことより。私が固いってどういう意味ですか?」
律「あくまでこれは私個人の意見なんだけど、今や世界は、グローバル化とやらがどんどん進んでるわけだ」
梓「また、えらいスケールがでかくなりましたね」
律「まあ黙って聞いてくれ。アメリカ人とかって平気でハグしたりチューしたりするじゃん?」
梓「私は生まれながらの日本人です」
律「知ってるよ……それでだ。今の世の中で日本人がどうとか言ってるようじゃダメだと思うんだ」
梓「なるほど。ボーダレス化していく世界に合わせて、私もグローバルな思考を持つべきだと言いたいんですね?」
律「うん、そんなようなことが言いたかったんだ」
梓「そして、抱きつくのがダメだとか、そんな日本人的な考えは捨ててしまえと」
律「そういうこと。外人さんみたいに、抱きついたりするのが普通だって思えば唯に抱きつかれたって気にならないだろ?」
梓「……そう来ましたか」
律「なんでそんな難しそうな顔してんだよ。べつに変なこと言ってないじゃん」
梓「ええ、変ではないと思いますが、一方で私は一抹の不安を感じるんです」
律「んん? どういうこと?」
梓「私も世界はどんどん交流していくべきだとは思いますよ」
梓「ですので初等教育に英語を組み入れるのにも賛成です」
律「じゃあいいじゃん。何が不安なんだよ?」
梓「いえ、ただそうやって世界の文化やら何やらを
受け入れているうちに日本人は日本人らしさをどんどん失っていくんではないか、と思って」
律「……なんかディープな話だな」
梓「実際問題、日本の素晴らしい文化が廃れている原因にグローバル化は関係あると思うんです」
律「そうか…………なあ、話が明らかにズレてきてるぞ」
梓「すみません。ですが、もう一つだけ言わせてください。日本の銭湯の文化は素晴らしいと思うんです」
律「……なにが?」
梓「昔は、沢山の人たちが銭湯に行って見知らぬ人と人が、よく会話していたらしいんです」
梓「現代社会ではコミュニケーション能力が不足している人が増えていますよね?」
律「う、うん? まあ、そうなのかな」
梓「昔は銭湯のおかげで、人と人が繋がっていたんです」
梓「新しいものを取り入れるのもいいですけど、やっぱり自分の国の文化は大事にするべきだと思うんです」
律「……そだね」
梓「で、なんの話してたんでしたっけ?」
律「唯に抱きつかれると、どうしてムカつくのか、その理由を探ってたんだろうが」
梓「ああ、そうでしたね。忘れかけてました」
律「覚えてろよ。お前が相談したんだろうが」
梓「失礼しました。しかし、結局、原因はわからないんですよね」
律「唯に当てつけのように、胸を押し当てられるのが、ムカつくという理由にはならないんだな」
梓「近いような気がしないでもないですか……なんかやっぱり違うんですよね」
律「ほかに何か心当たりはないのか?」
梓「そうですね。……たとえばこういうのはどうでしょう?」
梓「正直なことを言うと唯先輩のあの性格は、虚構したものではないかと疑ってるんですよね」
律「つまり、天然ぶってるだけで実際は全然違う性格かもしれないと?」
梓「ええ。あながちありえない話じゃないと思います」
梓「たホームセンターでの奇行といい、マラソン大会を無視して近所のお婆さんのとこに行ったりといい」
梓「素でやってたら引くような行動ばかりしてませんか、唯先輩」
律「ホームセンターでの唯は友達と思いたくなかったな」
梓「ええ。私もあそこで名前を呼ばれた時は恥ずかしさのあまり、死ぬかと思いました」
律「なあ、梓」
梓「なんですか、律先輩?」
律「冷静に考えると、唯が演技している可能性は低いんじゃないか?」
梓「どうしてそう思うんですか?」
最終更新:2010年10月24日 22:20