私のお気に入りの時間。
音楽室まで全力疾走。そして邪魔なカバンをスラムダンク。
「姫にゃん、いらっしゃい!」
歓迎の言葉と共に唯の強烈なハグ。うむ、至福至福。
でも姫にゃんは止めようか。
私は
立花姫子。ソフトボール部だったけど、わけあってここ軽音部に入り浸ってる。
「んー、今日の姫にゃんはキンモクセイの香り~」
この可愛い生き物は
平沢唯。私をオモチャにする困ったちゃん。
「もう、暑苦しいから離れてください!」
この小さな黒猫クンは
中野梓。嫉妬深くていやんなっちゃうよ。
「もう、立花先輩は軽音部じゃないでしょう!」
そうはいうがキミ、紅茶にケーキが六人分あるばかりか、今や私専用のイスまで用意されているのだがね。
わかったかい?ヤキモチ焼きの子猫ちゃん。
「ヤキモチなんか焼いてないです!」
それなら唯からもう少し離れてくれよ。いや離れてください。
「だいたい立花先輩は、受験勉強は大丈夫なんですか?」
ぐさり。
相変わらずストレートに人の悩みを突いてくるね。
進学か就職か。私はいまだに決めていなかった。
進路調査書に、唯に永久就職って書いてたら怒られるかなあ?
そろそろ本気で考えないと。うーむ。
「ひーめーにゃん」
ひゃうっ!?……じゃなくてじゃなくて、なんだね平沢唯クン。
「姫にゃんに悩んだ顔は似合わないよっ!ほら、笑って笑って!」
……でへへ。唯の髪をくんかくんかしていられるなら、将来なんかどうでもいいや。
「お二人さん、いっそ結婚しちゃったらどうだ?」
「な、何を言ってるんですか律先輩!」
そうですよ律先輩。唯がお婿さんで、私がお嫁さん。最高じゃないですか。
「いいじゃんいいじゃん、二人だけのDream Time作っちゃえよ」
さらっと心の傷を抉らないでください。
「でも、姫子が来てくれてよかったよ。唯も真面目に練習するようになったし」
そうでしょう澪さん。さすが私。婿をここまで育て上げるとは。
今の軽音部は、学祭に向けて毎日頑張って練習してます。
ちなみに今やってる曲は、「ごはんはおかず」。唯作詞のラブソングです。
「姫子はおかず」にしてもよかったのにな。
そんなこんなで、私の充実した一日もおしまい。
みんなで帰り支度をします。
「……あのさ、姫にゃん」
なんだい唯、思いつめた顔をして。キミは笑った顔のが可愛いよ。
「あの……明日なんだけど、うちに泊まりに来てくれないかな」
ほえ?
「明日、妹が友達の家に泊まりに行っちゃうんだ。私のうち、両親いないから……」
……ほええええ!?
まさかそんな、いや、そんなバカな!
だって私たち、まだチューもしてないんだよ?お互いの両親にご挨拶もしてないんだよ?
不潔よ唯、不潔よ!見損なった!キミには失望した!
「なんだよ唯ー、私も混ぜろ!」
「ダメー、姫にゃんがいいの!」
その一言に引導を渡される私の理性。
気がついたら私は、未来の婿に熱烈なハグをかましていました。
「うにゅー、やーめーてー」
構わずに全力でほっぺたぷにぷに。。
またヘンな声だして、誘ってるの?
キミはどこまで私を壊す気なの?
急いで帰って支度しないと。ごめん唯、もう限界。これ以上ここにいたら、私……。
「ダメです!」
「あずにゃん?」
「ダメです、立花先輩が泊まるなら私も泊まります!」
おいおい、何を言い出すんだい黒猫クン。大人の世界に首を突っ込むのは止めたまえ。
「この人、唯先輩に何するかわかりません!監視役が必要です!」
まあ、キミの言ってることは正しいよ。二人でナニするか決めてないからね。
どうか私を下品な子って思わないでください。まだ混乱してるんです。
それにしても、そんなに必死になっちゃって。そんなに寝取られるのが嫌なのかい?
「うーん、確かに今の姫子は何をしでかすかわからないな」
え。
「先日の件もあるからなぁ」
ち、ちょっと待った澪さんに部長の人。
私たち夫婦の新婚生活に、猫を飼う予定なんかないよ?
「梓ちゃん、しっかり二人を見守ってね。あと報告書もお願いね」
「はい、任せてください!しっかりと監視しますから!」
ね、猫を殴りたいと思ったのは生まれて初めてだ……。
すっかりテンションが下がってしまいました。
これでは新婚気分も半減です。
黒猫が前を横切ると不幸になるというのは、どうも本当のようです。
「姫にゃーん、元気ないよ?」
……ああでも、やっぱり可愛いなあ。
すがすがしい土曜のお昼すぎ。
準備万端、コンディションはバッチリ。時間も問題なし。
……あ、お土産持ってった方がいいよね。
田舎から送られてきたリンゴを持っていこう。確か来客用のクッキーもあったよね。
お見舞い用のメロンもあったっけ。花瓶のバラも持ってこっと。ちょっとキザっぽく決めてみたいし。それからそれから……。
気がついたら荷物が倍近く増えていました。
肩と両腕にけっこうキます。
だけど私はくじけない。ソフトボール部とコンビニのバイトで鍛えられてるから大丈夫。
ゆーいちゃーんのたーめならえんやこーらー。ふんすっ!
ビリッ。
「あー、姫にゃんおそいよー。どうしたの?」
言えません。
お土産の紙袋が破れたせいで、玄関先にメロンをぶちまけちゃったなんて口が裂けても言えません。
「レディを待たせるなんて、なってませんね立花先輩」
出たな疫病神。
「すごい荷物だけど、どうしたの?」
よくぞ聞いてくれました。
はいこれ、全部キミへのささやかなプレゼントだよ。
「ふあぁああ……。ありがとぉー、姫にゃん!」
言葉も出ないか黒猫クン。これが立花流物量作戦だよ。
無邪気な笑顔を浮かべる唯クン。こんなものでそんなに喜んでくれるとは、キミは欲がないね。
だけど本命はコレだよ。情熱の赤、棘の痛みの歓び。どうぞこのかぐわしき花を……。
ありゃ、散ってる。
「なんでこのメロン、わざわざカットしたんですか?」
追い討ちをかけるな黒猫クン。
「さあ、いらっしゃい。姫にゃんは初めてだよね」
ええ、初めてです。初体け……あれ?黒猫クンも初めてだよね?
「私は何回も来てますよ。それがなにか」
荷物がやたらと重いです。でも私の心はもっと重いです。
先を越されるなんて、悔しい。
「あずにゃんは、憂と同じクラスだからね」
……なんだ、コネですか。七光りですか。それってノーカンだよね。
ところで、憂さんってどんな方?
「憂?家事万能でよくできた妹だよ」
きっと唯みたいに、優しくてあったかい子なんだろうなぁ。暴力とは無縁の、天使みたいな子。
ひとまず平沢家のリビングに集合。
きちんと整理されてて、快適なお部屋です。
床もピカピカ。汚れたルーズソックスで上がるのが申し訳ない気分。
「私、夏はいっつも床の上ゴロゴロしてるんだ~。涼しいんだよ」
三十分ほどゴロゴロしていいですか?
「じゃあ、私のお部屋にご案内~」
ああ、この日を待っていたんです。
唯のお部屋です。桃源郷です。エデンの園です。
「そんなにたいしたことなかったですよ」
なんで入ってるんだ、キミは。この泥棒猫。
「どう……かな」
大丈夫、すっごく綺麗だよ。
「恥ずかしいよぉ……」
閉じちゃダメ。もっとよく見せて。
「入り口で何をしてるんですか」
唯の部屋はきちんと整理されていました。
もっとこう、服や下着が散らばってる光景を期待していたのに。
「憂に整理してもらいましたね。昔はめちゃめちゃだったもん」
なるほど、シーズンオフってわけか。
そして黒猫クン。さっきからうらやましくて死にそうだよ。
実に素敵な午後でした。
ベッドにダイブして枕の香りをかいだり、ぬいぐるみをペロペロしたり。
ゴミ箱の中身のチェックもしました。
本棚に並べられた漫画のページの隙間に挟まった髪の毛をこっそりポケットに入れました。
気がついたら夜になってました。
晩ご飯です。
憂さんのカレーを食べながら、ケータイカメラであちこちパシャパシャ。
「姫にゃん、楽しそう。誘ってよかったよ」
「私が唯先輩についててよかったです」
聖地巡礼、最高……!
「立花先輩、さっきからご飯ばっかり食べてますね」
「姫にゃんいいの?もっとカレーあるよ?」
いえいえ、これでいいんです。
カレーちょっぴり、ライスたっぷり。私はすっかりHTTに毒されてました。
ちなみに私は、福神漬けよりはラッキョウ派です。
最終更新:2010年10月26日 21:12