さわ子「はー疲れたっ! お茶お願い……ってまだ誰も居ないのか」
閑散静寂たる中に微かな音。
さわ子「んー? 誰か居るのかしら」
そろりと奥に歩を進める。
紬「………すー……すー」
さわ子「あら。どうしたのムギちゃん?」
紬「ん……あ、先生。おはようございますー」
さわ子「どうしてこんな隅っこで寝てるのよ」
紬「誰かを驚かそうと思って……あ!」
何かに気付くそぶり。
紬「わぁっ!!」
さわ子「……それはなに?」
紬「びっくりしませんでしたか……」
さわ子「タイミング悪すぎよ」
紬「はい……」
肩を落とす。
さわ子「人を驚かすには大事よ、タイミング」
紬「律ちゃんも、ボケとツッコミはテンポが大事だって」
さわ子「私が教えてあげるわ」
紬「どうすれば―――」
唐突に口づけをする山中さわ子。
さわ子「どう? 驚いたでしょ」
紬「は、はい! 勉強になりました!」
顔を真っ赤にする紬。
紬「でも……」
さわ子「なぁに?」
紬「復習しないと、このタイミングを忘れてしまうかもしれません」
さわ子「!」
ゆっくりと山中さわ子に口づける琴吹紬。
紬「……びっくりしました?」
さわ子「……満点よ」
音楽室のドアの隙間。
二人をじっと見ている
平沢唯。
10分後。
ドアを開けて平沢唯入室。
唯「やっほい」
紬「唯ちゃん。今、唯ちゃんの分もいれるから」
さわ子のカップには既に琴吹紬の紅茶がいれられている。
さわ子「ムギちゃんの紅茶、落ち着くわぁ」
唯「お上品な味だよね」
さわ子「そうそう」
紬「普通にいれてるだけなのにー」
さわ子「そういう些細なところに、育ちってもんが出るわけよ」
紅茶を一啜りする山中さわ子。
唯「さわちゃん、音を立てずに飲むのがマナーだよ」
さわ子「あら、ごめんあそばせ」
二人のやり取りを聞いて微笑みながら、紅茶とケーキの準備を終えた琴吹紬。
紬「さ、どーぞ」
唯「わはーい!」
練習後。
音楽室を後にする五人。
梓「律先輩。今日は全体的に走ってましたよ」
律「いやー悪い悪い。ノってくるとついな」
澪「普段からメトロノーム使って練習してるのか?」
律「……てへっ」
澪「やっぱりな」
唯「ねぇ、ちょっと楽器屋さん寄ってかない? ギターの弦が欲しくて」
律「おう、付き合うぞー」
澪「皆で行くか?」
梓「行きましょう!」
紬「あ、私……ちょっと用事があるの」
残念そうに俯く琴吹紬。
その表情をじっと見つめて、にっこりと笑う平沢唯。
唯「そっかー。さわちゃんに用事だったら仕方ないね」
紬「えっ……」
驚く琴吹紬。
二人のやり取りの意味が分からず、顔を見合わせる三人。
職員室前。
梓「そろそろ行きませんか?」
澪「じゃあな、ムギ」
律「また明日!」
唯「バイバーイ!」
紬「うん。じゃあね、皆」
梓「お疲れ様です」
去っていく四人の後ろ姿のうち、平沢唯を見つめる琴吹紬。
そのこぶしはきつく握られている。
さわ子「あら、練習終わったのね」
不意に後ろから声を掛けられ、驚いて振り向く。
紬「あ、先生……」
さわ子「約束通り、ムギちゃんの絶対知らない、美味しいお店へ連れていってあげるんだから!」
紬「はい、……とっても楽しみです」
どこか上の空である琴吹紬に違和感を覚える山中さわ子。
さわ子「どうかしたの、ムギちゃん?」
紬「い、いえ。なんでもないですよ」
にこりと笑う。
自動車内。
サンバイザー裏の鏡で軽く化粧直しをする山中さわ子。
さわ子「最近はホント、ファンデのノリも悪くなってね。若い頃と比べたら……」
紬「先生のグロス、素敵な色合いですね」
さわ子「分かってくれる? 高かったのよ、これ」
紬「私も同じの、使ってみたいかも……」
さわ子「高校生に化粧なんて、私に言わせりゃ早いわよ。まだすっぴんで勝負できる時期なのに」
会話が少し途切れる。
さわ子「……試してみる? この色」
紬「はい、試したいです」
さわ子「いいわよ。目を閉じて」
紬「はい……?」
目を閉じた琴吹紬へ口づける山中さわ子。
紬「……ぷは」
さわ子「ふふふ」
紬「び、びっくりしました」
さわ子「あんまり色、着いてくれないわね。もう一回」
紬「んー……」
ラーメン屋。
客足は乏しい。
紬「ここですか」
さわ子「そうよ。知る人ぞ知る名店」
紬「わぁ、頑固そうなご主人! ラーメン屋って感じですね!」
さわ子「まぁ、ラーメン屋だけど……」
紬「私、このフカヒレラーメンっていうのにします」
値段千五百円也。
さわ子「……それなら、私は……」
餃子、三百五十円也。
紬「餃子だけでいいんですか?」
さわ子「いいのいいの。奢りだからって、遠慮せずに食べてね」
紬「はい!」
自動車内。
思索に耽る琴吹紬。
さわ子「ラーメン食べたらちょっとは元気になるかもって思ったけど……」
紬「えっ?」
さわ子「どうしたのよ。ずっと何か考え事してるじゃない」
紬「ごめんなさい。せっかく二人で居られる時間なのに」
さわ子「私には話せないこと?」
紬「……迷惑になるかもって」
さわ子「そう。貴方が話したくなったら、話しなさい」
紬「分かりました」
沈黙。
後、琴吹紬が決意を固めたように口火を切る。
紬「あのっ!」
さわ子「なぁに?」
紬「先生は、私のこと……好きですか?」
さわ子「好きよ。愛してる」
紬「どんなことがあっても?」
山中さわ子の左手が、助手席に座る琴吹紬の頭を撫でる。
さわ子「女同士ってことで偏見を持つ輩も居るわ、きっと。
もし貴方とのことがバレて問題になったら、私はレズ女教師なんてレッテルを張られて、
処分次第じゃ仕事も出来なくなる。けどね、絶対に後悔しないわ。貴方が私を好きでいてくれたら」
紬「……うん。私もきっと、ずっと、好きだから……」
少し躊躇ってから、琴吹紬は続ける。
紬「今日、さわ子さんのところに泊めて?」
翌日。
学校中がある噂で持ち切りになっている。
教室に平沢唯が現れる。
唯「おっはよー」
律「おい! 唯のところには、あのメール来たか?」
唯「メール? 何のこと?」
澪「さわ子先生がムギと付き合ってるって告発メールだ。チェンメになって、結構出回ってるらしい」
唯「あはは、なにそれ? 嘘でしょー」
律「嘘に決まってる! けど、真偽によらずこんなメールが出回ったら、さわちゃんがまずいだろ」
澪「確かに。軽音部の顧問でもあるから、問題になったら私たちも……」
唯「このメール、何のために送られたんだろう」
律「やっぱり、さわちゃんの評判を落とすため……とか」
澪「火の無いところに煙は立たない、とも言うし。少し誤解を招くような出来事があったんじゃないか」
律「こりゃームギにも事情を聞いてみる必要があるかもな」
澪「うん……」
二人には分からないくらいに小さく、平沢唯は笑った。
三人の会話の約一時間前。
山中さわ子のマンションの一室。
紬「もう、さわ子さんのせいで!」
さわ子「うふふ、ごめんなさい」
紬「笑い事じゃありません!」
琴吹紬は首筋に着いた山中さわ子のキスマークが消えずに困っていた。
紬「見えちゃったら大変なのに……」
さわ子「髪の毛のお陰で全然見えないわよ」
紬「今日は体育があるから、髪をあげたら……」
さわ子「あー……休みなさい」
紬「ひどいっ」
不機嫌になる琴吹紬。
さわ子「私は、ちょっと嬉しいわ」
紬「そうですか」
さわ子「拗ねないでよ。ムギちゃん、最近とっても素直なんだもの。
やっと私に遠慮なく、怒ってくれるようになったわ」
紬「そういえば、誰かに怒るなんて、私したことなかったです」
さわ子「一歩一歩、距離が縮まってるのね」
心底嬉しそうな山中さわ子に何も言えなくなる琴吹紬。
三十分後、山中さわ子の家を出る。
最終更新:2010年10月26日 22:13