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「和ちゃん、もう終わりそう?

生徒会室の扉を少し開けて、幼馴染が顔を覗かせた。
私は振り返らず、特に大したことは書かれていない、形骸化した書類から目を離さなかった。

「いいえ、もう少し残るわ。金曜日だし、できるだけ仕事を終わらせておきたいから」

幼馴染は、へらっと笑って、能天気な声を出した。

「待ってるよ」

そこで、私はようやく彼女の方を向いて、頬杖をついて言った。

「帰りなさい。軽音部の皆がいるでしょう?」

自分でも驚くほど、おかしな声が出たと思う。
気だるいような、それでいて、イライラしたせっかちな言い方だった。
幼馴染も、一瞬面食らったような顔をしたが、またいつもの笑顔に戻って明るく言った。

「うん……じゃあ、私帰るね。和ちゃんも、気をつけてね……」

急いでパタパタと駆けてゆく。開けっ放しの扉から、よし、帰るかという声が聞こえた。
そう、帰ってしまえば良い。貴方には、他に友達がいるんだから、早く帰ってしまえば良い。
待たれるほうも気を遣うんだから。

「私も、他の誰かと帰るから」

誰もいない生徒会室で、私は呟いた。
他の誰か、なんて言い方に、自分も意識していなかった乙女っぽさを感じて、一人赤くなった。
文字の羅列を眺めるのも飽きたので、鞄の中から本を取り出す。

親愛はどうとか。共同性がどうとか、恋愛は、相手の容貌に対する快だとか。
親愛が成り立つために、共に過ごした時間が必要だとか。

なら、私は彼女に親愛を抱いていないのかもしれない。
どうだろう?よく分からないけど、アリストテレスさんの言うことだ、本当だろう、多分。

「やっほーい、和ちゃん、今日もお疲れね?」

トンと、私の前に茶が出された。
軽音部とは違う、苦い、緑茶。
綺麗な茶色がかった髪が、私の手に触れていた。

「あっ……山中先生」

いつの間にか、日もすっかり暮れていた。
整った顔立ちの、綺麗な女性が、勿体無いことにその頬を膨らませて顔を崩す。

「和ちゃん、さわ子先生って呼んでくれないのね」

「ごめんなさい、や……さわ子先生」

なるべく、自然な笑顔で言ってみる。
先生は、はにかんで人差し指を唇に当てた。
いたずらっぽく笑って、恥ずかしそうに言った。

「自分で言っといてなんだけど、なんだかこそばゆいわ。
 和ちゃんにそう呼ばれることって、あまりないものね」

気を取り直すように、首を横に振って、先生が言った。

「それにしても、今日も随分と遅くまで残ってるのね、どうしてかしら?」

首を傾げてさわ子先生が尋ねた。
私は、その端正な顔を直視しても問題ないように、メガネを外して言った。

「金曜日だから、でしょうか」

ぼやけた視界の中で、先生がにやりと笑ったのが分かった。

「あら、和ちゃんも意外と悪ね……ところで、なんで眼鏡外したの?」

くつくつと笑って、さわ子先生は、私の真似をして眼鏡を外した。
私が言いよどんでいると、さわ子先生は、手を振って言った。

「まあ、いいけどね。和ちゃん、眼鏡外すとイケメンだったから、からかってみただけ。」

続いて、手を引いて、子供っぽく笑った。

「じゃあ、いきましょうか」

先生の車に乗る。
『恋愛成就』と書かれたお守りが、虚しく揺れている。
車に揺られていると、どうにも眠くなるので、私は眠気を振り払おうと、頭を振った。

「あら、寝ててもいいのよ?」

ハンドルを握って前を見たまま、さわ子先生が言う。
私はズレた眼鏡を元に戻して、微笑んで言った。

「いいんです、私が頼んだんですから」

「そうねえ、まさか和ちゃんが、応、なんて言うとは思わなかったわ」

夜の街に出ることは、あまりない。
私は優等生だから、そんなことはしない。
だから……もしかしたら、そうなのかもしれない。
信号が赤に変わり、車が止まった。

「あら……ファックな光景ね」

さわ子先生が低い声で言う。
私は頬杖を突いて、先生の視線の先にある者を見つめた。
腕を組んで歩く男女が一組。

「……先生、言葉遣いが汚いですよ。少なくとも、生徒の前では」

「いいじゃないの。別に、犯してやるって意味で使ってるわけじゃないのよ。
 糞野郎が、殺して眼玉をカラスに啄かせるぞ、ぐらいなもんなのよ」

荒っぽく言い放った先生に、私は思わず苦笑した。

「便利な罵倒ですね」

「そうよ、和ちゃんも覚えておくといいわ」

「ええ、考えておきます」

信号が変わる。車はゆっくりと発進した。
しばらく沈黙が流れ、その間に、賑やかな街は後方へ流れていった。
私は窓の外を眺めたまま、何気ない風に言った。

「ねえ、先生、こう考えたらどうです?」

さわ子先生は、ちらりとこっちを見て、聞いていることを示した。

「肉欲と恋愛は別だ、って。
 恋愛は―――親愛、でもなんでもいいですけど―――
 そういうものは、相手の精神の卓越性に対して抱くべきものだ……どうです?」

「つまり、どういうこと?」

どうやら少し興味を持ってくれたようで、先生が横目に私を見つめる。
私は、また眼鏡を外した。
先生と同じように、横目で彼女を見ながら、少し笑って言った。

「先生は、男日照りかもしれませんが、こと女に関しては大洪水でしょう?」

先生は拗ねたように頬をふくらませた。
低い声で罵声が飛ぶかと思ったが、そんなことは無かった。

「和ちゃんが意地悪するわ……」

そう言ってハンドルにもたれかかった。
その仕草が年不相応で、しかし十分に可愛かったので、私は笑みを零した。

「ふふ、すみません……あ、あの店ですか」

眼鏡をかけ直すと、花火のように広がっていた看板の光が、ちゃんとした文字を形作った。
居酒屋……きつね?へんな名前だ。

狭い駐車場に車を止めて、先生と私は車から降りた。

「そういえば、先生、車で来たらお酒が飲めないと思うんですが」

「大丈夫よ、電車で帰るから。高校生がそんなこと心配するもんじゃないわ」

その居酒屋は、どうもあまり繁盛していないようだった。
あまり広くない店の中に、3、4人客がいるだけで、あとは空席。
いらっしゃい、と、狐というよりは狸のような風貌の、店長の声がした。

「やあ、山中さんかい。そちらのかたは生徒さん?」

人懐っこそうな笑顔を浮かべる店長に促されて、カウンター席に二人して座る。
お酒の匂いが鼻をついた。

「まあね……あ、店長さん、この娘、20歳だから。分かった?」

店長がニヤリと笑って、先生に尋ねた。

「それじゃあ、それは、今流行の"こすぷれ"っちゅうやつかい?」

そうよ、とさわ子先生が陽気な声で答えると、店長は豪快な声で笑った。
私も、つられて微笑がこぼれた。

「ハッハッ、あんた、いい先生持ったなあ」

酒を生徒に飲ませるのがいい先生かは分からない。
多分そうじゃないと思う。
けれど、私は、そうじゃないところで、彼女のことをいい先生だと思っているから、私は大きく頷いた。

「ええ、本当に」

「やめてよ、照れるじゃないの」

嬉しそうに言うさわ子先生の前に、泡だったジョッキが差し出された。
私の前にも一杯。

「そいつはメントスが入った茶だからな。じゃあ、俺は焼き鳥作ってくるよ」

隣を見ると、さわ子先生が一気に口の中に注ぎ込んでいた。
恐る恐る、舌を出して舐めてみた。

「苦い」

そう口に出してはみたものの、多分、私の顔は笑っていただろう。
しばらくそうしていると、突然、肩を抱き寄せられた。
生暖かい吐息が顔に当たる。

「和ちゃん、だめよ、やる気あんの、ねえ、ふざけてるの?」

綺麗な、長い指が私の頬を突付く。
酔って赤くなった顔が、肌の美しさを際立たせていた。

「先生、苦いんですよ」

私がそういうと、さわ子先生は勝ち誇ったように言った。

「フフン、まだ子供なのね。私より百倍しっかりしてるからって、調子に乗っちゃ駄目よ」

悔しいので、口に目一杯ビールを溜め込んだ。
気合を入れて飲み込んで、さわ子先生に顔を向ける。

「どうです?」

直ぐ近くに顔があることに、今になってやっと気がつく。
私が赤面する直前に、さわ子先生は吹き出した。

「和ちゃん……フフッ……今の、すごく可愛かったわよ」

今までとは違った、大人びた視線を向けられたので、私は眼鏡に手をかけた。

「からかわないでください」

眼鏡を外すと、ビールの輪郭が滲む。
実際より少し多く見えて、何だか得をしたような気分になる。


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最終更新:2010年10月26日 23:39