しかし、ただ一人、みんなは気付いていなかったもしれないけれど私は微妙な変化に気付いていた。
彼女だけは放課後ティータイムがバンドとして認められていくたび変わっていった。いや、本来の無理をする彼女の性格が表立ってきたと言うべきなのだろうか。
だが、私がその全てを知ることは最後までなかった。あの時ほどあいつを理解してやれなかった自分が歯がゆく憎かったことはない。それはまるで今の私のような彼女の姿だった。懐かしい記憶は同時に何も出来なかった辛い過去である。
私はその先を思い出すことに恐怖し眠ってしまった。
スタジオ練習を終えた面々は数日後に控えたライブに並々ならぬ思いを込めている。もちろん私もだ。
「ドキドキだよね! レコード会社の人たちがライブを観に来てくれるんだもん!!」
ギターを我が子のように抱きかかえている唯のこの言葉に、
「そうね! 私たちのこと気に入ってくれているようだし、実際の演奏を聴いてもらえれば絶対契約してくれるわ!!」
珍しく息巻くムギが答えた。
私たちに大手レコード会社から連絡が入ったのは少し前だ。大型新人として検討しているらしく、最後の一押しとして私たちの演奏を聴いてみたいそうだ。ついにやってきた最大のチャンスにメンバー全員が息巻いている。
「じゃあ今日は解散だな」
つなげて話の続きはファミレスでしようと私はもちかける。唯、梓、ムギが期待に満ちた笑顔で肯定の相槌を入れてくれたのだが、ただ一人、リーダーだけは首を横に振った。
「悪い! 私このあと用あるから先に抜けるわ!」
「そうなんですか、残念ですぅ」
目の前のマタタビを取りあげられてガッカリした猫のように梓が声をあげた。そんな視線に心の底から申し訳なさそうにした律は、
「ごめん! そんじゃーまたな!!」
私にしかわからないであろう、いつもと違う笑顔でその場から消え去った。
明くる日、大学が休講になった私はなんとなく母校の桜高へ出向いた。たまには母校の軽音部で指導でもしようなどと先輩風を吹かせる気はさらさらないが、ことあるごとにさわ子先生が、
「サミシー! さみしーーのよーー私はーーーー!! 澪ちゃんをおもちゃにしたいのよおおおおお!!!」と絶叫してくるのでたまに顔を出しているのだ。
もっとも在学中のような辱めにあうこともなく、さわ子先生は嬉しそうな顔をして出迎えてくれる。卒業生がくると先生は嬉しい気持ちになるんだろうたぶん。
しかし音楽室の扉を開くとそこにはドラムを叩く一人の姿しかなかった。そしてそのドラムを叩いている人間はここにいるはずのない人間であった。
「澪、あれ……どうして」
彼女はドラムスティックを握り締めたまま硬直している。私も声が出ない。だってそうだろう、ドラムを叩いているのが軽音部の生徒でなければ先生でもない――――幼馴染の
田井中律だったんだから。
「とりあえず、どうして高校にお前がいて軽音部の人間が誰もいないんだよ」
ようやくまともに会話できるようになった私は律に聞きたいことを要約して尋ねる。
「いや……ちょっとさわちゃんに頼んで軽音部の後輩達には教室やら小ホールで練習してもらっているんだ! ははは!!」
律は尋ねられた答えをわかりやすく私に伝える。なるほどね、それはわかったのだが、
「そもそもどうしてお前がここで練習してるんだ? こないだ練習したばかりじゃないか」
毎日練習できれば理想だろうが私たちも忙しい。まともに練習できる日なんて一週間で一日か二日だ。
しかも「練習だりー」とか「ぶっつけでいいじゃーん」とか「もっと楽なドラムソロにー」とか――言い出すとキリがないな――とにかく一番練習嫌いな律がこう練習している姿は新鮮であり私を不安にさせる。そう、
「いやさ、なんか私がバンドの足引っ張ってるから……」
やっぱりそうだ。こないだのいつもと違う笑顔を思い出す。あの笑顔の裏に焦りや不安の色をうかがえたんだ。
「バカ言うなよ。お前のリズムキープやパワーあるドラムがどうして足を引っ張ってるんだよ」
自分のドラムをどう思っているかは知らないが、みんなに不安や不満などは何一つない。
「そうじゃねーよ。その……」
しかし私にとって杞憂だと思えたからこそ、彼女にとっては問題のようである。
「みんなすごい技術があるのに……。なんか私だけ取り残されてさ。みんなが……みんながバンドの中で『唯一』の存在なのに私はそうじゃない。そう思ってさ」
「律……? 何を言ってるんだ、お前がいなきゃバンドも再開できなかったしお前がいたから」
そんな私の言葉をさえぎるように、
「違うんだって。澪たちには必要とされているかもしれないけど、バンド、ファン、会社にとって私は必要とされてないんだ」
律はこう言ったきり俯いてしまった。
律が何を言っているのか理解できない。うちらは五人揃って放課後ティータイムなんだ。それを律はバンドに必要とされてないだの何を言っているんだ。
「なあ律、どうしたんだよいきなり。うちらはみんな同じだろ?」
ただならぬ雰囲気に飲まれ私は不用意に口を開く。
「いきなり……? ずっとだよ。ずっと」
俯いたままだった律は顔を上げ、
「澪やみんなに憧れていたんだよ!!!」
私の不用意さを叱りつけるように張り詰めた思いを爆発させた。
「前に話したこと覚えてるか? みんなそれぞれ楽器が上手で高校のときから恵まれた環境でバンドしてたんだなって。絶対音感があってリズムの取り方が今まで会ったどのギタリストよりも上手い唯が羨ましかった」
いつも唯がいた場所を見つめながら律は話し続ける。
「唯だけじゃない。しなやかで私には思いつけないようなメロディを作り上げるムギが、長年の知識と親の七光りでギターを自分の半身のように扱う梓が、なにより」
律の突然の告白に私は硬直している。そんな私にもっとも重い言葉が降り注ぐ。
「毎日一緒に練習してベースがどんどん上手くなっていく澪が……私は羨ましかったんだよ!!」
叫びの後、静寂。私は律の気持ちを体全体でも受け止めきれずよろめきそうになっている。
かける言葉を探しても見つからない私に何を感じたのか、律は憎き相手を射抜くような視線で睨みつけてきた。
「わからないよな、澪や唯たちには。必死に練習してどんなに頑張っても普通を越えられないんだ。練習したさ、叩かなかった日なんて風邪で寝込んだときぐらいだよ。高校のときから毎日毎日」
「だから! だから律も上手くなったじゃないか!!」
律のかつてない眼力に堪えかねた私も感情をあらわにした。
「ああ上手くはなったよ! リズムだってしっかり取れてるさ!!」
私の声を飲み込むような激情を律はぶつけ続ける。
「だけどそれだけなんだよ! 私はお前達みたいに『唯一』の存在になれないんだ! 私じゃなくてもいいんだよ!!」
そして私を睨みつけ、
「代わりがいくらでも立つんだ!!」
そう自分自身の存在価値を吐き捨てた。
「馬鹿律! お前はお前だろ! 代わりなんかいない!!!」
自分をいらない人間だと決め付けた律が許せなかった私は律にこう言い返していた。しかし、
「だから澪には絶対わからないことなんだよ!!」
律は私には理解できないことだと一点張りだ。それがさらに腹立たしかった。
「決め付けるな!!」
そんな律の言葉に否定語を重ねる。私たちは気付けば舌戦を繰り広げていた。
「澪さ、私も最初は澪と楽器を練習しているとき何も思ってなかったよ。澪のベースが褒められている姿を見て嬉しい気持ちだったさ! あの時は『ああ、澪は特別なんだな』と思うだけだった。だけど高校に入ってそれも変わった……唯に出会ってからな!!」
律は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら思い出の音楽室を見回し独白を続ける。
「初心者なのにぐんぐんギターの技術が上達して……それだけじゃない、唯にはセンスがあった、澪と同じようにさ。ムギにもだ。凄い作曲センスがあいつにはある。おまけに梓も」
私は律の言葉を受け続ける。
「それを目の当たりにしたときさ、『澪だけが特別なんじゃない、私だって練習すれば』と思ったよ。……その結果がこれだよっ! いくら練習しても理想像が霞んでいくばかり。本気になってバンド活動すればと思ってみんなを集めても結果は同じだった!」
まるで私を友の仇とばかりに睨み続ける律に、返す言葉がなくなっていた。
「最初から唯一の存在だった澪にはわからないだろ!! 私はバンドが上にいくたびに焦って、ファンや会社がつくたびに自分の存在価値に怯えていたんだ! 私にしかわからないんだよ! お前にわかってたまるかよ!!!」
ぱんっ――――
乾いた音が室内に反響した。私が律の頬を平手打ちした残響である。これが私の答えだった。そう、わからなかった自分……わかってもらおうとしなかった律に腹が立っていた。それだけだった。
「……澪……?」
律は覇気の消えた死人のような表情を浮かべ、赤く腫れた頬に涙を伝わせた。
「…………る……」
律の小さな口がさらに小さく震え言葉を紡いでいたが私には聞き取れない。
「ごめん」
手をあげたこと、そして自分と律に対して謝罪した。しかし私の言葉は律には届いていない。彼女は口ごもっていた一言に続けてこう話した。
「私脱退する……。もう、バンドやめるよ。これ以上みんなの足は引っ張れないしさ。ごめんな澪、怒鳴り散らしたりして。頑張れよな。お前なら絶対売れると思うからさ。期待、してるから」
そのまま道具も何もかも置きっぱなしにして律は音楽室を飛び出していった。
私は、追いかけることが出来なかった。
追いかけたかった。しかし、追いついた先でなんと彼女に言葉をかけるべきなのだろうか。見つからない、思いつかない。だから追いかけることが出来なかった。
わからない、なぜ律が一人で思いつめていたのか、無理していたのか。何を言うべきなんだ、何を……行うべきなんだ?
カツーン。
置かれていたドラムスティックが何かの拍子に落下した。それは、律が飛び出してから数秒か数十秒の間か、その程度の間であったように思う。けれど、私にとっては永遠に感じられた時間だった。
静寂にまみれた世界に響くただ一つの音、それが残響となり跳ね返り、こだまし続ける。
スティックの落ちた音は、それからずっと私の中に留まっていた。
この日を境に律と私の関係は途切れ、放課後ティータイムも活動休止となった。
それでも私はバンド時代によくしてくれていた会社からソロでやってみないかと声をかけられデビューすることになった。
そして今、ここにいる。さわ子先生やメンバーが私を勇気付けてくれたのはもちろん、律の最後の言葉が頭から離れなかった私は彼女との約束を果たすため単身勝負の世界に踏み込んだのだった。
すっかり目の覚めた私は何をするでもなくぼうっとしていた。久しぶりにお昼の時間に昼食を摂れた私はあの日の出来事を思い出す。そう、あの時に戻りたい、今の私なら、律を追いかけ必ずもう一度一緒にやれる。
あの時の律はまさに今の私と同じ気持ちでずっと過ごしていたんだろう。思えばお互いよく似ていた。だからこそ飲み込んだ想いがたくさんあってそれがあの日に全て吐き出されてしまったのだ。
夢や願いを追い求めるばかりで自分自身に迷う日々。律はそんな毎日をどんな気持ちで過ごしていたのかな。
律――
わかるよ、今の私なら。
律がどれほど辛かったのかが。
どれほど耐えていたのかが。
しかし、それももはや叶わぬ願いになってしまった。いや、それだけではない。私自身が破綻しかけているのだ。そもそも律の、放課後ティータイムのいない音楽を続ける必要があるのか。いや、ないだろう。
私はここまで駆け抜けてきた。必死に、必死にきたから、何も考えなかったからここまではこられた。けれど、もうこれ以上は意味が無いのではなかろうか。このまま、立ち止まってしまいたい。
「もう、終わりにしてもいいよね……」
一人ごちる。言の葉を紙に踊らせながら、あの日を思い返した。
いつの間にか夜になっている。昔に浸っていた私はシンセサイザーを立ち上げ、あいつが好きだと話していたキーボードソロを弾く。綺麗な旋律はいるはずない聴き手を求め部屋中を彷徨い、そして消失した。
「聴こえるかな」
微睡の中、青白く燈る真空管のヒカリを眺めながら永久に辿り着けぬ理想をぼんやりと描く。
結局一人では何も出来なかった。耐えられなかった。消失した旋律と共に私も消え失せてしまいたい。
こんなことを幾日も繰り返している。昔を思い出し全てが壊れたあの日の出来事と自分自身を呪う。
日に日に自分の精神が磨耗していくのを実感していた。やっぱり私一人では何も出来なかった。唯のとぼけた可愛らしい振る舞い、ムギの柔らかい笑顔、梓の元気な姿、先生の微笑み、そして律の存在……。
それがなければ私は私ではない。部室で演奏した『ふわふわ時間』を思い出す。あの日のみんなの笑顔は、もうどこにもない。何もかもが、全て壊れてしまったのだと、一人結論に達した。
終わりにしよう。
私はそう思うようになり、それを遂に実行することにした。
いつものように歌い終わった私に割れんばかりの歓声が突き刺さる。私はこの歓声を全て裏切ることをこれから行う。
けれど罪悪感はまるでない。だってそうだろう。こんなこと、誰より私を信じてくれたあいつに対して私がしたことに比べれば、何も問題ないじゃないか。
ライブのアンコールで再びステージに上がった。今ステージには誰もいない。ギター、ベース、ドラムが担い手を失い鎮座していた。今の自分にピッタリな場面だと思い、ひとり自嘲した私は段取りにない話を始める。
最終更新:2010年11月01日 22:13