生徒会室にいた和は、仕事に集中していて初め、誰か入ってきたことにすら気付かなかった。
淡々と同じ作業を繰り返すことに飽きてきて、ふっと息を吐いて手を止めた途端肩を叩かれ、
流石の和も驚いて小さな悲鳴を上げてしまった。
「へえ、生徒会長でもそんな悲鳴、あげるんだ」
「いちご……っ」
後ろに立っていたのは、和の予想だにしなかった人物で、和はまたしても驚いてしまった。
クラスメイトの
若王子いちご。
いちごとは嫌いあってる仲ではないが、それほど話すわけでもなく、プリントの受け渡しや
その他クラスの事務的な会話しかしたことがない。だから和が驚いてしまうのも仕方が無い。
「それで、生徒会室に何か用?」
和は気を取り直すと、驚いた拍子に飛び上がったときずり落ちてしまったメガネを
戻しながら訊ねた。
いちごは生徒会室を興味深そうに眺めながら、「別に」と答えた。
「そ、そうなの?」
「うん」
「……、あの、それじゃあ出て行って欲しいんだけど。一応ここ、関係者以外立ち入り禁止だし」
「生徒会の関係者は生徒全員、そうじゃなかった?」
「それは、そうだけど……、そういうことじゃなくって」
「それに、生徒会長と仲が良い唯とか軽音部の子は皆普通に出入りしてるじゃん」
和は押し黙るしかなかった。
確かに唯たちを不用意にここに立ち入らせてしまったわね、と心の中で反省する。
今度からはちゃんと用があるときしか入っちゃだめって言わなきゃ。
「生徒会長」
「何?」
「ここ、座っていい?」
突然、いちごは和の座っている場所の丁度前にあたる席を指差して尋ねてきた。
和は「えぇ」と頷く。いちごの手には、どこから取ってきたのかつい先日書き終えたばかりの
去年の生徒会報告冊子が握られていた。
いちごはお姫様然と椅子に座ると、冊子を広げ読み始めた。
もういちいち何か言うことが面倒臭くなって、和は再びさっきしていた作業に
取り掛かる。
暫く無言の時間。ただ、いちごが頁をめくる音と、和が作業をする音しか
聞こえてこない。
教室くらいの大きさの生徒会室には静か過ぎて、和は居た堪れなくなってしまった。
一人でいるのならどんなに静かだって平気だ、けど二人以上いてはこんなに静かだと逆に不安になる。
「ねえ、いちご」
和が何か話題を振ろうとすると、いちごは「なに?」と言って顔を上げた。
その瞳がいやに真剣で、和は「ううん、何も」って言って目を逸らしてしまった。
いちごも何事もなかったように頁をめくり始める。
と、ふいにいちごが口を開いた。
「生徒会長って、字も上手なんだ」
「そうかしら?」
「うん」
「けど、いちごだって綺麗じゃない。……それより」
いちごに普段あまり褒められることの無い自分の字を褒められ些か驚きながらも、
和は会話を続かせようとさっきからずっと気になってたことを口にした。
「なに?」
「私のこと、生徒会長じゃなくて和、って呼んでくれない?」
いちごの大きな目がさらに大きく見開かれた。何でそんなに驚くのだろう、と
和はさらに驚いてしまった。
「いいの?」
「いいのって……、勿論いいわよ?私だっていちごって呼んでるんだし」
いちごの搾り出すような声に、和は大きく頷いた。
生徒会長って呼ばれるほうが変にくすぐったいし嫌だ。
「のどか」
いちごが和の名前を呼んだ。初めて発音する単語みたいに、ゆっくりと、小さな声で。
けど、確かに聞こえるように。
「なに、いちご?」
「和」
いちごはもう一度、今度こそしっかりと和の名前を呼ぶと、恥かしそうに俯いた。
そんないちごの様子を見るのが始めてで、和は意外と可愛いとこもあるんじゃないって
考えてしまった。
「私、ずっと唯たちが羨ましかった」
いちごは言った。和は「どうして?」と訊ねる。
「だって、和と普通に話せるから」
「何言ってるのよ、私たちだって普通に話せる……」
「違う」
いちごは和の言葉をいつもより大きな声で遮った。
「いちご……」
「違う、私は、ずっと、和に憧れてたから。友達としてじゃなくて、一人の女として」
「……え?」
「ずっと、和を意識しちゃって、だから普通に話せなくて……。唯達を見て、私は和の
友達以上にはなれないんだな、って思って……。だから、和の親友として、唯たちが和と
普通に話せてるのを見て、羨ましかった」
淡々と、けどいつものように無表情ではなく、苦しげな表情で話すいちご。
いつもより沢山言葉を並べているせいか、多少途切れ途切れで、でもいちごは一生懸命に
和に自分の思いを伝えようと必死に話している。
そんないちごを見て、和は立ち上がるといちごの傍に行って頭を撫でてやった。
「和、私は……、和の親友以上になりたい」
「……、そう」
和は静かにそれだけ言うと、いちごの手をとって立たせた。
「のどか?」
いちごが不安そうに和を見る。和は「ごめんなさい」と謝るといちごの背中をそっと
押した。いちごの身体がふらふらと生徒会室のドアの前に移動する。
「和……」
「私は今はまだ、いちごのことをよく知らないしわからないわ。だからちゃんと友達に
なることから始めましょう。私と唯達がそうだったみたいに。今は、ごめんなさい」
「……、わかった」
ぱたん、と生徒会室の扉が力なく閉まった。その音を聞いて、突然張り詰めていた糸が
切れたように和はさっきまでいちごが座っていた椅子に座り込んでしまった。
「どうしよう」
和は呟いた。突然の、本当に突然すぎるいちごの告白に和は自分がどうすればいいのか
わからずにただ頭を抱え込んだ。このままじゃいけない。それはわかってる。
さっきのことでいちごを傷付けてしまったんじゃないかって、そう思うと自分の良心がひどく痛む。
けどあのまま受け入れてしまったらきっと、もっといちごを傷付けてしまったかも知れない。
「……、よし」
和は声に出して自分の気持ちを切り替えさせた。このもやもやとした気持ちを
引きずったままじゃ、生徒会の仕事だってちゃんと出来そうに無い。
それならこの気持ちを無くすしかない。その為にはいちごのことを何とかする。
そう、和なりに頭の中で方程式を組み立てて。
とりあえず、いちごともっと親しい“友達”になってみよう。
和はそう決めると、明日どんなふうに話そうかと考えながら残ってしまった仕事を
さっさと終わらせるべく自分の席に戻ると急いで手を動かし始めた。
――――― ――
次の日、唯と一緒に登校すると、和はまず一番にいちごの姿を探した。いつもの朝なら、
一番初めにすることと言えば唯の身嗜みチェックなのに。
まだいちごが来てないことに和は少しほっとしながらも、自分は今までこうやって一緒の
クラスで過ごしていながらもいちごのことを本当に全く、登校時間でさえ知らなかったんだと
いうことに気付いて愕然とした。
「ねえねえ和ちゃん!私の髪、今日寝癖ってない?」
いつもは和にされるがままになっている唯が、和の袖を引っ張って訊ねた。和は「あぁ」と
思い出したように唯を見ると、「ちょっと寝癖ってるわよ」とポケットから櫛を取り出して
唯の髪を梳き始めた。
「あー、姫子ちゃん、いちごちゃん、おはよう!」
唯の言葉に混じった「いちご」という名前に和はびくっと反応した。唯の髪を梳き終わり、
ポケットに櫛を戻した丁度そのときで、和は慌てて唯の視線の先に目線を移した。
確かにそこには姫子の姿ともう一人、待ち望んでいたようであまり来て欲しくなかったような、
微妙な心情になる人物が立っていた。
和はすっと息を吸い込むと、何気ない仕草を装っていちごに近付いた。
そして、いつも皆にするように「おはよう」と声を掛ける。
「……おはよう」
いちごはというと、昨日あったことが嘘のようにいつもと同じくそっけない態度で
そう返すと、さっさと和の横を擦り抜けて自分の席に座ってしまった。
「おっはよーっ」
「律、朝からうるさい!」
和が少しショックを受けて立ち止まっていると、元気のいい声とその声の主を遠慮無しに
殴る音が聞こえた。後ろのドアのほうで、頭を抑えながらもクラスの視線が集まっていることを
気にしているのか「おはよう」ともとれる「痛くないし大丈夫」ともとれるように手を振っている
律と、そしてそんな律を見ながらもう、と怒っている澪の姿があった。
澪は和の姿を見つけると駆け寄ってきて抱きついてきた。
「のどかぁー!」
「ど、どうしたの?澪。おはよう」
「おはよう、和、あのな、今日英語あったって知らなくて教科書持って来てないんだ、
どうしようー!」
「忘れたくらいで大袈裟な……」
「だって、この時期って大切なんだろ!?教科書忘れたらちゃんと授業受けられないし……!」
「っていうか今日、英語なんてあったかしら?」
「……え?」
澪はきょとん、と和と、そして律を見ると見る見るうちに顔を真っ赤にして律の
ほうへ走っていった。
また律が澪の泣きそうな顔を見る為に嘘言ったのね。
やれやれ、と溜息を付いていると、「おはよう」って後ろから声がした。
後ろを見ると、律と澪の様子を見ながらにこにこしているムギがいた。
「おはよう、ムギ」
「うん。ねえ和ちゃん、突然なんだけど、今日の私、どこか違うんだけど、わかるかな?」
「えっと……?」
和が首を傾げると、ここっ!とムギが自分の前髪を指差した。
あぁ、前髪が少し短くなってる。
「切ったんだ」
「うん、そうなの。それでね、ちょっと切りすぎちゃったかなって……」
「そんなことないわよ。大丈夫よ」
和が安心させるように笑ってやると、ムギはほっと息を吐いていつものふんわりとした
笑顔を見せた。そして「ありがとう」って言うと軽い足取りで自分の席へ歩いていった。
これで軽音部の三年生は全員お出ましね。遅刻者は無し。
まるで保護者か何かみたいに考えながら、和は自分の席に戻った。
始業のチャイムが鳴るまでにはまだ時間がある。今のうちにいちごに何か話しておこうか。
そう思いながら斜め前であるいちごの席を見てみると、そこには律の姿があった。
さっきまで澪と話してたはずなのに。そう思いながら澪のほうを見ると、澪とムギが
仲良く談笑していた。
なるほど、と納得して再びいちごの席に目を移す。
いちごは楽しそうではないが、律の言葉にいちいち反応してちゃんと言葉を返してる。
すごい、いちご相手にちゃんと普通の会話が成立してるわ。
もちろん、いちごと話しているとちゃんと会話できないとかそういう意味じゃないんだけど。
和はいちごと律の様子を遠巻きに眺めながら、密かに溜息を付いた。
どうしてか、昨日決めてなくなったはずの胸のもやもやが戻ってきていた。
――――― ――
始業のチャイムが鳴り、先生が入ってきてホームルームが終わり、また授業終了の
チャイムが鳴り……。
チャイムの繰り返しからやっと解放された昼休み、和は軽音部の面々とお弁当を広げながら、
そうだ、と思いついた。
授業中も、いちごにどうやって話しかければいいのかと頭の中で考えていて授業の内容が
全然頭に入ってこなかった和は、後でノートをちゃんと見とかなきゃと思いながら卵焼きを
口に入れているときだった。
「そうだ」を口に出してしまっていたのか、皆が不思議そうに和を見ていた。
「どうしたんだ、和?」
「和ちゃんが独り言なんて珍しい~」
澪と唯が心配そうに言った。和は「何でもないわ」って取り繕うと、箸を置いて
立ち上がった。そして澪を挟んで隣の隣に座っていた律の元へ行くと、「ちょっといいかしら」と
律の服の袖を引っ張った。
.
和と律は、非常階段の踊り場で向き合っていた。ここは秘密の話をするのには最適だと
いつか唯に教えられた和は、あえてここを選んだ。別に隠さなければいけない話題でもない
のだけど、突然「いちごと仲良く話す方法を教えて」なんて言ったら不審に思われるだろうから。
律は和に「ちょっといいかしら」と言われると、すぐに何かあると悟ってくれたらしく、
「ちょっと待って」というと急いでお弁当の残りを掻きこんで一緒にこの場所に来てくれた。
普段の律は元気すぎるくらい元気で、何も考えて無いように見えるけど実際はそんなことはない。
いつでも第一に皆のことを考えていて、自分は目立たず他の子に光を当ててあげようとする子。
和は律のそんなところに、影ながら憧れていた。もちろん、昨日のいちごとは違う意味の「憧れ」だけど。
「で、なに?」
律はよっと階段の手すりに座りながら訊ねてきた。和は「そんなとこ危ないわよ」って
生徒会長の立場上注意しながらも、自分も階段に腰を下ろした。
「それで、なんだけど。律に折り入って相談があるの」
「なんだよ、和がそんなこと言うなんて。まあ、私でよければ乗るくらいなら乗るけど?
てっきり告白かと思っちゃったわん」
律にしてみれば、和が言い難そうにしているのを見て言いやすいようにと思って言ったのだが
和にしてみれば違った。和は「おかしくないと思うの!?」と律に詰め寄った。
「うわ、なに!?つーか近い、近いし危ない!」
「あ、ごめんなさい、つい」
和は慌てて身体をずらした。律は反っていた身体を元に戻すとふう、と溜息。
それから和に「何がおかしくないと思うって?」と訊ねた。
「あぁ……、その、女の子同士が……」
「付き合うこと?」
「え、えぇ」
「私は別にいいと思うけどな」
「そう」
和は律の答えに半ば驚きながらも頷いた。一夜明けて、ちゃんと冷静になってよく
考えてみた和は、「まず友達から」とか何とか言ったものの、それ以上の関係になんて
なれるんだろうか、と不安に思っていたから。
なるほど、律みたいにそういうことに偏見を持たない子もいるんだな、と和は思った。
「それで、なんだけど。律に折り入って相談があるの」
「なんだよ、和がそんなこと言うなんて。まあ、私でよければ乗るくらいなら乗るけど?
てっきり告白かと思っちゃったわん」
律にしてみれば、和が言い難そうにしているのを見て言いやすいようにと思って言ったのだが
和にしてみれば違った。和は「おかしくないと思うの!?」と律に詰め寄った。
「うわ、なに!?つーか近い、近いし危ない!」
「あ、ごめんなさい、つい」
和は慌てて身体をずらした。律は反っていた身体を元に戻すとふう、と溜息。
それから和に「何がおかしくないと思うって?」と訊ねた。
「あぁ……、その、女の子同士が……」
「付き合うこと?」
「え、えぇ」
「私は別にいいと思うけどな」
「そう」
和は律の答えに半ば驚きながらも頷いた。一夜明けて、ちゃんと冷静になってよく
考えてみた和は、「まず友達から」とか何とか言ったものの、それ以上の関係になんて
なれるんだろうか、と不安に思っていたから。
なるほど、律みたいにそういうことに偏見を持たない子もいるんだな、と和は思った。
「え、なに?もしかして和の相談ってそっち系のこと?」
「あ、いや……」
そう、とも言えるし違う、とも言える。微妙なところだ。だから和は返事を曖昧に濁した。
それからこのままずるずると話してたら昼休みが終わってしまう。
和はだから唐突に話を切り替えた。
「律、私、いちごと仲良く話したいんだけど、どう話せばいいかしら」
「は?」
突然の話の変わりように律はついていけないらしく首を傾げると「なに?」と聞き返してきた。
和はだから、と言うともう一度同じ言葉を繰り返す。
「和が?いちごと?」
「えぇ」
「……、なんか意外な名前。っていうか、これとさっきの話題がどう繋がるのか全く
わかんないんだけど」
「でしょうね。言わなきゃだめ?」
「出来れば。そうじゃなきゃアドバイスの仕様もないし」
和は「そうよね」と小さく息を吐くと、昨日あった出来事を話し始めた。
.
話し終えると、律はしばらくきょと、とした顔をしていた。
それからすぐに「へえ」と声を漏らし、「いちごが、和を、ねえ」と呟いた。
「それで、どう思う?」
「まあ和が友達になることから始めよう、って言ったんならそれでいいんじゃない?
和が私に話してるみたいに話せばいいんだろうし」
「そう、なんだけど……」
「それよりもさ、和はどう思うの?」
「え?」
「もし、だけどさ。もしいちごと付き合うこととかになったらどう思う?」
和は暫く考え込むと、わからないわ、って首を振った。そして、「ただ」って続けた。
「ただ?」
「嫌じゃないのは確かね」
「そっか」
律は頷くと、手すりからひょいっと身軽に下りると「それならいいんじゃない?」と
言った。
「どういうこと?」
「……和がもしいちごに友達として接しててもいちごは違うかも知れないだろ?
っていうか実際違うだろうし。それで、無いと思うけどもしもいちごが和に無理矢理
付き合って、なんて言ってきて、和が嫌って拒んじゃったりしたらお互い傷ついちゃうだろ?
それは和の友達としても、いちごの友達としても嫌だし、もし和が同性同士が付き合うのに抵抗があるんなら
友達になるのもやめとけ、って言おうと思ってた」
そんなの、お互い辛いだけだから。
律はそう言い残して「頑張れよ」って和の肩を叩いて教室に戻っていた。
まるで、そんなことを経験したような口振りで、和は暫く、なんだか申し訳なくて
律の顔が見れそうに無いと思った。
最終更新:2010年11月03日 21:12