――――― ――
チャイムが鳴る前には教室を戻らなきゃ、と思って和は律が行った数分後、教室へ
戻った。
私はもっともっと、冷静になって考えるべきなのかも知れない。
和は自分の机に戻ると、珍しく机に突っ伏した。
どうすればいいんだろう。
確かに私は、もしいちごと“友達以上”の関係になったとしても嫌じゃない。
嫌じゃないけど――本当に?
実際体験したわけじゃないんだからそんなことわかるわけない。
これからどうやっていちごと接すればいいのかますますわからなくなって、和は
大きな溜息を吐いた。
「のどかちゃーん」
その時、突然背中に暖かな重みを感じた。唯が和に背中から抱き着いて「やっぱり
和ちゃんに抱きつくの気持ちいいー」と本当に気持ち良さそうに声を出した。
「それはどうも」
「ねえ和ちゃん、さっきりっちゃんと何の話してたのー?」
のろのろと身を起こすと、あまり人の事を詮索しない唯が珍しく、和に尋ねてきた。
和は「どうして?」と訊ねる。
「だって、りっちゃん戻ってきたときあんまり元気なかったんだ。だから何かあったのかなって」
「喧嘩じゃないから安心して」
「そっかあ」
和がそう言うと、唯は本当に安心したように笑った。やっぱり、律にあんなこと話さなかったら
良かった、と今更ながら後悔する。きっと律は昔、私が今経験していることと同じことを経験した。
だからあんなふうに忠告したんだ。和は後で律に謝りに行こうと思いながら唯の頭を撫でてやった。
.
チャイムが鳴り、再び授業が始まる。受験生にとって毎日の授業は大切。
わかってはいるのに、和はどうしても授業に集中できなかった。
結局今日はほとんどいちごと話せてない。
今日何度目かわからない溜息をまた吐いていると、こつん、と背中に何かが当たった。
先生の目を盗んで見てみると、手紙がすぐ近くに落ちていた。
唯が小声で「ごめーん」って謝ってくる。和は「大丈夫」と返すと、手紙を開けてみた。
手紙は律からのものだった。
『とりあえず、いちごに手紙回してみたら?』
律のほうを見ると、見事なウインクを返された。和は「ありがとう」と声に出さずに
言うと、再び前を向いて筆箱からメモを出そうとした。それから今日はメモを持って来ていない
ことに気付いて、仕方がなくノートの切れ端に書くことにする。
なんて書こうかしら。
いざ紙と向き合ってみると、何も文句が浮かばない。
とりあえず……。
『拝啓、若王子さん』
何か変よね。
そう思いながらもとりあえず前の席の人に「お願い」と手紙を渡した。
返ってきた返事は当たり前と言えば当たり前。
『なに』
だった。しかも怒りマークつきの。
和はどうしよう、と迷ってから『手紙を書きたくなっただけ』と書いて送った。
結局、その授業中、その手紙の返事が返ってくることはなかった。
.
教科書を片付けていると、いつのまにか隣にいちごが立っていた。
「あ、いちご……」
「何のつもり」
いちごは言った。手紙を和の机に投げつけるように置く。
「いちご?」
「いいよ別に。そんなに無理して私と友達になってくれなくて。話題が浮かばないくらい
私たちには何の接点もないんだし」
いちごの嫌味の含んだ言葉に、和は何も返せなかった。確かにいちごの言う通り、
話題でさえ満足に考えることが出来ない。そんなの友達といえない。
だけど。
「私はまだいちごのことがわからないから。だからなんて書けばいいかわからなくて。
ふざけているように見えたのならごめんね」
「そんなこと……」
「でもこのままじゃ私たちずっと今のままよ。私は、いちごと友達になりたい」
いちごの表情が微かに揺らいだ。
「だから、ちょっとずつでいいから私にいちごのことを話してくれない?」
いちごは俯くと、小さくこくりと頷いた。
――――― ――
帰り道。
和の隣には唯ではなくいちごの姿があった。二人はポツリポツリと会話を交わした。
「好きなもの」とか「嫌いなもの」とか、まずはそんなこと。
それから学校のことや家族のこと。いちごは全然楽しそうじゃなかったけど、
和は構わずに話した。
「いちごはどこの大学行くの?それとも就職?」
「まだ決めてない」
「何唯や律みたいなこと言ってるのよ、早く決めないと……」
「うそ」
「……、そう、なら良かったわ。それでどこ?」
「F大」
「そっか。いちごの成績なら余裕でいけるわよね」
「まさか」
やがて、和が別方向だから、と立ち止まった。
じゃあね、と手を振って背を向ける和の背中に、いちごが小さく「ありがとう」と呟いた。
.
その日から、和といちごは教室では挨拶する程度だけど一緒に帰る日が増えるようになった。
生徒会の活動で遅くなる和を、いちごが待っていたこともあった。
そんなことをしながら、ゆっくり、けど確かに二人は距離を縮めていった。
.
そんなある日の帰り道。以前よりは沢山話せるようになってきたことと相乗効果で、
和のすぐ傍でいちごが歩いていた。一緒に帰り始めた最初のほうは、二人の間はだいぶ空いていた。
和は心だけでなく、身体の距離も近付いたのかしら、なんて考えていると、ふいに
いちごの右手と、和の左手が触れた。そして、いつのまにかいちごの手がそっと和の
手を握っていた。
突然のことで、和は思わずその手を振り払っていた。
「あ……いちご」
「やっぱり、だめだよね」
いちごは笑った。初めてみたいちごの笑顔は、とても哀しそうだった。
いちごは「じゃ」とその場から動けない和を残して走り去った。
――――― ――
あれ以来、いちごに話しかけようとしても悉く無視された。帰る時、いくら待っても
いちごは現れなかった。
いちごと話せない日が続く。それと同時に和の胸のもやもやも増えていく。
「……、どうすればいいの」
呟いた。答えなんて誰も知っているわけないのだけれど。
いちごと前みたいに話すためには、どうすればいいんだろう。和は考えた。
そして、一つの答えを見つけた。
和は自分に言い聞かせた。
私はいちごが好き。この気持ちはきっと恋。だから――
.
「私たち、付き合わない?」
早朝の静かな生徒会室に、和の静かな声が響く。
来てくれないかもと思っていたいちごは来てくれた。後は自分が言うだけだ。
意を決して和は言った。付き合わないかと。
いちごは暫く、息を呑んで和を見詰めた。それから俯くと、「やだ」と言った。
まさか断られるとは思っていなくて、和は「どうしてっ」と強い口調で訊ねた。
「だって、和は私を好きじゃない。私のこと、好きだって目をしてない。
それなのに付き合うなんて、やだ」
いちごは最後まで静かな口調で言うと、生徒会室を出て行った。
出て行く間際、いちごは「さよなら、生徒会長。ありがとう」と囁くように言った。
和は一人、生徒会室に取り残された。
そして、今になってやっと、自分のもやもやに隠された本当の気持ちに気が付いた。
終わり。
――――― ――
あれから数日が経った。和はこの気持ちはきっと一時的なものだと思い込もうとした。
だけど日が経つにつれて、あのもやもやが増えていったように想いはどんどんと
膨れていった。
.
「和ちゃん、一緒に帰ろう?」
唯がそう言って誘ってくれるけど、和は「ごめんね」と首を振った。
待っていても来ないってわかってるのに、やっぱりいちごの帰りを待ってないと
落ち着かなくて、和は下校時間ぎりぎりまでずっと待ち合わせ場所だった場所に居た。
教室でいちごが帰ったかどうかは確認しなかった。
少しでもいいからここで待っていて、いちごが来てくれるんじゃないかっていう
希望を持っていたかった。
今日もまた、いちごを待っていると、律と澪が和のほうに歩いてきた。
二人は大体事情を唯から聞いているのだろう、「何をしているのか」は聞いてこなかった。
けど、律が「和、一緒に帰ろうぜ」と和に声を掛けてきた。
和が断ろうとすると、澪が和の手を無理矢理引っ張った。
「澪?」
「和、強制だよ」
「え?」
訳がわからずに和は澪に手を引かれ外に連れて行かれる。
外に出てみると、いちごが立っていた。
「いちご……」
「ほら、和」
立ち止まっている和を、律がぽんと背中を押した。
和の身体が前に押し出される。
「ちょっと、律……」
「和、一緒に帰ろう」
「え?」
和は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
そして徐々にそれを理解すると、胸に嬉しさがこみ上げてきて「えぇ」と思い切り頷いた。
.
「ねえ、いちご」
二人で歩き出したのはいいが、何も会話が浮かんでこなかった。
とりあえず和はいちごに呼びかけた。いちごは「なに?」と和を見た。
まるでデジャヴ。
そもそもの始まりの生徒会室の出来事を思い出して和は密かに笑った。
「ううん、何でもない」
「そ」
いちごはそう言うと、突然立ち止まって一歩先に行ってしまった和の服の袖を
掴んだ。
「いちご?」
「和、もう、あそこで待ってなくていいよ。それに前にも言ったでしょ、無理しなくて
いいって」
「……え」
「私ね、律と付き合うことにしたから」
「え、なに?」
和は今聞いたことが信じられなくて、訊ね返した。いちごは和を冷めた目で見詰めると
同じ言葉は繰り返さず、ただ「だからもう私に関わらなくていいよ」と言った。
そんな。
和は呆然と今歩いてきた方向を見た。
律は全部知っていたうえで私を送り出したの?そんなの……。
「律にはまだ言ってない」
私の考えていることがわかったのか、いちごが静かに言った。
「どういうこと」
「私が今さっき勝手に決めたこと。律はきっと私みたいに断らないから。
今日和と一緒に帰ろうと思ったのはずっとあそこで待ってる和を見てられなかったから
だけだし、ついでに言っておこうと思って」
「……そんな」
「勘違いしないでね、同情でもなんでもないよ。全部私が決めたことだし、だから
和はもう私のこと気にしないでくれていい」
いちごはそう言うと、「バイバイ」って手を振った。和は「どうして」って呟いた。
呟いたけど、それはほとんど声にならなかった。いちごは聞こえない振りをして、和に
背を向けた。
段々遠ざかっていく小さな背中を、和は最後まで追いかけることは出来なかった。
――――― ――
「和ちゃん、今日お休み……?」
階下から唯の声が聞こえてきて、和はうとうととした眠りから目覚めた。
唯が迎えに来てくれたらしい。
昨日、あの場所に突っ立っていた和を唯が偶然通りかかり、連れ帰ってくれた。
唯は何があったかは聞かずに、「じゃあまた明日」と言って帰って行った。
そんな唯に和はどれだけ感謝したことか。
「起きなきゃ……」
お母さんには休む、って伝えてあるけど唯には自分からちゃんと説明しなきゃ。
和はだるい身体を起こすと、ベッドから抜け出した。手近にあったカーディガンを
引っ掛けて、パジャマのまま階下に下りる。階段の下りる音が聞こえたのか、
唯が玄関から階段を覗いて「あ、和ちゃん!」と嬉しそうに手を振った。
「和ちゃん、起きてきて大丈夫なの?」
「えぇ、まあ。唯、あの……」
「和ちゃん、帰り、また寄っていい?時間もないし」
和が昨日のお礼と、そしてもう一つ、いちごとのことを話そうとしたとき、唯が
何か察したのかそう言って和の言葉を遮った。
母親の前だということを忘れていた和は、それでそのことを思い出してまた唯に借りが
出来ちゃったと苦笑した。唯とは借りがどうとかそんな関係じゃないのだけど。
「そうね、遅刻しちゃうわ」
「それじゃ和ちゃん、お大事に。おばさん、行ってきまーす」
「行ってらっしゃい、唯ちゃん。来てくれてありがとう」
唯が和と和の母親に手を振り走って出て行った。開け放った玄関の扉から、転びそうに
なった、いつものどんくさいけど愛すべき唯の姿が見えて、和の心は少しだけ軽くなった。
最終更新:2010年11月03日 21:15