梓「おはよー、憂」
憂「おはよう、梓ちゃん」
梓「どう? 少しは元気でた?」
憂「え? 何が?」
梓「……まぁ、忘れてるくらいなら大丈夫か」
梓ちゃんが何のことを言っているのかは分からなかった。
というか、今の私はそれどころではないのだ。
学校では大人しくしてて、と言い聞かせてはいたものの、
やっぱりゆいには通じていなかった。
それは現在進行形で、カバンの中でごそごそと、
その存在をこれ見よがしにアピールしてしまっている。
梓ちゃんや純ちゃんにバレる程度なら構わないけれど、
クラス全体に見付かって大騒ぎになることは避けたい。
こんな私でも、一応クラス内での体面は気にしているし、
なにより、騒ぎにしてしまっては紬さんに申し訳がない。
だから、ファスナー開けてひょっこり顔を出すのはやめて。
目を輝かせてキョロキョロしないで。
あ、ファスナー閉めるんだ。そうそう、そこで大人しくしててね、良い子だから。
開けるなよ。なんでさっき閉めたんだよ。そしたらいっそ開けとけよ。
ちがう、そうじゃなくて。いや、出てこないでお願いだから。
わー、こらこら、梓ちゃんのスカート引っ張っちゃ……いや、良いな、もっとやれ。
そうだ。よし、いいぞ、カモン、ストロベリーキャンディ!
そのまま摺り下ろして純白のデルタ地帯を白日の下に! 私の未来に一筋の曙光を!!
梓「な、なに?」
ゆいと梓ちゃんの目が合った。
梓「え!? この人形って昨日の……」
『……』
梓「ってなんで動いてるの!?」
私はとりあえず、
ゆいと梓ちゃんの首根っこを鷲掴みにして人目のつかない廊下へと連れ出した。
憂「――というわけで、動いてました」
梓「……」
梓ちゃんがこめかみを押さえながら項垂れた。
梓「えーっと、このことを唯先輩は……」
憂「勿論知ってるよ? 『ゆい』って名付けたのもお姉ちゃんだし」
梓「そっか。まぁ、平然と自分の名前付けるあたり唯先輩らしいけど」
梓ちゃんの口元が僅かに綻ぶ。分かりやすい子だ。
憂「とにかく、あんまり騒ぎにはしたくないから、協力して欲しいんだけど」
梓「良いよ。出来る限りフォローするね」
憂「ありがとう、梓ちゃん!」
言いつつ、抱きつく。
梓「いえいえ、どういたしまし――にゃっ!? 自然に胸を触るなーっ!!」
怒られた。
梓ちゃんのジト目が私の胸に突き刺さる。
違うの梓ちゃん。別にわざとやった訳じゃないの。
気がついたら手が勝手に動いていただけなのよ。
だからお願いその目を止めて。
止めてくれないと私は貴女に対して必要以上の性的興奮を覚えてしまう。
梓「まったく……」
うんざりした顔で一つ溜息をついてから、梓ちゃんはゆいに手を伸ばした。
おいで、と優しく声をかけて、ゆいを左手に乗せる。
そして、今度は右手で優しくほっぺたに触れた。
ゆいは嫌がっているのか嬉しがっているのか良く分からないリアクションで
梓ちゃんの指と戯れていた。
梓「本当、可愛いねこの子」
憂「そりゃ、お姉ちゃんがモデルだもん」
梓「……」
憂「なんで照れるの?」
梓「な、なんでもない」
ニヤニヤが止まらない。
憂「そろそろ授業始まるし、戻ろっか」
梓「うん」
憂「ゆい、お願いだから授業中は大人しくしててね」
『?』
私の言葉は、それでも通じていないようだった。
――きゃーーー! かわいーーー!!
――ちょっと、次私に触らせてよ!
――何言ってるの、私の方が先に並んでたんだから!
――これって平沢さんのお姉さんの人形でしょー?
――見てみて、笑ったよー、ちょー可愛いんだけど!
――ねえねえ、写メ撮っていい?
――いい?って聞きながらもう撮ってるじゃん。ちょーうける。
――え、あんたって平沢先輩のこと好きなの? 学際のときから? うそ、マジで?
――私は断然澪先輩派かなー。
――ああ、分かる分かる、秋山先輩美人だもんねー。
――報われない恋って素敵ね。燃えるわー。
憂「……」
梓「……」
これだから女子高ってやつは。
あと、今お姉ちゃんのこと好きって言った奴死ね。
教壇に左足ぶつけて死ね。
お前には髪の毛一本くれてやらん。
憂「最悪だ……」
梓「仕方ないよ、人形があれだけ自然に動いたら誰でも驚くもん」
そう。悪いのはゆいだ。
あれほど授業中は大人しくしててって言いきかせていたのに。
ゆいは気がつけばカバンから抜け出し、教室内を我が物顔で闊歩していた。
梓ちゃんが必死に誤魔化そうとしてくれたけど、どう考えても手遅れだった。
私に至っては、お姉ちゃんの入浴を克明に妄想していて、全くゆいに気が付かないという体たらく。
唯一の救いは、教師に気付かれなかったことだが……。
しかし、ゆいの存在は周りに完全にバレて、休み時間になった途端にこの惨状、というわけである。
純「大変そうだね、憂」
憂「純ちゃん……もう、帰りたいよー」
純「おー、よしよし」
机に突っ伏す私をなでなでしてくれる純ちゃん。
梓「まぁ、次の授業終われば放課後だし、チャイム鳴ってすぐ逃げれば――」
梓ちゃんとの会話に割り込んで、クラスメイトが私の視界を塞ぐ。
生徒A「ねえ平沢さん。次の授業終わったらまたこの人形触らせてね!」
憂「あ、ええと……」
生徒B「あんたはまたそうやって抜け駆けする! 順番からしたら次はあたしでしょ?」
梓ちゃんが見えないからどっか行け。
とは思っても口には出さない。出したら色々終わるから。
生徒同士の醜い争いを呆れ顔で眺めていると、
ガラガラッ、と音を立てて教室の扉が開かれた。
教師「よーし、授業始めるぞー」
その瞬間、襤褸雑巾のようにもみくちゃにされたゆいが、私の机の上に乱雑に放られた。
『……』
憂「全く……、だから大人しくしててっていったのに」
『……』
心なしか、ゆいの瞳は反省の色を浮かべているようにも見えた。
6時間目は英語。
一応得意科目ではあるのだけど、どうしても勉強に身が入らなかった。
私の席は窓際だから、入り口からは最も遠い。
終業のチャイムと同時に逃げ出したとしても、
ドアにたどり着く前に捕まるのは目に見えている。
早めに抜け出して紬さんと話をしたいところなのだけど……。
シャーペンをくるくる回しながら外を眺めていると、机の上に紙切れが飛んできた。
私はきょろきょろと周囲を見渡して、手紙の主を探す。
目が合った。
うん、わかっていたよ。いとしの梓ちゃん。
『チャイムが鳴ったら、みんな憂のところに集まるだろうから、
その隙に私はゆいを連れて音楽室へ行くね。ゆいが居ないって分かれば
憂もすぐに解放されるだろうから、そしたら音楽室で合流しよう』
なるほど、妙案だ。
梓ちゃんの席は私の斜め前。
決して遠くは無い位置だが、問題はどうやって梓ちゃんにゆいを預かってもらうか、だ。
その過程を他の人に見られてしまっては元も子も無い。
とにかく、手紙を返さねば。
私は、一字一句丁寧に文字を躍らせて、梓ちゃんに紙切れを投げ返した。
梓「……」
『 愛 し て る 』
粉々に破かれた。
授業の終了を告げるチャイムが鳴り響く。
作戦通り、梓ちゃんはゆいをスクールバッグに忍ばせてそそくさと教室を抜け出した。
そして、私の席にはクラスメイト達が群がる。
生徒C「憂ちゃーん、さっきの人形はー?」
憂「実は、その……。持ってないんだ」
私は両手を挙げて降参のポーズを取りながら、短く舌を出した。
生徒C「嘘! そんなはず……」
生徒B「なに? どうしたの?」
生徒A「平沢さん、あの人形持ってないみたいなの」
生徒B「なにぃ!?」
生徒D「あ、私見たよ。さっきの授業中梓ちゃんが消しゴム落として、その時憂ちゃん、あの
人形を梓ちゃんに渡してた」
「「「くっ、やられた!」」」
純「はいはい、そういうことだから、皆散った散った」
純ちゃんの一言で、クラスメイト達はぶつぶつ言いながらも離れていく。
憂「ありがとね、純ちゃん」
純「どういたしまして。さーて、私も部活に行かないとなー」
憂「純ちゃん」
純「なに?」
憂「軽音部」
純「……なにがよ?」
憂「入ればよかったのに」
純「あー、はいはい、後悔してますよ、梓が羨ましいですよー。だって過ぎちゃったことは仕
方ないじゃん!」
良い子だなぁ。
憂「ふふふ、遊びに来ても良いんだよ?」
純「余計に悲しくなるからやめとく」
憂「そっか、それじゃ私も行くね。バイバイ」
純「うん、またね」
純ちゃんと別れて、私は音楽室へと向かった。
コンコン。
静かにノックして、私は音楽室の扉を開いた。
憂「こんにちは」
唯「あ、うい~!」
紬「こんにちは、憂ちゃん」
梓「どう? 大丈夫だった?」
憂「うん、おかげさまで」
とことこと、嬉しそうに駆け寄って来るゆいを拾い上げて肩に乗せた。
律「しっかし驚いたよな~、人形が勝手に動き出すなんてさ。ある意味
ホラーだぜ?」
澪「……」
律「いつもみたいにビビらないの?」
澪「だって、この子は可愛いし。全然ホラーっぽくないからな」
わざとらしく舌打ちする律さんの頭部にチョップが炸裂した。
ん?
なんだろう、音楽室のいつもの光景に違和感があるような気がする。
周囲を、そして皆さんを順に見つめてみる。
お姉ちゃん……、……律さん、……澪さん、お姉ちゃん……、
……紬さん、……梓ちゃん、それからお姉ちゃん……。お姉ちゃん……。
憂「……」
お姉ちゃんを凝視する時間がやたらと長いのは愛故だが、理由はそれだけではなかった。
憂「なんでお姉ちゃんだけジャージなの?」
唯「さっき体育だったんだよー」
憂「え、でも律さん達は着替えてるのに」
律「唯はギリギリまで和達と話してたからな。HR遅れるぞってあれほど言ったのに」
唯「あはは、めんごめんご」
律「なんかその謝り方ムカつくな。そういう奴には……こうだっ!」
唯「ほわぁあああっ!? りっちゃん手冷たっ!?」
冷えた両手をお姉ちゃんの頬にぴたん、とくっつける律さん。
おかえしだー! と叫びながら律さんの顔に手を当てるお姉ちゃん。
今度は律さんの悲鳴が木霊する。
それを見たゆいが、私の肩から飛び降りて、お姉ちゃんの足元へと駆け寄る。
唯「? どうしたの、ゆい」
お姉ちゃんがゆいを抱き上げて、机の上へと乗せると、両手を広げて律さんの前に立ち塞
がった。 ……どうやら、お姉ちゃんをいじめるな、ってことらしい。
顔を見合わせる二人。
律「ふふふ、身を呈して唯を庇うか! ならば貴様から葬ってくれるわーー!」
嫌に感情の篭った台詞を吐きながら、律さんは物凄いロースピードのパンチを放つ。
ゆいは、それをじっと見て避けると、
そのまま加速して律さんにボディアタックを仕掛けた。
律「なにぃ!? ぐわっ、やられたー!」
唯「り、りっちゃーーーーんっ!!」
律「く、ぐはっ。す、すまなかったな、唯。こうするしか、なかったんだ。大魔王梓からお前
達を守るためには……」
なにやら三流の寸劇が始まったが、そんなことにも一生懸命のお姉ちゃんが可愛い。
故に私にはそれを最後まで見届ける義務がある。
唯「そんな、りっちゃん……っ!! おのれ、大魔王あずにゃんにゃん……!」
悲しそうな(演技の)お姉ちゃんの元に走り寄って、
ゆいは泣きそうな表情で何度も頭を下げた。
その様子を見兼ねてか、律さんががばっと起き上がる。
律「と見せかけて復活ーーーっ!」
唯「りっちゃん! 生きていたんだね、りっちゃんっ!!」
ひしっ、と抱き合う二人。
それを見て、ゆいも両手を挙げて喜んでいた。
大団円である。
澪「……」
紬「……」
梓「……」
憂「……」
ぱち、ぱち、と疎らな拍手が鳴り響く。
見れば、手を叩いているのは私と紬さんだけだった。
唯「というわけで、りっちゃんは悪い人じゃなんだよ、ゆい?」
その言葉に、こくこく、と何度も頷くゆい。
そこへ、梓ちゃんがおずおずと右手を挙げる。
唯「どうしたの、あずにゃん?」
梓「いや、あの、ラスボスが私みたいな展開なんですけど、もしや次から参加しろってことで
すか?」
唯・律「うん」
梓「ハモんないでもらえますかね」
律「なんだ梓、妬いてんのか?」
梓「っ! そんなことある訳ないでしょう!?」
律「ちっちゃくて可愛いなー」
投げっぱなしですかよ!? という梓ちゃんのツッコミをスルーして、『ほれほれ』、と言
いながら指先でゆいを突っつく律さん。
ゆいは抵抗を見せながらも、まんざらでもない笑顔でその指先と戦っていた。
律「唯もこれくらいちっちゃくて素直なら可愛いのになー」
唯「あー、りっちゃん、それだと私が可愛くないみたいじゃん!」
律「お前、自分で可愛いって主張するつもりかよ」
唯「悪いですか!?」
律「いや、悪かないけど」
唯「かわいくないですか!?」
律「いや、可愛いけど」
唯「りっちゃん愛してるっ!」
律「やめろこらーーーー!!」
ぽかん、とするゆいを尻目に、じゃれあう二人。
律さんと話してる時のお姉ちゃんは生き生きしていて、
傍目から見ても仲の良さが伝わってくる。
そしてなにより、二人を見てワナワナしている梓ちゃんが可愛い。
え、私?
私は(恋愛感情的な意味で)お姉ちゃんが誰を好きであっても構わない。
私はただ、お姉ちゃんを愛していられればそれで良い。
その辺が、私と梓ちゃんの決定的な違いでもある。
紬「りっちゃんはあれよ、唯ちゃんも可愛いけど、澪ちゃんの方が可愛いって言いたいのよ
ね?」
紬さんの突然の発言に、隣で優雅に紅茶を啜っていた澪先輩が盛大に吹いた。
唯「そっかぁ、澪ちゃんなら仕方ないなー」
澪「ちょ、ちょっと待て。私は律とは別になんでもないからな。大体どうして話がそんな方向
に……」
紬「あら、誰も澪ちゃんとりっちゃんの関係を言ったつもりはないのだけど」
澪「い、いや、だからそれは……」
頬を紅潮させててんぱる澪さんと、対照的に水を得た魚のように嬉々として語る紬さん。
律「ちょっとは落ち着け」
澪「いたっ!? な、何するんだよ律!」
律「何って、ここらで止めておかないと、私の方が恥ずかしい」
澪「うっ……」
紬さんは二人の様子を見て、うんうん、と頷くと、今度は梓ちゃんの方へと振り返る。
……策士め。
紬「それから、梓ちゃんにとっては、唯ちゃんが一番可愛いのよね?」
梓「は、はい!?」
唯「そうなの、あずにゃん?」
梓「ええ、まぁ、ってちがーーーー……、いや、違わないけど、ああ、違いますってば!」
唯「うわーい!」
梓「わーーー、唯先輩、ダメです、抱きつかないでくださいよー!」
その様子を終始見守ると、紬さんは朗らかな笑みで私に振り返り、グッ、と親指を立てた。
『さすがのお手並みです、紬さん』
『ふふ、間違いなくこの部は楽園へと向かっているわね』
『そりゃ紬さんにとっては楽園でしょうけど』
『何? 憂ちゃんもしかして、梓ちゃんに妬いてるの?』
『いえ、別に。私は二人とも愛してますから』
『たくましいわね』
『あんたに言われたくねえ』
という会話があったかどうかはさておき。
やはり抜け出すならこのタイミングしかないだろう。
最終更新:2010年01月07日 20:44