紬「ごめんなさい、私ちょっと憂ちゃんと大事なお話があるから」
律「なんだ? 逢引――いでっ!?」
澪「そういう発想しかできないのかお前は」
律「冗談だってばさ。今日はちゃんと練習やるから、早めに戻れよ、ムギ」
紬「ええ」
憂「……お姉ちゃん、ゆいのことお願い」
唯「ほーい、任せといて」
置いてかないで! と駄々をこねるゆいを、
必死になだめるお姉ちゃんに心の中で謝りながら、私は音楽室を後にした。
冬の日照時間は短い。
校舎を黄昏色へと塗り替えたその日差しは、私の眼前にも平等に降り注いでいた。
この夕空もやがて暗闇と混じり合い、そして夜に侵食されていくのだろう。
紬「そう、突然動き出した理由は、憂ちゃんにも分からないのね……」
憂「約束は果たしましたし、あの子はこのままうちに置いてもいいんですよね?」
紬「ええ、それは問題ないわ。……だけど、人形が意思を持つなんて、
そんなことがありえるのかしら」
紬さんはそう呟くと私に背を向けた。
ふわりと、柔らかな髪が風に靡く。
とろけるようなクリーム色は夕日に染まって赤く見えた。
憂「傀儡の時点で大分現実離れしてるとは思いますけど」
紬「憂ちゃんは最初に傀儡って訊いて、どんなものを想像した?」
憂「うーん……、操り人形だとか、呪いの藁人形、ですかね」
紬「『くぐつ』という漢字は、本来『かいらい』と読むのだけど」
憂「知ってます。傀儡政権とか言いますよね」
紬「ええ。人を意のままに操る、という意味合いを持つ訳だから、
良いイメージは浮かばないかもしれないわね」
憂「……まぁ、そうですね」
紬「傀儡はマリオネットやパペットの別称。元々は糸や指で人形を操って、劇を作ったり、子
供達を楽しませる為の人形。だから、決して悪いものではないのよ」
それは、そんなことはあの子を見ていれば、十分理解できる。
ゆいは操り人形の『傀儡』として作られた存在だけど、呪いだとか悪いイメージだとか、
そんなのとは一切無縁だ。
あの子はお姉ちゃんに似て、純粋で優しい子なのだから。
憂「……」
紬「傀儡が日本で呪詛的な意味合いを持つのは、それが人形であるから。古来から人形は、人
間の穢れや悪意を引き受ける役割を担っていたの」
憂「? えっと……」
この人は、何を言おうとしているんだ?
紬「今は何も問題ないかもしれないけれど、憂ちゃん。もしかしたら貴女の溢れんばかりの劣
情は、あの人形になんらかの影響を与えてしまうかもしれないわ」
憂「……いや、あの、私の何処に劣情が?」
私の問いに、紬さんは物憂げに溜息をついた。
紬「……さぁ、どこかしら?」
憂「……」
紬「……意思を持ったことについては、私の方でその原因を調べさせてみる」
憂「お願い、します」
紬「憂ちゃん」
憂「なんでしょう?」
紬「……」
紬さんは何かを言いかけて、口をつぐんだ。
紬「……いいえ、なんでもないわ」
そう答えてから、いつもの優しい笑顔で振り返った。
紬「そろそろ戻らないとね。りっちゃんに怒られちゃうわ」
音楽室に戻ると、お姉ちゃん達は既に演奏の舞台を調えていた。
どういう経緯でこうなったのかは分からないが、演奏というのもを知らない小さな観客の為
に、一曲披露してくれるということらしい。
これから何が始まるの? と言わんばかりに興味津々のゆいを横目に、私も澪さんの用意し
てくれた椅子に腰掛ける。
紬さんが遅れて準備を終えると、律さんがスティックで合図を執った。
――。
決してうまい訳じゃないけれど、ぴったりと息の合った演奏だった。
ちょっと走り気味の律さんのドラムに、
慌てることもなくぴったりと合わせてビートを刻む澪さん。
阿吽の呼吸で二人が演奏の基盤を作り、サイドギターの梓ちゃんが抜群の安定感でリズム隊
にその音色を乗せる。
ドラムに合わせたカッティングも、ベースに合わせたコードチェンジのタイミングも、
寸分の狂いもない。
アンサンブルに音の厚みを作り、他のメンバーの音域を助けつつ、
決して邪魔にはならないバランスでメロディを奏でる紬さんと、
曲の核となる主旋律を弾きながら、自らボーカルを務め上げるお姉ちゃん。
目を輝かせながら、身体全体でリズムを取るゆい。
私もゆいと同じ気持ちで、終始聞き惚れていた。
……演奏している時のお姉ちゃんは、どうしてこうも格好良く映るのだろう?
私が椅子から立つのとほぼ同時に、ゆいが走ってお姉ちゃんのところへ駆け寄り、
お姉ちゃんがそれを拾い上げる。
ゆいは嬉しそうにお姉ちゃんのジャージを掴んで頬擦りを……って、
私よりお姉ちゃんに懐いてないかこの子?
憂「すごく良かったです。お姉ちゃんも素敵だったよ」
唯「えへへ。ありがとー」
律「ぶっつけでやったにしては、良い感じだったな」
澪「そうだな。ただ、ちょっと走りすぎだったけど」
律「あれくらいの方が疾走感がでて良いんだよ」
澪「それに合わせるみんなのことも考えてくれ」
紬「まぁまぁ、憂ちゃんも良かったって言ってくれたことだし……」
澪「……ムギがそういうなら」
律「え、なんか私の時と態度違わない?」
梓「唯先輩、ソロ完璧でしたね。難しいのに」
唯「ふふふ、練習したもん!」
梓「でも簡単なところで二回間違えましたよね。初っ端のリフと、サビの手前」
唯「うええっ!? うまく誤魔化せたと思ったのに」
梓「なんで誤魔化すことに力入れてるんですか、後で特訓しますからね」
唯「え~~」
梓「え~~、じゃない」
唯「にゃーん!」
梓「にゃあ!」
梓「……何言わせるんですか」
唯「ふふふ」
なんなんだ。なんでいちいちそんなに可愛いんだ、お姉ちゃんも梓ちゃんも。
二人共もはやペロペロでは済まさんから覚えておくといい。
悶えていると、いつの間にか肩によじ登ってきたゆいに、頬をぷにぷにされた。
生意気だぞこのやろう、と、反対の手で捕まえて思いっきり頬擦りしてやると、
ゆいはぐったりしてしまった。
ふふ、可愛いやつめ。
律「ところで、唯」
唯「なあに?」
律「いつまでジャージでいるつもりだ?」
唯「あ、そっか。忘れてた」
そう言って、お姉ちゃんはおもむろにジャージを脱ぎ始めた。
光の速さで梓ちゃんが止めに入るが、そんなことは意に介さない。
唯「なんであずにゃんが照れるの?」
梓「い、いや……。だから、唯先輩はもう少し恥じらいというものをですね……」
私はお姉ちゃんの生着替えを目と脳裏に焼付けんが如く凝視した。
律さんだか澪さんだかから受けた「憂ちゃん、見すぎだ」という突っ込みは飄々と受け流
す。うむ、眼福眼福。
音楽室で会話に華を咲かせていると、あっという間に下校時刻になっていた。
夕飯の支度が遅くなってしまうことを懸念したが、お姉ちゃんは「遅くても大丈夫だよ」と
言ってくれたので、「私も愛してる」、と答えておいた。
たまにはこんな日があっても良いだろう。
ゆいも楽しそうにしていたし、なにより生着替えが見れた。それだけで十二分に価値のある
時間を過ごせたと言っても過言ではない。
憂「……?」
一瞬だけ、酷く胸が軋んだような感覚に陥った。……理由は、分からない。
何故だろうか。今私は凄く幸せなはずなのに、心の中で何かが引っかかってる。
――憂ちゃん。もしかしたら貴女の溢れんばかりの劣情は、
あの人形になんらかの影響を与えてしまうかもしれないわ。
あの言葉か? ……いや、私らしくもない。
こういう時はお姉ちゃんを抱きしめつつ、
その胸に顔を埋めて悦楽に浸ると◎って今朝の星占いで言ってた。
気が付くと、隣を歩くのがお姉ちゃんだけになっていた。
考え事に集中しすぎたあまり、
律さんや梓ちゃん達と別れたことにも気付かなかったらしい。
ふと、ゆいに視線を落とす。
疲れたのだろう、お姉ちゃんの手袋の上ですぅすぅと寝息を立てていた。
唯「寝ちゃったね」
憂「そうだね。今日は色々あったし、疲れたんだと思うよ」
唯「憂」
憂「うん?」
唯「何かあった?」
憂「え?」
唯「ムギちゃんと二人きりで話した後から、ちょっと元気ない気がするよ」
憂「……」
唯「あ、何も無いんだったら気にしないでね。私の杞憂ならそれでいいんだし」
憂「大丈夫、なんでもないよ」
唯「……そっか」
程なくして、我が家に到着する。
私は足を止めて空を仰いだ。
西の空に輝いていた夕日は地平線に溶けて、夜の帳が下りている。
唯「どうしたの、憂?」
憂「ううん、日が落ちるの早くなったなーって思って」
唯「冬場はお日様が恋しくなるね~」
憂「そうだね……。うぅ、寒っ」
不意に吹き付けた風に、ぶるっと身を震わせる。こういうときは炬燵で(と)お姉ちゃんと(で)ぬくぬくするに限る。
玄関の前で私を待つお姉ちゃんに駆け寄って、二人一緒に扉を開けた。
唯・憂「ただいまー」
憂「と言っても、誰もいないんだけど」
唯「お父さん達、帰ってくるの来週だっけ?」
憂「うん、水曜日だったかな」
唯「そっか、じゃあそれまでは二人きりだね」
憂「!」
よもやお姉ちゃんの口からそんな言葉が飛び出そうとは。
これは、そう。きっとフラグ。
『二人きりだね……二人きりだね……』
脳内で何度もリフレインさせる。
『二人きりだね……二人きりだから、憂。私の全てを見て欲しいの……』
ハラショー! ヤー リュブリュー チビャー!!
唯「ゆいの面倒もしっかり見なくちゃ――って、わぁ!?」
憂「私も! 私も愛してるよ、お姉ちゃん!!」
唯「話が噛みあってないよ!?」
力の限りお姉ちゃんの胸に飛び込んで、そのまま押し倒す。
そのまま胸に顔を埋めて、スリスリする。これで今日は幸せになれるはずだ。
いや、既に幸せだ! すげえ! 星占いすげえ!
そこまで考えたところで、今朝の星占いは見逃していたことを思い出した。
唯「くっ、くすぐったいよ憂っ。どうしたの突然!?」
憂「はあぁぁぁん! お姉ちゃん可愛いよお姉ちゃん!!」
唯「う、憂、ゆいが……!」
憂「!」
お姉ちゃんは仰向けの体勢のまま、ゆいが強い衝撃を受けないように必死に庇っていた。
幸い、起きてはいないようだけど、少々興奮しすぎてしまったようだ。
断腸の思いでお姉ちゃんから離れる。
己の愚行を反省するが、しかし後悔は微塵も無かった。
憂「ごめん、お姉ちゃん」
唯「だ、大丈夫だよ、ほら、起きてないし」
憂「……私、ゆいをベッドに寝かしつけてくるね」
唯「うん、私もギー太とカバン置いて着替えてこようっと」
……着替え……だと?
憂「カバンとギターをお持ちします」
唯「え? なんで?」
憂「なんでも」
唯「う、うん。ありがと、憂……」
私は懲りもせずに、己の欲望に従った。
リビングで炬燵に潜りながらお姉ちゃんが寛ぐ。
私はキッチンで夕食の支度。ゆいは私の部屋で寝ているが、あの子夕飯どうするんだろう?
朝は玉子焼き食べてたけど、お昼は何も食べていなかった。
人形ってお腹空いたりするんだろうか?
いや、それ以前に疲れたら寝るとか、ご飯食べたりとかって、まるで人間じゃないか。
うーむ、考えれば考えるほど不思議な存在だ。
憂「ねえ、お姉ちゃん」
唯「んー?」
憂「ゆいって夕飯食べるのかな?」
唯「食べるんじゃないかなー」
憂「でもあの子人形だよ?」
唯「今朝食べてたもん」
いや、うん。
お姉ちゃんならそう言うと思ったけど。
一応、ゆい用に小さく切った物を準備しておくか。
憂「よし、っと」
後はお皿に盛り付けて完成だ。
憂「お姉ちゃん、そろそろ――」
ガシャーーーン!!
憂・唯「!?」
唯「い、今の音……」
憂「上からだよね」
唯「うん……、もしかしてゆいが――わっ!? 待ってよ、ういー!」
私はエプロンでそそくさと手を拭いて、駆けつけて来たお姉ちゃんの手を掴んで走る。
リビング脇の階段を上って三階へ。廊下を通って、私の部屋……の扉が開いてる!?
憂「ゆい!」
唯「ここには、居ないみたいだね」
となると、お姉ちゃんの部屋、か?
憂「ゆいー!?」
お姉ちゃんの部屋の扉も、やはり開いていた。
となれば、ゆいはきっとこの部屋に――。
唯「あ、ギー太……」
憂「ゆ……ぐはぁ!?」
く、抜かった……。私にとってこの部屋の空気は、猫で言うマタタビのようなもの。
増して隣にお姉ちゃんが居て、かつその手を握っているとなれば、私の情欲も鰻登りだ。
お、落ち着け私。こんなタイミングで愛に耽溺している場合じゃないぞ!
はぁはぁ言いながら、理性を振り絞ってゆいの姿を探す。
お姉ちゃんは既に私の手を離し、ギターの元へと駆け寄って――
――いた。
スタンドから離れてうつ伏せに横たわるギターの横で、ゆいは蹲っていた。
唯「ゆい、大丈夫?」
お姉ちゃんが優しく声をかけると、ゆいはゆっくりと顔を上げる。
スタンドに固定されていたギターが倒れているということは、なんらかの力が加わったって
ことだけど……。
寝ていたはずのゆいが、私の部屋、そしてお姉ちゃんの部屋の扉を開けて、更にはスタンド
によじ登ってギターを倒した……ということか。
憂「ゆい、どうしてこんなことしたの?」
言葉を発することができないゆいは、ボディジェスチャーで必死にアピールする。
ギターを指差して、次にお姉ちゃんを見て、エアギターをするかのような仕草。
更には両手を挙げて、自ら床に倒れこむ。ばたん!
……可愛い。
唯「……ゆいもギー太弾きたかったんだね。それで、私の部屋に来てギー太を手に取ろうとし
て、そのまま倒しちゃった……」
っていうことでいいのかな? とお姉ちゃんが問うと、
ゆいは、うんうん、と何度も頷いた。
しかしその様子は、必死に言い訳して罪を逃れようとしている行動のようにも映る。
お姉ちゃんはどこまでも優しいから、きっと笑って許してしまうことだろう。
憂「ゆい。言い訳よりも、まずはごめんなさいでしょ?」
だから私は、しっかりとした口調で言い聞かせる。
唯「大丈夫だよー、ういー。ギー太も傷付いてないみたいだし」
憂「お姉ちゃんはちょっと黙ってて!」
唯「は、はい……」
萎縮するお姉ちゃん。しまった、語気を強めすぎたか。
後で謝りながらぎゅっと抱きしめるとしよう。
最終更新:2010年01月07日 21:01