規律は守るためにある。
人間は思いの外弱い。
視線は気にするためにある。
人間は思いの外恥じらう生き物だ。
これが私の人間観で、私は自分の人間観に沿って、どこまでも人間らしく生きていた。

「律、また講堂の使用許可申請提出されてないんだけど」

放課後の音楽室で、腕を組んで、私は事務的に言った。
生徒会長も板についてきたと思う。
悪びれる様子もなく、紅茶を飲みながら、軽音楽部の部長が言った。

「あれ……ごっめん和、出し忘れちゃった」

わざとらしく舌を出す律を見て、私は目を閉じた。
生徒会長は激昂しない、感情を爆発させない……自分で決めたルールを頭の中で繰り返して、再び目を開けた。
放課後ティータイム、だのなんだのと言って、相変わらず軽音楽部はお茶会を続けていた。

「そうなんだ、じゃあ今度の新勧ライブは中止ね」

私が言うと、軽音楽部の部員たちは、何が意外なのか、大きく目を見張った。
さっきまで偉そうに部長に説教を垂れていた黒髪のベースは、遠慮がちに口を開いた。

「の、和……出し遅れただけで、流石にそんな……」

私が横目に睨むと、彼女は口を閉じた。
すると、呑気な声で、私の幼馴染が言った。彼女のパートはリードギター。

「和ちゃん!ここは私の顔に免じてどうかっ!」

両手を合わせて、大袈裟に頭を下げてきた。
その仕草に、私は頬を緩めかけたが、直ぐに規律が私を窘めた。
幼馴染の私を見るのはこの娘だけで、生徒会長の私を見るのは全校生徒だから、どちらが重いかは一目瞭然だ。

「あなたの顔も何も無いわ。貴方が何を言ったって、時間は巻き戻らないんだから」

幼馴染と入れ替わりに、さっきまで唖然として黙っていたツインテールの下級生が、高い声を上げた。
彼女のパートはサイドギター。

「でも、今までは和さんがなんとかしてくれてたじゃないですか」

「これからの話をしてるの、梓ちゃん」

気づくと、私は腕を組んだまま、人差し指でとんとん、とリズムを取っていた。
どうやら、私はかなり苛立っているらしい。

「はっきり言わせてもらうけど、今までだって何とかなってたわけじゃないわ。
 単純に、律の代わりに私とさわ子先生が頭を下げて、私たちが怒られていただけ」

小さく、すみませんと声がした気がしたが、私は続けた。

「別に真鍋和はそれでもいいけど、生徒会長はそうじゃないの。
 生徒会長が規律を乱すわけにはいかない、融通をきかせるわけにもいかない。
 あなたたちを特別扱いするわけにもいかなくなったのよ」

一息に言い終わると、私の指は止まっていた。
沈黙が纏わり付く中、音楽室を出ていこうとする私に、ブロンドの娘が声をかけた。

「ケーキ……食べる?」

とん、と人差し指が跳ねた。

「いらないわ」

そう言って、私は音楽室を後にした。

規律は守るためにある。
視線は気にするためにある。
それが人間というものだ。
そんな人間観に沿って、私はいつのまにか人間らしくなってしまっていた。

「つまんないわね」

私は呟いて、生徒会室の扉を開けた。
茶色がかった短髪の女の子が、背に夕陽を受けて本とにらめっこしていた。
茶色がかった長髪の私は、電灯を背に受けて、彼女とにらめっこをしたがっていた。

「やっほー和ちゃん」

私が声をかけると、気だるそうにその娘は顔を上げた。
ずれた眼鏡をかけなおして、私に言った。

「どうしたんですか、山中先生」

しばらく、しじまが流れて、私たちは見つめ合った。
そのまま私は和ちゃんの隣に座り、ため息をついて、私は言った。

「生徒会長に話があるわけじゃないんだけど」

それを聞くと、優等生のその娘は、眉を下げて笑った。
眼鏡を外して、本を閉じて言った。

「生徒会室でそんなことを言われても困ります、さわ子先生」


彼女が生徒会長としてあるために必要な諸々の物を取っ払うと、そこには短髪の女の子しか残らなかった。
頬杖を突いて、指でとんとんとリズムを取るような、そんな女の子。
無造作に垂れた前髪の中から、上目遣いで疲れたように見つめてくる、そんな女の子。
私は不要な考えを振り払うために、頭を振って、それから言った。

「今日はまた、随分と疲れてるように見えるけど」

「そうですか」

トントンと、音が聞こえる。和ちゃんが指で机を叩く音。
どうやら自分では気づいていないらしい。規則正しく、ゆっくりとしたテンポでたたき続けていた。

「そういえばさ、りっちゃんに泣きつかれちゃったわ」

一瞬指が止まる。続いて、さっきより少し速いスピードで再開する。

「受ける必要はありませんよ」

「なにが?」

私がとぼけると、和ちゃんの指は一層速さを増した。

「律の頼みをです。彼女の不注意のために、わざわざあなたが頭を下げる必要なんて無いでしょう」

「あら、今までは和ちゃんだって一緒に下げてたじゃない」

「私はいくらでも頭を下げますよ。だけど、生徒会長はそれじゃ駄目なんです」

またしばらく、静寂。
私たちは目を逸らすこと無く見つめ合っていた。

「なんでそんなに自分を縛ってるの?」

突然、指の動きが止まった。
じっと私を見つめて、和ちゃんは消えそうな声で言った。

「なんでだと思います?」

「さあ、私は超能力者じゃないもの、分からないわ」

和ちゃんが深く息を吸い込んだ。
綺麗な澄んだ声で、真っ直ぐに私を見つめて言った。

「大人になりたいんです」

なんだかよくわからない答えに、私は言葉を失った。
そして、和ちゃんの続けた言葉が、私から思考を完全に奪った。

「あなたが、私よりずっと大人だから」

「あっ……そっか……」

私は和ちゃんを見つめ続けることも出来ず、目を逸らすことも出来ずに、やっとのこと目を伏せた。
謝ろうと思った。それが良いことか悪いことかは抜きにして、ただ謝ろうと思った。
けれど、私の口は塞がれた。

「好きなんです、さわ子先生。規律で自分を縛り付けても苦にならないくらいに。
 自分の拠り所としていた規律を台無しにするのも、怖くないくらいに」

そう言って、彼女は私の頬に手を当てた。
それでも私はまだ、謝ろうと思っていた。
けれど、彼女の瞳に溜まっていた涙を見て、私は……私は何を考えたのだろう。
何を考えたら良かったのだろう。

つまらないなと思った。
規律を守って、視線を気にするのをつまらないと思ってしまった。
一歩踏み越えてしまった。

「先生、私は……」

何かを言おうとする彼女の口を、塞いだ。
彼女の目は大きく見開かれて、そして、細められた。

私は戻りたいと思った。
視線を気にせず、規律を破って、根拠のない自信と、あるかも分からない未来に胸を膨らませた頃に。
彼女は足を踏み入れたいと思った。
視線に射ぬかれ、規律に砕かれ、拠り所を失った心と、きっと叶わないだろう夢の残骸に縋りつく墓場に。

ただの交換条件。
分かってるはずなのに、胸が張り裂けそうだった。

「ごめんね」

私はそう呟いて、何度も、何度も、和ちゃんの口を塞いだ。





和「はい以上です」

唯「そうなんだ、じゃあ私音楽室に音楽室行くね」

和「質問がある人は挙手するように。唯は座るように」

唯「帰りたいんだけど」

紬「はいっ!」

和「はいムギ」

紬「二人はこの後どこまで行きましたか!」

和「あなたの思うところまで行ったわ。答えはあなたの心のなかにあるの」

紬「まあ!和ちゃんったらいけないひとッ!」

唯「さすがムギちゃん。私たちにできない事を平然とやってのけるッ そこにドン引きだよ」

さわ子「はいっ!」

和「はい先生」

さわ子「本人のいないところでやってください」

和「やだもう……先生ったら」

さわ子「なんで照れてんのこの娘」

姫子「はいっ!」

和「はい立花さん」

姫子「私も聞いてていいですか」

和「当和さわは誰でもウェルカム」

姫子「やった!」

唯「え、なに、みんな聞いてく感じなの。私音楽室行きたいよ」

紬「唯ちゃん諦めて。みんな教師と生徒の禁断の恋を堪能したいの」

さわ子「してない。恋してない」

和「もう……先生ったら」

さわ子「だからなんで照れてんの」

唯「ねえ姫子ちゃん部活行かないの?」

姫子「背徳感がたまらないからもう少し聞いていくね」

唯「ド畜生」

和「諦めなさい。では次の和さわです」

紬「ひぃやっふぅ!"さわ子『もう少し真面目に』"ね!」


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最終更新:2010年11月04日 00:00