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優しいところが好きですとか、君の眼が好きだとか。
そんなことを恥ずかしげもなく世間の方々は口にするが、まったく、笑止千万である。
「唯はそういうのに興味なさそうだよねえ」
髪を茶色に染めた貴方。
貴方は素敵な方だと思うけれども、そうやって私のことを子供扱いするたびに、私は吹き出しそうになる。
「姫子ちゃんと違って子供だから」
私がそう言ったときに見せる、母親のような笑顔が私は好きだけれども、貴方の思想はいただけない。
その後も、実のない会話が続いた。
私、
平沢唯は、世間に馬鹿だと思われている。
しかし、自分ではそうでもないのではないかと思う。
何故って、私は性欲に駆られて行動するようなことはない。
なんだかんだ御託を並べても、相手が異性である以上、そこには生物的な本能が含まれているわけで、
私はどうにもそれが好きになれない。
「あ、ほら唯、お母さんが来ましたよ」
長い茶髪の姫子ちゃんが、くつくつと笑って教室の扉を指差す。
眼鏡をかけた、短髪の、凛々しい顔をした、私の幼馴染が居た。
「私、和ちゃんの子供じゃないよ」
むきになって私がそう答えると、姫子ちゃんは楽しそうに笑った。
和ちゃんを手招きして、明るい声で言った。
「真鍋さん、唯のこと宥めてよ」
それからすぐに、慣れた感覚が頭を覆った。
和ちゃんの、手。
「はいはい。唯も、あまり立花さんを困らせないのよ?」
「和ちゃんまで私のこと子供扱いして」
私がぼやくと、和ちゃんは笑った。
姫子ちゃんとは違う、落ち着いた笑い方。
「そんなことないわ」
なんとなく、そうかな、と思わせるような声だった。
どうにも気恥ずかしくなって、私は和ちゃんの頭を撫で返した。
「このこの、和ちゃんの癖に!」
「え、ちょっと、何よ」
朝から騒々しい私たちを見て、姫子ちゃんは大きな声を上げて笑った。
「では、何故Kは自殺したのでしょうか」
現代文の授業は嫌いだ。
特に、今読んでいる"こころ"、これはあまり好きじゃない。
なんだって、対して同じ時間を共有したわけでもない人達の間で起きたことを、こんな仰々しく書き立てているのか。
そんなわけで、私は授業中はもっぱら外の真っ青な空を眺めているわけだが、姫子ちゃんは案外真面目である。
今日も授業が終わった後に説教を食らった。
「あのね、唯、もう夏でしょう。もう少し授業を真面目に受けたほうがいいと思う」
外見とは裏腹に真面目な姫子ちゃん。
真面目な人は個人的に好意が持てる。
だから、彼女の意見は尊重したいが、授業がつまらないのだから仕方がない。
「いやあ、授業が始まると、そらも飛べるはずって気持ちになりまして」
そんなとぼけたことを言うと、毎度、姫子ちゃんは笑い、和ちゃんは眉をひそめる。
「ねえ、唯、もう少し真剣になりなさいな。私や憂だって、いつまでも唯の世話をしてはいられないのよ」
いつになく真剣な和ちゃんの言葉に、一瞬空気が変わったが、姫子ちゃんがあっけらかんとした声で言った。
「真鍋さん、私、私も入れてよ。私も今年一年しか唯の世話出来ないよ」
「ねえ、和ちゃん、一緒に帰らない?」
つまらない授業が終わって、私は和ちゃんに言った。
幼馴染からのお誘いを無下にしたりはしないよね。
そう思っていた。
「なに言ってるのよ、あなたは部活があるでしょうが」
適当なことを言ってサボろうと思ったが、間が悪いことに我らが軽音楽部の部長が会話に加わった。
「そうだぞ唯。梓もそろそろ寂しがってる時期だからな」
可愛い後輩の名を出されては私も折れざるを得ない。
それでも私は最後の悪あがきをした。
「でもでも、じゃあ、部活が終わってから一緒に帰ろ」
「ごめんなさい、今日は私生徒会無いのよ」
思わず肩を落とした。
本来なら、よかったねと言うべきだろうが。
「へえ、いつも忙しそうにしてるのに、珍しいね。良かったね」
姫子ちゃんが言った。
悔しいことに、こういうとき姫子ちゃんは素直だ。
「ええ、ありがとう。それじゃあ、お先に失礼するわね」
「ばいば~い」
姫子ちゃんが気だるそうにひらひらと手を振った、
姫子ちゃんに手を振り返して、和ちゃんは教室から出て行った。
「私も帰るね。それじゃあ」
余談だが、姫子ちゃんの所属するソフトボール部はもう公式戦が終わり、三年生は引退しているらしい。
私は観念して音楽室へと向かった。
私は別に部活が嫌いなわけではない。むしろ好きだ。
しかし、私が和ちゃんと過ごした十年近い歳月は、それだけで全てを凌駕する力を私の中で確立している。
結局、部活の仲間も、クラスメイトも、"今のところ"いい人そうな人、なのだ。
十年経ってもいい人のままである和ちゃんとは比べようもない。
「先輩達は文化祭まで部活をなさるんですか」
軽音楽部全員で帰宅していると、たった一人の後輩が遠慮がちに聞いてきた。きっと寂しいのだろう。
みんなも同じことを感じたようで、部長が笑って言った。
「大丈夫だって、流石に今回ぐらい、さわちゃんも真面目にやるよ。私たちだって真面目にやってんだろ?」
後輩は、微妙な表情をして、くすりと笑った。
「あんまり上手くないですけどね」
そういえば、最近顧問のさわ子先生が音楽室に来ていない。
三年生の担任ともなると、流石に大変なのだろうか。
「あっ、あれ、和じゃないか」
黒髪のベースが声を上げた。
私は素早く彼女が指差すほうを向いた。
和ちゃんだった。色気のない短髪と、飾り気の無い服装は、遠くからでもそれと分かる。
「ん、じゃあな、唯」
部長が言った。
「お前、和と帰りたがってただろ。いいよ、いっておいで」
なんともいい奴だ。
今度アイスクリームでも奢る、と言って、手を振って私はみんなと別れた。
「和ちゃん、一緒に帰ろ!」
和ちゃんは、彼女には似合わない楽器店の前にいた。
手には薄いビニル袋がぶら下がっている。
「あら、唯、奇遇ね」
私は大きく頷いて、彼女が持つビニル袋に目をやった。
「CDでも買ったの?」
私が訊くと、彼女はこくりと頷いた。
「勉強の息抜きにね」
「何聞くの、和ちゃんのことだから、クラシックとか?」
和ちゃんが溜息をつく。
「どんなイメージ持ってんのよ。ほら、これよ」
和ちゃんがビニル袋から出してみせたのは、真っ赤なジャケットとピンクのジャケットの、よく分からないCDだった。
「なにこれ知らない」
「軽音楽部なのに?」
「軽音楽部なのに」
私がオウム返しをすると、前と後ろから同時にため息が聞こえた。
「赤いのはsonic youthで、ピンクのはmy bloody valentineですよね、和先輩」
ツインテールの後輩だった。
背中に小さなギターを背負って、店の前で立ち止まる。
「流石に軽音楽部ね。メジャーなバンドは大体わかるのかしら」
「ええ、シューゲイザー、オルタナティブなら、JMCとか、Dinosaur Jrとかも有名ですよね」
なんだか話が盛り上がりそうだが、私は入っていけない。
私の非難がましい視線に気づいたのか、後輩は、
「あっ、私は替え弦を買いに来ただけですので。あしからず」
と言って、店内に駆けていった。
「あら、残念ね。それじゃあ、唯、帰りましょうか」
そう言って、和ちゃんは歩き出した。私がそれに続く。
しばらく沈黙が続くが、それが苦にならないのは、ひとえに私たちが共有してきた年月のお陰だ。
「ねえ、私って子どもっぽいと思う?」
私がおもむろに話を切りだすと、和ちゃんは特に気にする様子もなく、
「どうしてそんなことを訊くのかしら」
と答えた。
「なんか姫子ちゃんが恋愛がどうのって朝、話してたんだけど、よく分かんなくてさ。私、興味もないし。
それに、恋愛ってなんだろうね。出会って数ヶ月の人を好きだのなんだの、すごく馬鹿らしく思えるよ」
私が空を見上げながらそう言うと、和ちゃんは立ち止まった。
いつになく真剣な表情で私の顔を見つめながら言った。
「全然子供っぽくないわ。そうやって、自分なりの考えを持って、それに沿って物事を見るって言うのはね、唯。
全然子どもっぽいことなんかじゃないわよ。大人になったのね、唯。」
そして、優しく微笑んだ。
テストでいい点を取るだとか、ライブが上手く行くだとか、そんなことよりも、和ちゃんに誉められることの方が、ずっと。
ずっと私を喜ばせた。
「そうだよ、アダルト唯ちゃんなのです!」
私が手でVサインを作って和ちゃんに掲げると、和ちゃんは一層優しい笑顔を見せた。
嬉しくなって、もう片方の手で同じことをしようとした。
その時、和ちゃんが急に真面目な顔になって言った。
「でもね、唯、独善的にならないように気をつけて」
それから和ちゃんは、人差し指で私の額を弾いた。
「行きましょ、唯。アイス奢ってあげるわ」
また優しい笑顔。
和ちゃんは前を向き直し、またずんずんと歩いていった。
甘えたい時には甘えさせてくれる。
私が頑張ったときには、認めてくれる。
ただそれだけのことを、十年間の歳月が私たちの間に生み出した、非言語的な領域の中で、和ちゃんはしてくれる。
頭を撫でてくれるだとか、微笑んでくれるだとか。
子供扱いもしないし、必要以上に大人として扱いもしない。
ただの、平沢唯として扱ってくれる。
そういうところが好きで、私は和ちゃんが好きだ。
やっと自分の気持に気づいて、私は顔を赤らめた。
気付かれないように、和ちゃんの後ろから抱きつく。
「こら、外でなにしてるの」
「ふふ、いいじゃん」
和ちゃんの髪の毛から、首筋から、なんとも言えない良い匂いが。
多分、恋だとか、青春だとか、そういうものの匂いがした。
「私、さわ子先生のことが好き」
最終更新:2010年11月04日 00:04