――――― ――

「受かった!」

律は私に会うなりそう言うと、嬉しさのあまりか抱き着いてきた。
私も「おめでとう!」と律の背中に手を回して言った。

「……これでお互い、無事笑って卒業出来るな」
「そうだな」

それはまだ少し肌寒い日のこと。
律が言って、私が頷いて。
私たち二人、笑顔のまま。たぶん、少しだけ心を軋ませて。

――――― ――

「なあ澪、私、大学に行くことにした」

突然、律は電話越しにそう言った。本当に突然のことで、私は「え?」と間抜けな
声を出してしまった。その時の表情もたぶん、間抜けだったと思う。それくらい驚いた。
律がまだ進路を決めていないことは知っていた。だけど何となく、漠然と、同じ大学に進む
ことになるんだろうなって思っていたから。

けど、律が口に出した大学名は、まったく知らない名前で。

「驚いた?」

律が笑いながら訊ねてきた。私は頷くことも忘れて、「それ、どこだよ」と訊ねた。
語尾が少し荒っぽくなってしまった。
別に律と一緒がいいわけじゃない。
ただ、何で私にそんな大事な進路のことを今まで話さなかったんだ、って。
寂しいわけじゃ――ない。

「どこって……」

律は困ったように黙り込んでしまった。それで私は悟った。
あぁ、遠いとこなんだな、って。

「……一人暮らしとかするの?」
「ん、まあな。ここから通うのはさすがに無理そうだし。親にも迷惑掛けちゃうしな」
「そっか」

頷いた。沈黙が訪れた。
私は律との間に出来る沈黙は嫌いじゃない。寧ろ好きだった。だけど、今のこの
沈黙はなんだか重苦しくて、「それじゃ」と電話を切ろうとした。
すると、律がその間際「ちょっと待って!」と言った。

「なに?」
「あのさ、澪!明日から三連休だろ、一緒にどこか行かない?」

私はまたもや突然の提案に、少しだけ困惑しながらも「いいけど」と言った。
すると律は、「やっぱり無理」と私に断られることを避けるみたいに「ありがと」と
お礼まで言うと、電話を切ってしまった。

私は携帯を見詰めながら、まだどこに行くか、とか色々決めてないんだけど、と
心の中で律に呟いた。
まあけど。長年の付き合いだ。なんとなく、何時からとか、どこで待ってるかとか、
わかっている。どこに行くのかまではわからないけど。

そういえば、律の行く大学って、どんな大学なんだろう。
私は携帯をベッドに放り投げると、自分もベッドにダイブして、いつのまにか
重くなっていた瞼をゆっくりと閉じた。


次の日、目が覚めると日はだいぶ高くまで昇っていた。何時だろうと思って時計を
見ると、10時はとっくに過ぎていた。
律と遊ぶ場合、いつも待ち合わせは10時と決まっていた。慌てて急かすように光る携帯を
開けると、案の定律からのメールが二件、届いていた。

一つ目は昨日。私が眠ってしまってからすぐに来ていたらしい。

『明日、いつもの時間、いつもの場所で』

私と律の間じゃ「いつも」で通じてしまう。改めてそれを意識して、本当にずっと、
一緒にいたんだな、と変なとこで感傷的な気分になってしまった。

もう一件は今さっき。

『やっぱり駅に変更』

あれ?何で駅なんだ?
私はそのメールを見て首を傾げてしまった。遊びに行くとしてもどうせ近場だと
思っていた。一応私たちは受験生で、遊びに行く時間なんてないに等しいのだから。
それでも昨日、断らずに頷いてしまったのはたぶん、律の話を聞いて動揺していたから。

駅か。やっぱり行かない、ってメールしようかな。
手櫛で髪を梳きながら考えた。
けど、私がいざそのメールを打とうとしたとき、携帯が震えて私は思わず手を
離してしまった。携帯はベッドの上に着地した。ディスプレイに表示された名前は律だった。
私は溜息を吐きながら通話ボタンを押した。

「超能力者か」
『は?何の話か知らないけど、澪、遅い!もう電車来ちゃうって!早く来いよ!』
「え、ちょ、律……」

律の急いた声に、私は断ることが出来なかった。断ろうとしたときにはもう既に遅し。
電話の向こう側は昨日の夜のように虚しい音が響いていた。

「まったく、ちょっとは人の話聞けよ……」

私は呟くと、よいしょ、と部屋のクローゼットを開けて服を探した。
……まったく。私はやっぱり、律に甘い。


10時半を少しまわってしまったけど、何とか駅に辿り着いた私は律の姿を探して
辺りを見回した。
さすが三連休とあって、人の出入りも激しくて見慣れた姿とはいっても中々見付かるもの
ではない。
すぐには見付かりそうにないなと判断すると、私はポケットから携帯を取り出した。
その時、後ろからポンっと肩を叩かれた。

「ひっ!?」
「なーに驚いてらっしゃるの、澪さん?」

律がいた。律は私が遅れたせいか、あまり機嫌が良さそうには見えなかった。悪い
ようにも見えないけど。律は下に置いていた鞄をよいしょ、と持ち上げると「行くぞ」と
歩き出した。

「え、ちょっと待てよ律!」
「質問は受け付けませーん、澪が遅れた罰」
「うっ……」

聞きたいことは山ほどあるのに。
まずはその荷物。何でそんなに大きい荷物を持って来てるんだ?
遠出でもするみたい。買物とかそんなんじゃないのか?
それにいつもとは違うホームへ入っていく。どこに行こうとしているのか、全くわからない。
律は予め買っていたのか、私に「はい」と手際よく切符を渡すと先に改札口を抜けていく。
私も仕方なく、その後に続いた。

長い階段を上りきると、電車を待つホームに出る。中学も高校も電車通学じゃないので
あまり駅には詳しくない。おまけにあまり来たことのない方面で、電光掲示板にある駅名も
ほとんど知らない名前ばかりで、私の不安を煽らせた。
律だって私と同じようなものだ。なのに律は、涼しい顔で私の隣に立っている。

「なあ律」
「質問は無し」
「……、どこに行くんだ」
「質問は無しって言ったよな、私」
「これは質問じゃない。語尾を上げてない」
「そんなの知らねーし!」

一向に会話が進まない。何もわからない。
律はわざと行き先を隠しているようだった。
そうこうしているうちに、電車がホームに滑り込んでくる。律が足元に置いていた
鞄を持ち上げると、さっさと他の乗客と同じように電車の中に吸い込まれていく。
私も慌てて律を追いかけると、電車のドアは程なくして閉まってしまった。

もう、後戻りは出来ない。
私は仕方無い、と溜息を吐いた。今日一日くらい、律に付き合ってやるか、と。


前に座る律はさっきから、あまり眠っていなかったのかうとうとと舟を漕いでいる。
私はすることもなく、ただ移り変わる景色を眺めていた。

ガタンガタン、ガタンガタン

周りに人がいないわけでもないのに、電車の音がやけに大きく響く。
こうなるんだったら音楽プレイヤーでも持ってこればよかったかな、なんて思いながら
窓枠に頬杖をついて今日何度目かわからない溜息を吐いた。

律の横に置いてあるやけに大きな鞄が、電車の振動でさっきから落ちそうになっている。
私は立ち上がると、どこで下りるかは知らないけどそれを網の上に置いてやろうと
持ち上げてみた。それが思ってた以上に重くて、電車の揺れもあったので私は情けなくも
律の上に倒れてしまった。当然律は目を覚ます。

「……ん、澪?って、何やってんだよ」

律は私を見ると呆れたように笑いながら私から鞄を取り返し、網の上に置いた。
最初からそこに置けばいいのに。
そう思いながらも、「何が入ってるんだ?」と訊ねると「お、澪、海が見えるぞ!」と
話をはぐらかされてしまった。

私は「まあいいや」と律の指差すほうに目を向けた。
窓の外ではさっきまで山や住宅地ばかりだったはずなのに、一面の青が広がっていた。
何度も見ているはずなのに、思わず目を奪われる。

「夏の合宿以来か、海見るの」
「あぁ、そうだな……。カメラ持ってこればよかった」

私が言うと、律は「あるよ」と言ってポケットから小型カメラを取り出し私に差し出した。
何でカメラまで持ってるんだ?と疑問に思いながらもカメラを受取った。
次の駅で停車したときに、一旦電車から降りると、私は海のよく見える場所に走った。
そして律のカメラを構えるとシャッターを押した。
まだあと何枚も撮りたかったけど、電車が出てしまうといけないので、私は名残惜しい気も
しながら踵を返した。

「それだけでいいのか?」

律が不思議そうに言った。
手にはちゃんと、あの大きな鞄を提げている。

「なんだ、ここで降りる予定だったの?」

私が訊ねると、律は「まあね」と曖昧に返事をした。私はもう一度カメラを構えて
シャッターを押すと、律を振り返った。律はもう先に改札口へと歩いていた。

どうやら田舎の方まで来ていたらしく、無人の駅だった。さっきは気がつかなかった
けど、私たちのほかに降りた人もいなかったようだ。

駅を出て周りを見渡すと、真正面に海、そしてその後ろには山。
田んぼが沢山あって、トンボが沢山飛んでいた。

こんなとこ、あったんだ。
律は知っててここに来たのかな。そう思って律を見ると、律も物珍しげに私と同じように
首をきょろきょろと回していた。
私が不審げに見ているのに気付き、律が「さ、行くか!」と慌てたように歩き出す。

「どこ行くんだよ」

私は答えてくれないだろうとは思いつつ、律に訊ねた。
が、律は答えてくれた。

「さあ」

私は固まってしまった。
ということは、全部無計画なのか?
私の批判の目に気付き、律が慌てたように続けた。

「べ、べつにたまにはこういうのもいいだろ?二人でのんびり散歩、みたいな」
「もう散歩の域じゃないんだけど」
「けどさ!とりあえずせっかく来たんだし、な?ちょっとくらいはここで遊ぼうぜ!」

私が帰ると言い出す前に、律は言うと私の手を引っ張った。

「カメラも持ってていいしさ!これで最後だから」
「わかったよ」

最後という単語が妙に心に引っ掛かったけど、それを無視して私は渋々頷くと
「ただし帰ったらしばらくは相手してやらないからな」と付け足した。
律は一瞬だけ表情を曇らせると、すぐに嬉しそうな顔をして「よっしゃ!行っくぞー!」と
目の前の海へと私の手を握ったまま走り出した。

小さな身体で、あんな大きな荷物を持って、しかも私の手を引いてよく走れるな。
私は呆れながらも、おかしくなって笑った。
律がなんだよ、と振り返る。なんでも、と返す。
ただそれだけのやり取りなのに、私はそれがとても特別なことのように思えた。


海岸まで走ると、律が「うわーっ、すげー!」と声を上げた。
確かにすごい。海は何度見てもその広さと青さに声を上げてしまう、そんな何かを
持っているのかも知れない。

「ってかさむっ」

走って温まったはずの身体が急に冷えていくのを感じた。
さすがに季節が季節。夏の終わりとはいえ秋の始まり。冷たい風が私たちの間を
通り過ぎていく。
ふと律を見ると、律も私の隣で震えていた。

やっぱり帰らない?

そう言い掛けて、やっぱりやめた。
律の横顔があまりにも無邪気で、私を躊躇わさせた。私は言葉を口にする代わりに、
子どもっぽいけど大人びていて、いつも傍にいてくれる、そんな幼馴染にカメラを向けると、
律との“今”を焼き付けたくてシャッターを切った。


太陽が空高く昇っている。気が付くともう昼過ぎで、私と律は海岸を離れて
歩き出した。

「腹減ったー」
「我慢しろ」

「つーかここで降りなきゃよかったんじゃんかよー」
「私は電車に戻ろうとしたけど?」

「そのまま私を引っ張って連れて行けば良かったんじゃんかー」
「勝手なこと言うな」

「ていうかさ」

突然、律が立ち止まった。気が付けば、真昼間だというのに薄暗い場所に来ていた。
今まで少しずつだけど建っていた家もどこにも見当たらない。木々が生い茂る、森と
呼ばれる場所に踏み込んでしまっていたようだった。

「ここ、どこ?」
「わ、私に聞くな!」
「……、こっち行ってみるか」
「あ、ちょ、無闇やたらに動くなよ!」

律がまた歩き始めたので私も慌てて追いかける。
追いかけながら、動揺した頭の隅のどこか隅で、私はそういえば、と思い出していた。


――――― ――

まだ幼い頃。確か、小学校の低学年くらいの頃だったと思う。
夏休み、私と律は少し背伸びしたくて、『冒険』と称して二人で隣町まで歩いた。
今は大したことの無い距離だけど、小さい頃の私たちにとってはまさに『大冒険』で、
調子に乗った律がどんどん先に進んでいって帰り道がわからなくなったときがあった。
けど律は、帰り道がわからないというのに、それでもやっぱりどんどん先に進んでいった。

その時は幸い、帰りの遅い子どもを心配して迎えに来た両親に見つけられたけど、
もしあの時もっともっと遠いところへ行ってしまっていたら、と考えるとぞっとする。

――――― ――

けど、それでも今私が律を信じて着いていけるのは、途中で迷子になったとわかって
怖くなって泣いてしまった私の手を握って、律が「大丈夫だよ」って笑ってくれたから。
今考えると、律だってきっと怖かったはずだ。だけど私を励ましてくれた。
あの時の律の手の暖かさは今でもちゃんと、覚えてる。

「澪、大丈夫か?」

律が振り返って訊ねてきた。私はあの時の律と今の律が重なって、思わず笑ってしまった。

「な、何で急に笑うんだよ?人が折角心配してやってるのに」
「だって、思い出しちゃって……」
「何を?」

律がきょとんとして立ち止まった。律のことだ、多分本当に覚えてないんだろう。
私は何でも、と言うと少しだけこの状況が楽しくなってきて、「ほら、行くぞ」と
あの頃とは逆に律の手を掴んで先に歩き出した。

けど歩き出してすぐ、さっきよりももっと暗くなってきて、流石の律も危険だと
感じたのか「戻ろっか」と私の手をぎゅっと握って言った。
私も「そうだな」と頷くと踵を返した。

そして、さっき辿ってきた道を思い出しながらもう一度、歩き始める。
木々の間から、太陽の光が降り注ぐ。大丈夫、怖くない。森林浴だって思えば良い。
怯える心に言い聞かせていると、律が「そういえば」と何気なく、というように口を開いた。

「な、なに?」

この際、どんなくだらない冗談でも付き合ってやろう、そう思いながら訊ねると、
少し後ろに居た律は私の隣まで来て、そして私を見上げて「やっぱいいや」と押し黙った。

「なんだよ?」

気になった私が訊ねると、律は「ここで言う話じゃないし、後でな」と言って目を
逸らし、ついでに話題も逸らされた。

「こういうとこっていかにもさわちゃんが現れそうな場所だよな」
「は?なんだよそれ……」

そこまで言って、私は二年生のときの合宿を思い出した。そうだ、肝試しであの時、
確かにさわ子先生はこんな場所で凄く恐ろしい声を上げて私たちの元に現れたんだった。
「ま、そんなわけないけどなー」と律が笑ったとき、近くの茂みから何かが動く気配がした。


「なっ、なに!?」
「まさかほんとにさわちゃん……」

びくっと私は律に抱き着いた。そんな私を安心させるように肩に手を置きながら
律が言いかけたとき、ガバッと茂みから何か黒い影が飛び出した。


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最終更新:2010年11月06日 23:34