目をつぶるだけで気だるい快感が体に満ちる。
 それが、朝。

「律っ! こら、律っ! 律っ、律っ、律っ!」

 眠りを妨げるありとあらゆる音に殺意すら沸く。
 それが、朝。

「起きろっ! 律っ、律っー!」

 暗い視界に文字通り人一人分の重さが伝わってくる。
 最近毎朝この調子で、いい加減、さすがの私も堪忍袋の緒というヤツがミシミシと鈍い悲鳴を上げるのを無視できなくなっていた。
 秋山澪
 私の幼馴染にして腐れ縁にして面倒見のいい親友にして恋人。
 その澪がどういうわけなのか知らないが、少し狂ってしまったらしいのだ。

「ねえ、律……わ、私、迷惑……かな?」

 迷惑だよ、とくぐもった即答は果たして澪に届いたのだろうか。しばらくして澪が私の上から退いてくれた。
 せっかくの土曜日に最悪のスタートを切るのは、正直、頭のてっぺんからつま先までヘドが走るような気分だが、どうにも澪が相手となると、仕方ない折れてやろう、という心持になる。
 やはり私も澪が好きだからだろう。
 まだはっきりとしない頭を起こすと、霞んだ視界の隅に、うなだれた真っ黒い花が咲いていた。

「澪」

 返事は無い。
 代わりに、その黒い花が徐々に収縮していって、ふらりと起き上がった。
 時計を見る。
 まだ鶏も鳴いていない時間だ。てか、鶏って鳴くのか。

「澪、何やってんの」

 おそらくウチに来る前にセットしてきたであろう長い黒髪は、早朝から見るに耐えない異形の澪を演出しているに過ぎなかった。
 憐れというか、ちょっと羨ましいというか。
 馬鹿だ。

「着替えるから――」

「り~つぅ~っ!」

弱々しい声とは裏腹に髪を振り乱した化け物が襲い掛かってきた。


「うふふ」

「気持ち悪い」

 私はヒリヒリする股間を押さえながら洗面台に立った。
 情けないのではない。
 この馬鹿澪の手が馬鹿でかいだけだ。
 仕返しに噛み付いてやった。

「今日はどこ行こっか?」

「お金ない。どこにも行かない」

「そんなこと言うなよー。ねっ、どっか行こう?」

「うるさいな」

 まだ弟も両親も起きていない。
 しかし、だからと言って、女二人が素っ裸で洗面所に突っ立ってるというの絵はどうなんだ。
 見る人が見たら涎たらして襲い掛かって来るかもしれないし、あるいは、

「早く服着たら?」

 透き通るように白く、ほんのりと紅く色づいた横っ腹に蹴りを入れて澪を黙らせる。
 さて、一日が始まる。


 朝早く~、友に起こされ一騒動~♪
 昨日のー、喧嘩はー、もう忘れてるかーな♪

「喧嘩なんてしてないだろ! エッチだ、エッチ! エス、イー、エーーック――」

 街中で奇妙な歌を勝手に歌いだし、あまつさえ一人突っ込みを下ネタで落とそうとしている澪に、とび蹴り。
 鈍い音と共に澪の鼻から盛大に噴出したるは、鮮血。

「せいひ、みたいひゃね(生理みたいだね)」

 正拳。

「痛いよ」

「お前がな」

 とりあえずゲル状の血の塊が出てきたので、流石にまずい。
 適当にティッシュを渡して鼻を拭かせた。
 やさしいね、律は。なんて言ってるもんだから、こいつは真性のバカになってしまったのか、それとも、真性のMになったのかな。
 思えば、あの恥ずかしがり屋の澪がこんな醜態をさらしてヘラヘラしている時点で、おかしいのだ。
 狂っていると言えば狂っている。
 キ○チガイと言えば確かにそうでないと否定はできない。
 けれど、どんな痴女で腐りかけの脳ミソを頭に搭載していようとも、やっぱり澪は私の大切な友人兼恋人なので、見捨てることはできない。
 なぜってそりゃあ、こんないかれJKでも好きだからだ。
 恋人ってそういうもんじゃね。。

 適当な喫茶店に入った。


「いつもので」

 この店は前に雑誌で見ていつか来たいと思っていたところだ。当然、今回来るのは初めてだ。だというのに、澪は得意げな顔……ドヤ顔だっけ? を浮かべながら笑っていた。
 そんな満面の笑み浮かべて何を言うんだ。可愛いじゃないか。
 ウェイトレスが運んできたお冷を頭にぶっ掛けて熱を冷やしてあげる私、優しいね。
 澪も嬉しそうだった。
 何でもシャツが濡れたとかで、周囲の目も気にせず、ぐいと上着を捲り上げようとしていた。

「止めないの?」

「えっ、何を?」

「何をって……律のバカっ! バカ律っ!」

 プイっと口に出してそっぽを向きよる澪という女子を、私はどうしたかというと、

「り、りつ……?」

「バカだな、澪は。こんな体冷たくして、風邪でも引いたらどうすんだよ」

「えぐえぐ……りつぅ」

「お客様、当店でのそういった行為はご遠慮くださいませ」

「ねえ、りつぅ」

「なあに」

「私のこと……スキ?」

 答える代わりに、その生意気な口を塞いでやった。
 瞬間、周りから黄色い悲鳴が飛び交い、グラスが割れて水飛沫が立つ音まで聞こえた。
 全力でやったから途中で澪が泡吹いたが、気にせず口を吸い続ける。


「ぷはぁ……っ、も、もうぅ……律ったら大胆なんだから」

「そう? 私はいつも通りだけど」

 顔が真っ赤にした澪が、もう、と恥ずかしそうに押し黙った。
 よく見ると口元からツーっと赤い筋が零れている。ひょっとすると私が噛んだのかも知れないし、澪が恥ずかしさを堪えるために舌を噛んで死のうとしてるのかも。
 まあ、それはどうでもいい。
 せっかく喫茶店に来たのだし、ケーキの一つでも食べていこう。

「澪、何食べるー?」

「律が食べたい。ダメ?」

「……じゃあ私、このシェフの気まぐれモンブランとアールグレイ」

「じゃあ私もそれ。すいませーん、注文いいですかー?」

「ダメです。出てけ」


「ねっ、次はどこいこっか?」

「んー、どこでもいいよ別に。澪が行きたいとこで」

「じゃあ、」

「ホテルって言ったらとりあえず、口利いてやらない」

 と私が言った直後、澪が急に立ち止まってマジ泣きを始めてしまった。鳩尾に膝蹴り入れても無反応のくせに、こういうこと言うとすぐ涙腺が緩んでピーピー泣くのだから面倒くさい。
 面倒くさいが可愛い。
 どのくらい可愛いかって言うと、ちょうどお椀一杯分くらいであるからして、大して可愛くのないのである。いや、嘘だ。だって可愛くなければ、こんなことはしないし、できない。何と言うかプライドとして。

「んぅ……もう一回。んー……」

「ダメ。こっち人見てんじゃん」

「ずるいよ。律が何でもするって言ったんじゃんか」

「言ってねーよ、捏造すんな。だいたい、どこに昼間からラブホいくJKがいるんだよ」

「いいじゃないか昼間からラブホテルに行ってセックスしたってさ。ロックってそういうものだろう?」

「違げーし、ってかロックに謝れ」

「ごめんね。ねえ、だからもう一回キスしてよ」

「うるさいなぁ…………ったく」

 折れるな、私。でも折れる。


 女二人で休日の街中を練り歩くにはやっぱりお金がいるわけだ。
 何か飲むか食べるかゲーセン行くかの数少ない選択肢の中で、更には限られた寒い懐を駆使して楽しむにはちょっとキツい。
 バカ澪も朝っぱらから起きてるせいか、流石に目元に疲れが見える。

「……どうしたの?」

 さて、どうしたものか。
 今から誰かの家に遊びに行くか? いや、流石に中途半端な時間だ。
 家に戻ってゴロゴロするという手もあるが、それじゃあせっかくの休日が味気ない。
 いや、それでもいいのかもしれない。そもそも、私は外出することに乗り気じゃなかったんだ。
 雑誌でも読みながら惰性に身を任せて過ごすのも悪くない。
 よし、家に戻ろう。

「澪、帰ろう」

「えっ、どうした急に?」

「ちょっと疲れただろ? 私も正直ちょっとね」

「朝からエッチしたからか?」

「そういうわけじゃ……いや、そうかもね。まあ、とにかく帰ろう。どうせこのままブラブラしてても何もないし」

「律がそういうなら私はかまわないよ」

 というわけで帰った。
 帰り際にコンビニでおでんを買った。それくらいのお金はあるよ。


 聡の不在を確認して家に入る。澪は元気よく、お邪魔しまーす、と声を響かせたが心配には及ばない。両親は澪が狂った事を既に認知済みだからだ。
 澪を私の部屋に通し、私は再度、聡の不在を確認する。
 流石に思春期の男の子にこの澪は刺激が強すぎる。私は良きJKである前に、良き姉でもあるのだ。
 部屋に戻ってベッドへダイブすると、すかさず長い髪を振り乱して澪が隣に寝転んだ。
 心底ウザイと思いつつ、私は別の事に思いを馳せた。

「あーあ、お金ほしいなぁ」

「どうした、藪から棒に。何か買いたい物でもあるのか?」

 そういうわけでもない。
 ただ、お金があればもう少し行動の幅が広がると思っただけだ。

「またバイトでもする?」

「バイトねぇ……めんどうだなぁ」

「お金を得るのは大変なんだぞ? いいか、何かを得るには何かを犠牲に――」


 等価交換。
 労働力を提供する代わりに賃金を手にするという、ごく当たり前の行為が、今は非常に面倒くさく思える。
 人間は楽に、楽に行きたいと願う。それが結果として文明の発展を促し、現在の社会を形成しているのだ。
 で、それが何だと言うのだろう。
 そんなものは才に溢れた奇特な連中がやればいいし、働きたい仕事人間はずっと仕事に熱中していればいい。
 私は違う。
 最小限の労力で最大限の利益を得たい。
 そんなうまい話がないのは百も承知だが、ここに危険というパラメータを加えてやるだけで、この手の考えは現実味を増したりする。
 たとえば、売り。
 うちの学校にもそういう行為を日常的に行なっている子がいると、ちらほら耳にする。
 私は嫌だ。
 どこの誰だか知らない男のものを口にするなど、全身を汚水が駆け巡るような嫌悪だ。
 嫌悪。
 嫌悪。
 嫌悪。
 今日の私はいつになくテツガクテキだ。これも澪のせいだ。

「律、どうしたの?」

「別に。ちょっと考え事」

「お金のこと?」

「いや、違う」

「そっか」

 澪の頭のねじが外れてから、私も少しおかしくなってしまったらしい。
 最近は何をしている時でも、どうでもいいことを考える。やたら小難しく。
 とても面倒くさい。

「ねえ律」

「なに」

「しよう」

「やだよ」

「そんなこと言うなよー……ねえってば」

 後ろから澪の手が伸びてきたので噛み付いた。
 言語で通じない場合はこれしかない。暴力。実に合理的で素晴らしい! っていうのは何かのドラマの受け売りだったか。
 またどうでもいいことを考えながら、グイグイと澪の大きな手に歯を立てる。口に鉄臭い血の味が広がった。

「こら、ベーシストは手が命なんだぞ!」

 ぐるりと身体を捻って、バカの面と向き合う。
 そんな強く噛んだつもりはないのに、澪の目には涙らしきものが浮かんでいて、また私のどうでもいい焦燥を募らせてゆく。
 仕方ないのでもう一回噛み付いた。


「バカ律! 痛いだろ!」

「うるさいよ。こんな近くでそんな大声出すなよ」

 顔を近づけて潤んだ瞳を覗き込んでみる。
 心なしか瞳孔が開きすぎのような。いや、黒い瞳には目一杯に開いた瞳孔が爛々と光っていて、ああやっぱりこいつ正気じゃねーわ、と思ってしまう。
 しかし、可愛いのもまた事実。

「……キスして、いいの?」

「ダメ」

 さらに近づく。
 息がくすぐったい。

「なんでだよぉ……ねえ、だめ?」

「喋るなよ。口が当たる」

 もっと近づいてみた。
 生温かい吐息が口の中に広がって、私の思考回路をゆっくりと閉じていくのがわかった。
 もう何も言えないし、何も考えられなくなる。さっきまで頭を巡っていたどうでもいい事……ボンノウって言うの? それも消えた。
 互いに無言。
 どちらともなく、脚が、腕が、互いのからだにまとわりつくように絡まっていく。
 もう意識が真っ白になる、というその直前で私は水面に顔を出すようにベッドから飛び起きた。

「おしまい」

「っ……えっ、ち、ちょっと、律っ!? な、なんだよそれぇ!」

「何って、なんでもないよ。どこまで近づけるかなーって思って近づいてみた」

「ふ、ふざけるな! 今の流れだったらキスして、ギューってして、それから」

「そりゃあお前の勝手な期待だろ。私はハナからそんな気ないよ。盛りのついた犬でもあるまいし」

「犬はお前だろ! ほら、この手見てみろ、血が出てるじゃないか!」

「犬じゃなくても噛むよ。ってか噛まれた理由よく思い出してみろ」

 澪の理不尽極まりない抗議は10分ほど続いた。そのどれもが、キスさせろ、の主軸からずれることなく続いたのは感心するが。
 まあ、私は決して折れることなく時には再度噛み付きながら澪をあしらったのだった。
 そしてその結果として、澪は泣いてしまった。

「お前は小学生か」

「うるさいよっ! えぐえぐ、えぐえぐ」

「泣くなよ。うるさいな」

 口を塞いでやると効果的なのだが、それでは流れに巻き込まれてしまう。一度つかまると最後、いわゆる最後までイかされてしまう。
 それではダメだ。
 何がダメなのかよくわからないが、とにかく今日はそういう日らしい。
 澪が涙に濡れた真っ赤な瞳で恨めしそうにこちらを睨んだ。
 そんな目で見るな。


 泣けば何でも解決すると思っているJKは非常にムカつく。そこで私は仕返しというか懲らしめる意味も含めて、コンビニの袋を漁った。
 中から取り出したるは、そうさっき買ったおでん。

「あっ、それ私のハンペン!」

「澪が泣いている間に冷めちゃうだろ? んぐっ、やっぱり冷めちゃってるわ」

「もーーっ!!」

「わっ、危ない、串が刺さる! 離れてろ、バカ澪っ」

「ハンペンはんぺんはんぺんはんぺんはんぺ」

 ベーシストってのは意外に力が強い。
 ハンペン一つで私の口腔は蹂躙された。痛ぇ。ハンペンと間違えて思いっきり舌を噛まれ、今度は私が涙目になってしまった。
 そういえば、昔見たアニメかなんかで、相手の舌を噛んでお仕置きする変態女がいたが、なるほど、これは効く。

「んぐんぐ。やっぱりハンペンはおいしいな、律」

「そうか、そいつは、よーござんした。それ食ったらとっとと出てけ怪力女」

「そんなこと言うなよー。律の冗談に比べたら可愛いもんじゃないか。なっ、聡?」

 部屋の天井を見上げて弟に同意を求める澪。瞬間、私の怒りも収まったというか、行き場を失って霧散した。
 本当にこいつは以前の澪とは違う、言わばニュー澪になってしまったのだと改めて実感する。
 だっせえネーミング。何がニュー澪だ。


「……ごめんね、律。ちょっと冗談が過ぎた。ホント、ごめん」

「謝るんなら最初からやるなっての」

「……律」

 結局、噛み付こうが腹に蹴りを入れようが、髪を引き摺って階段から突き落とそうが、最後には私が折れるカタチになってしまう。
 唯が言っていた、りっちゃんはお姉さんだから面倒見がいいんだねー、という言葉はあながち的を射ているのかもしれない。
 一人っ子の澪は狂っても、心のどこかで私を姉として頼っているのだろうか。それとも恋人として、私に男性の包容力を求めているのか。
 ああ、また始まった。面倒くさい事が頭の中に広がり始めている。

「澪、なんか面白い事言って」

「なんだよ急に」

「いいから。暇になると頭が重くなるんだよ」

「なんだそれ……まあいいけど。そうだなあ、面白い事、ね」

 うーん、とわざとらしく腕を組む澪を見て、少し心が軽くなるのを感じた。馬鹿って言うのは見てて飽きないな。

「あ、思いついた」

「なになに?」

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 耳をつんざく様な澪の奇声に私の意識がとんだ。


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最終更新:2010年11月08日 00:15