梓「ほら、憂! 遅いよ!」

純「憂~引っ張るのも楽じゃないんだよぉ~」

憂「だってぇ…」


『憂』

それが私の名前

この字には辛い、悲しいって意味がある
『憂』を使った言葉も悪いイメージだらけ


梓「そんな悲しそうな顔してほっとけないよ?」

憂「で、でも私やっぱり…」

純「ダメダメ! 憂はそうやって我慢する気だね?」

梓「うんうん、たまには甘えた方がいいと思う!」

純「よーし、行くよっ!」

憂「わわっ、引っ張らないでよぉ~」

私は今この『憂』という名前が原因で落ち込んでいる

普通は名前に使われないような漢字
でも実は私はもともと自分の名前がちょっとだけ好きだった
そのきっかけは小学3年生の春
始業式を終え、教室で自己紹介をする時間での事だった


――――――

――――――――――――

――――――――――――――――――


憂「私の名前は平沢憂です! 好きなものはお姉ちゃんです!」

先生「へぇお姉ちゃんと仲良いんだね! それにしても珍しい名前だね~」

憂「え、そうかなぁ?」


私はその時『憂』があまり人名に使われるようなものでない事を知らなかった
だから自分の名前が珍しいものなんて考えたことはなかった
この頃の私は自分の名前に特に関心はなかったんだと思う

先生「う~ん…でもこの漢字は…」

憂「?」

先生「あ、もしかして『にんべん』がくっつくと『優』って文字になるからかな?」

憂「にんべん?」

先生「『人』の部首だよ」

先生「『憂』って漢字の隣に『人』が来ると『優』って字になるでしょ?」

憂「うん」

先生「だからきっと憂ちゃんは隣に人が来ると優しくなれるんだね!」

憂「あ、なるほどー」

純「わあ、ういちゃんかっこいい!」

憂「じゅんちゃん?」

純「優しくなれる名前なんてかっこいいね!」


当時すでに仲良しだった純ちゃんが大きな声でそう言う
それに続くようにクラスメイトたちが私の名前を賛美してくれた


憂「人に優しくなれるから憂…かぁ……」

純「いいなー、私もその名前がいいなー」

憂「えへー、ちょっとかっこいいかも!」


みんなにチヤホヤされて私もまんざらじゃなかったのを覚えてる
私の名前にはそういう意味があったんだ
この日初めて自分の名前の由来を知った

自分の名前をちょっと好きになった瞬間だった



それでも年を重ねるにつれて『憂』の持つ言葉の意味も理解するようになっていった

ちょうど中学生になったあたり
新しく出来た友達で私の名前に疑問を持つ子も少なくはなかった


友「憂って名前珍しいよね~」

憂「うーん、そうだね」

友「『憂』って悲しいとか辛いとかって意味があるんでしょ?」

憂「うん、憂鬱って言葉にも使われてるよね」

友「なんかあんまり良いイメージないよね? あ、気を悪くしたらゴメン」


そうそう、この頃って実はちょっとだけ怖かったんだ
名前の事で誰かに酷い事言われちゃわないかなって


憂「ううん、ぜんぜん大丈夫だよ」

友「さすが憂! じゃあ聞くけどさ、憂って名前の由来あるの?」

憂「もちろんあるよ! 実はね…」

純「ふっふっふ、知りたいかい?」

憂「あ、純ちゃん」

友「純、知ってるの?」

純「ふふん、まあね。私達の小学校では有名な話だよ」

友「教えて教えて!」

純「『憂』って字はね『人』、つまりにんべんが隣に来ると『優』になるでしょ?」

純「つまり憂は隣に人がいる時に優しくなれるから『憂』なんだよ!」

純「ねっ、憂?」

憂「うん! ありがとう純ちゃん」

友「おぉぉ~~ホントだぁ! 超かっこい~~!」

憂「えへへ~♪」


でもそんな心配する必要無かった

私の名前にはちゃんと意味があって
何よりいつも私の周りには思いやりのある友達がいてくれたから
みんな私の名前の由来を聞くとかっこいいって言ってくれる
今考えても私はつくづく友達に恵まれていたと思う

悪いイメージの漢字でも理由があるから褒めてもらえる
その頃はそれが純粋に嬉しかったなぁ
なんだかんだで『人』に優しくなれる名前は私のちょっとした自慢のひとつになっていた


友「だから憂は天使みたいに優しいんだね~」

憂「て、天使じゃないよぉ…」

純「へへ~ん、すごいでしょ!」

友「うん!でも純がいばる事じゃないよね~?」

純「なによぉ~!」

隣に『人』がいる時優しくなれる
さっきまではこれが私の性格なんだって思ってた

でも、今思うとこの頃の私は自分の名前に振り回されてたんだ

隣に『人』がいれば優しくなれるんじゃなくて
隣に『人』がいるから優しくなくちゃいけない

『憂』を『優』に見せる為の努力をしていた
『憂』の持つ悪いイメージを一掃したかった

ううん、この頃だけじゃない…
きっと今もそう

だから、もしかしたら私は自分の本当の性格を知らないのかもしれない


――――――――――――――――――

――――――――――――

――――――

梓「憂、音楽室着いたよ?」

純「なにボケーっとしてんのさ?」

憂「はっ! も、もう着いたの!?」

純「……これは重症だね、早く診てもらわないと」


うぅ、まずい…
考え事してたら音楽室の前に着いてしまった


梓「ほら、行くよ憂」

憂「ね、ねえやっぱり止めない?」

梓「いまさら何言ってるの! もう唯先輩しかいないでしょ?」

憂「うぅっ、でも心配かけたくなくて…」

純「憂なんてもっともっと心配かけさせられてるんだからオールチャラだってば!」

純「むしろお釣りがくるね、大量に!」

梓「純の言うとおり! 憂も唯先輩に慰めてもらえば元気出るよ!」


あぁ、二人の心遣いは本当に嬉しい、嬉しいんだけどね?
やっぱりお姉ちゃんに心配をかけるのだけは避けたいんだよぉ…


憂「ふ、二人とも人が良すぎるよ…」

純梓「憂にそう言われても嫌味にしか聞こえなーい!」


うぅん、この息ぴったりコンビなかなか手強い
でもなんとかこの場から離れないと…


律「なにやってんの? きみたち…」

憂「あ…」

梓「あっ律先輩! 唯先輩いますか!?」

律「ん? みんな揃ってるけど…とにかく入んなよ」


しまった…どうやら部屋の前で騒ぎすぎたみたいだ…
様子を見に来た律さんに見つかってしまった
律さんに促され、私達3人は音楽室へと足を踏み入れる


純「し、失礼シマース…」

梓「なんで緊張してんの…」

純「だ、だってぇ~」

梓「純は大雑把なのに変なの」

純「私だってちゃんと女々しいところありますー!」

純ちゃんと梓ちゃんが得意の漫才を披露しはじめたので私はお姉ちゃんの様子を伺ってみる

あ、予想通り白くなってる
今日は3年生も私達と同じように期末試験の返却日だったんだね
心ここにあらずって感じだ
これならうまくいけばこの場を切り抜けられるかも!
お姉ちゃんの前では笑顔でいたいもんね


紬「憂ちゃん? いらっしゃ~い」

憂「あ、お邪魔します!」

澪「憂ちゃん! と、鈴木さんだっけ?」

純「はっ、はい! 純と呼んでいただいても構いませんよ!」

澪「そ、それは恥ずかしいから……」

唯「ん、ういー?」

憂「お姉ちゃん、授業お疲れ様♪」

顔を上げて私を見つめるお姉ちゃんに笑顔を見せる
隣で梓ちゃんと純ちゃんが呆れ顔で私を見てるけど気にしない
だってしょうがないよ
お姉ちゃんは本当に心のあったかい人
例えテストの結果で落ち込んでいても私を優先して心配してくれる

だから私は笑顔を作る
お姉ちゃんは今年受験だから…きっと今は勉強のことで色々悩まなきゃいけない
そんな大事な時に私なんかのせいで余計な心配をかけさせる必要なんてない


唯「……?」

律「ままま! 立ったままもなんだし座りなよ!」

澪「そうだな、ほら憂ちゃんも」

憂「はい! ありがとうございます!」

梓「ちょ、ちょっと憂!」

憂「ありがとう梓ちゃん、私は大丈夫だから…ねっ?」

純「も~~!」


小声で私を咎める二人に強がりを返す

こうして私は『優』になる
きっと今までも私はこうやって自分を偽ってきたんだろうな


紬「はぁいどうぞ~、3人の分のお茶ね~」

梓「あっ、ムギ先輩すいません」

純「んっ! これすっごいおいしい!」

紬「そう? ふふ、ありがとう」

梓「ふふん、ムギ先輩の淹れてくれるお茶は軽音部1の自慢だからね」

澪「いやいや軽音部1って…確かに美味しいけど」

純「あっそのドヤ顔やめてよ!羨ましくなんて…ないんだもん……」

梓「ぷぷ、こんなにおいしいのに?」

純「うぅ、ていうか梓が自慢することじゃないじゃん!」

梓「別にいいでしょ!」

紬「!! ふ、二人とも仲良いのね!」

憂「はい、この二人は羨ましくなっちゃうくらい仲良いんです」

純「いやどう見ても憂と唯先輩のほうが…」

澪「おーいムギ、反応しすぎだぞー」

律「いやいや、その前にこれって仲良いかぁ?」

唯「……ねえねえねえねえ!」

澪「どうしたんだ、唯?」

唯「ねぇ憂!」

憂「私? どうしたの?」

唯「憂、なにかあったの?」

憂「えっ…?」

唯「言ってよ」

憂「な、なんで…?」

唯「だって憂の笑顔いつもと違う」

澪「な、なにか違うか…?」

律「いやぁ、気付かなかったけど…」


私の笑顔がいつもと違う?
そんな事ない! 私はいつもと同じ!
自分を『優』に見せられているはずなのに…

ううん、今はそれよりも…


純「ていうか、さぁ…」

梓「うん、唯先輩、ちょっと怖い……」


そう、純ちゃんと梓ちゃんの言うとおり
お姉ちゃんが怒ってる……
駄々をこねるお姉ちゃんなら何回でも見た事があるけど
こんな風に静かに怒りを露にするお姉ちゃんは何年ぶりだろう
いや、初めて見たかもしれないくらい


唯「そんな憂、見たくないよ……」

律「ゆ、唯……どうしたんだよ?」

紬「唯ちゃん?」


こぶしを握り締めて震えながら話すお姉ちゃん
その目にはうっすらと涙が浮かび上がっている
軽音部の皆さんも戸惑っているみたい


唯「だってそんなのは憂じゃない! 憂の笑顔じゃないもん!」

憂「わ、私の笑顔……?」

唯「あずにゃん、純ちゃん!」

純梓「は、はいっ」

唯「憂に何かあったんでしょ? だから皆で音楽室に来たんでしょ?」

梓「そ、そうです」

律「お、おい唯? 後輩が怖がってるから…」

唯「はっ! わわっごめんね! でも、どうしても教えてほしいんだよ」

唯「憂の為なんだよねっ?」

梓「唯先輩……」

純「……分かりました! 話します!」

純「唯先輩の言うとおり私達がここに来たのはその為ですから!」

純「憂は唯先輩に心配かけさせまいとして平気な振りをしてたんです!」

唯「うん、そうだと思ったよ」

梓「いいよね、憂?」

純「観念しなさい!」

憂「……うぅ」


お姉ちゃんの勢いに押されてしまった
でもこれ以上怒ってるお姉ちゃんも見たくなかった


梓「では、皆さんも同じだと思うんですけど今日は学期末試験の返却日でしたよね?」

澪「ああ、さっきまで唯も白くなってたよ」

律「まさか憂ちゃんも成績悪くて落ち込んでたーとか?」

紬「憂ちゃんに限ってそれは無いと思うけど…」

純「えぇ、むしろ逆です」


純ちゃんと梓ちゃんが軽音部の皆さんに説明を始める
私もそれに従うようにその時の事を思い出すことにする


――――――

――――――――――――

――――――――――――――――――


先生「平沢ぁ~」

憂「はい」

先生「今回もお前クラスで1番だったぞ!」

純「おぉ~! 憂さっすがぁ!」

梓「毎日家事してるのに…反則だよ……」

先生「それにしても本当に平沢はすごいな」

純「自慢の娘です!」

憂「もーっ! たまたまだよ?」

梓「たまたまで毎回トップにならないでよ~」

憂「うぅ……」

先生「鈴木も中野も平沢を見習え」

梓「見習えったって……ねぇ、純?」

純「うん…見習えてるならとっくにクラスでトップだよね」

先生「お前らはまったく……ん? 平沢の名前って…」

純「おっ、先生も気付きましたか」

先生「もしかして『人』と比べると優れてるのが分かるから『憂』なのか!」

純「そうそう! ……えっ?」

憂「え……」


2
最終更新:2010年11月08日 21:00