私がボーカルの時は唯先輩の方を見る余裕がないから気付かなかった。
純「うん。凄い声援だったよね。それに二週間前のライブの後の握手回の時もイライラしてる感じだったよ」
梓「ど……どうして?」
純「さぁ?確か梓に握手を求める列が一番長かったよね。澪先輩の手、柔らかかったなぁ」
梓「他に心当たりは?」
純「先週のライブで私の隣にいた女子大生二人が『あーずにゃーん』って黄色い声援あげたら唯先輩が恐ろしい目付きで睨み付けてきた。
最初は私を睨んできたのかと思ってびびったよ」
多少気になる点があるものの、純の話によれば唯先輩は私が思っている以上に怒っているようだ。
純「それに昨日だって。女性限定のファン感謝イベントであんたがデレデレしてる間、唯先輩は黙々とサイン書いていたよ。
私は興奮したムギ先輩に犯されかけた」
梓「うーん」
純「梓って堅物に見えて結構尻軽だもんね。そりゃあ相手は苦労するよ」
梓「そこまでひどくないよ!」
純「まぁそれでも唯先輩なら梓を受け止められる、って思ってたんだけどね。あの人独占欲なさそうだったから」
梓「……過去形だね」
純「人は変わるものなんだよ。梓はあんまり変わってないみたいだけど」
梓「純もね」
純「唯先輩はさ、不安なんじゃないの?」
梓「不安?」
純「いつか梓が自分を見捨てるんじゃないか、いつか自分から離れるんじゃないかって」
梓「もしそうならもっとベタベタしてくるものだと思うけど」
純「それじゃ今までと同じでしょ。違う女にばかり目がいくあの子を振り向かせるには新しい私を見せるしかない!ってことだよ」
私は最近になって家事を率先してやるようになった唯先輩の姿を思い浮かべた。
梓「あの唯先輩がそこまで思い悩むかなぁ?」
純「私に聞かないでよ。私唯先輩のこと大して知らないし」
梓「無責任だね」
純「とにかく。今はそんなウジウジしてないで何か行動しなよ。取り返しのつかないことになっても知らないよ」
梓「何?取り返しのつかないことって?」
純「病んだ唯先輩に刺されたりとか」
梓「まさか」
純「でなくても別れ話になったりとか」
梓「それは十分ありそう」
純「夜遅く、梓が帰宅すると見知らぬ靴が。梓は急いで部屋に駆け込むが唯の隣には……」
梓「やめて。想像したくない」
純「そうならないように頑張りなさいよ」
梓「頑張れと言われても……一体何をすればいいんだろう」
純「うーん。じゃあさ、私と付き合ってみない?」
梓「は?」
純「いっそのこと、嫉妬のレベルを一度マックスまで上げてさ、奪い返してやろうって気にさせるの」
梓「今の唯先輩は結構冷めてるから『ふ~んそうなんだ』で終わりそう」
純「冗談だよ。演技とはいえ私にそっちのケはないし」
梓「それでも応援してくれるんだ」
純「他人のことなら何とでも言えるってことだよ」
梓「でもありがとう」
純「やめてよ恥ずかしい。それにしても冷めた唯先輩かぁ。まるで前の生徒会長さんみたいだね。お、そうだ」
梓「何?」
純「真鍋先輩に協力してもらえば?さっきとは逆に
『唯、好きよ』『いやっ!やめて和ちゃん。私にはあずにゃんが……』『うふふ、やっと素直になったわね。行きなさい、唯』『和ちゃん……ありがとう!』
みたいな感じで」
梓「私の言った『ありがとう』を返してよ」
純「と・に・か・く。唯先輩の一番側にいるのは梓なんだよ。だからさ、逃げずに自信持ちなよ」
梓「そうだよね。いつまでも逃げてちゃ駄目だよね。改めて、ありがとう、純。純に話せて気が楽になったよ」
純「二回も梓にありがとうって言われるなんて……。今夜は蛙が降るね。早く帰りなよ」
梓「はいはい。とりあえずこの弦を頂くね。お客さん全然来ないしね」
純「全く……やっぱり梓は梓だ。〇〇円頂戴致しま~す」
唯「あ、もうお話終わった?」
梓「あぁ、唯先輩。はい。唯先輩の分の弦も買っておきましたよ」
唯「ありがとね。じゃあそろそろお暇しようか。純ちゃん、今日はありがとう」
純「いえいえ私は何も」
梓「じゃあね、純。あ、最後に一つだけ」
純「なにー?」
梓「いつもライブに来てくれてありがとう」
純「……今夜はカタツムリが降るね」
唯「楽しかった?あずにゃん」
梓「ええ、とっても」
唯「そう。今日は何だか運がいいね」
梓「そうかもしれませんね」
相変わらず唯先輩は穏やかな表情だ。私と歩いていても心から楽しんでいるようには見えない。
唯「今夜はどうするー?せっかく町に出てきたんだしどっかで食べてこうよ」
梓「いえ、夕飯は私が作ります」
唯「どうしたの、あずにゃん?」
梓「最近唯先輩に作らせてばっかりですから今夜は私がお返しします。豪華にしますから楽しみにしててください」
唯「いいね~、じゃあ一緒に材料買いに行こっか」
梓「いえ、買い物は私一人で行きますから唯先輩は先に帰って待っていてください」
唯「え、でも……」
梓「いいんですよ。唯先輩を労うためなんですからゆっくりしててください。それじゃ」
唯先輩はまだ何か言いたそうだったが私はすぐさま走り出した。
梓「えっと、確か卵切らしてたよね」
?「梓ちゃん?」
梓「えっ?」
憂「久しぶりだね、梓ちゃん」
梓「憂……」
親友であり、恋人の妹でもある
平沢憂がそこにいた。相変わらずスーパーで買い物している姿がよく似合う。
憂「夕飯のお買い物?」
梓「うん、まあね」
憂「何作るの?」
梓「ビーフストロガノフ、かな?」
憂「ふぅん」
スーパーを出て、憂と二人で並んで歩いた。私は電車で帰るので、駅までは一緒に歩くことにした。
憂「こうして二人で歩くの、高校生以来かな?」
梓「そうだね」
憂「梓ちゃん、すぐにお姉ちゃん達の後を追いかけたもんね」
梓「うん」
憂「私がシスターコンプレックスなら梓ちゃんは軽音部コンプレックスだったもんね」
憂は笑顔で言った。言葉そのものは自嘲気味だがその表情は清々しく見えた。
憂「お姉ちゃん、元気にしてる?」
梓「元気だよ」
憂「よかった」
憂は私に微笑みかける。
私と憂は高校を卒業してしばらくはよく連絡を取り合っていたし、一緒に遊びに行ったりもした。
しかし次第に疎遠になり、ある時をきっかけに私は憂を避けるようになった。
憂「梓ちゃんがいてくれればお姉ちゃんは大丈夫だね」
梓「そんなことないよ。最近は私の方が唯先輩に頼ってばかり。今朝も唯先輩が先に起きて朝食を用意してたんだよ」
憂「お姉ちゃん、早起きしたり、料理したりできるようになったんだ。嬉しいな」
憂はいっそう笑顔になった、ように見える。
夕日に照らされて憂の健康的な頬の赤みが増していた。
梓「憂は、寂しくないの?」
私は恐る恐る聞いた。
憂「どうして?」
梓「お姉ちゃんと、離れて」
引き離したのは私だ。
憂「私は離れていてもお姉ちゃんが幸せならそれでいいよ。寂しいと聞かれれば確かに寂しいけどね」
この子は決して笑顔を崩さない。だからこそ不安になる。
憂の心配をして不安になっているのではない。自分が恨まれているのではないかということに対して不安感を抱いているのだ。
矮小な自分が恥ずかしい。
憂「梓ちゃん」
気付いたら憂が20センチほど私に近付いて歩いていた。
憂「梓ちゃんは大丈夫?」
梓「どういうこと?」
憂「お姉ちゃんが迷惑かけてない?」
梓「そんなことないよ。お世話になってばかり」
憂「そっか」
さっきより近い距離にある憂の顔からは素直な感情しか読み取れない。
それでもまだ私の心から不安が取り除かれることはない。
憂「梓ちゃん」
憂がもう10センチ近付いてきた。
憂「怖がらないで」
間近にある憂の顔が唯先輩の顔に見えた。
私は立ち止まった。憂もすぐ横に止まる。
私は憂から一歩分離れた。しかし憂は距離を詰めて来る。
既に笑顔ではなくなっていたが、怒っているわけでもない。しかし何かを訴えかけようとする目を私に向けていた。
梓「怖がってなんか、ないよ」
憂「梓ちゃんは嘘が下手だね」
梓「私が何を怖がるっていうの?」
憂「私と……お姉ちゃんもかな?」
憂は再び微笑を取り戻した。
憂「梓ちゃん。私はお姉ちゃんと別の道を歩くことに後悔はないよ。これが正直な気持ちだよ」
梓「本当に……?」
憂「本当、だよ」
私の心の中で何かが溶けていくのを感じた。
憂「お姉ちゃんの側には、梓ちゃんがいてくれるからね」
溶けたものが溢れてはいないだろうか。
憂「梓ちゃん」
梓「な…に?」
憂「私はお姉ちゃんと離れていても大丈夫だよ」
梓「強いね、憂は」
憂「梓ちゃんはどうかな?」
梓「え…?」
憂 「お姉ちゃんと離れても、大丈夫?」
梓「私は……」
私は呼吸を整えた。
梓「私は……離れたくない。唯先輩と離れて過ごすなんて、私にはできないよ」
憂「ふふ。よくできました」
梓「憂、私って弱いのかな?」
憂「強いよ。ずっとその気持ちを持ち続けることができればね」
私達は再び歩き出した。駅が見えてきた。
憂「梓ちゃん。まだ言ってなかったと思うから今言うね」
梓「何かな?」
憂「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」
梓「……任されました」
憂「今一瞬迷ったでしょ」
梓「ごめん。簡単には自信満々になれないよ」
憂「ゆっくりでいいんだよ。でもこれだけは約束して」
梓「うん」
憂「お姉ちゃんを泣かせるようなことだけはしないで。でないと私が許さないよ」
梓「……やっぱり憂は怖いよ」
憂「怖がらないで」
憂は今日一番の笑顔を見せた。
電車から降りて五分ほど歩くと私達の住むアパートだ。
私はこの五分間で今日の出来事を振り返ることにした。
カフェでお姉さんに絡まれて、洋服屋で先輩に説教されて、楽器屋で純と与太話して、帰り道で憂が怖くなくなって。
気付いたことは二つ。
一つ目は、私は唯先輩と向き合わなければいけないということ。
二つ目は……このお出かけが全くデートになっていなかったということ。
だから私は早く唯先輩に会いたい。
私の足は自然と早歩きになる。でも卵は割らないように気を付ける。
私達の部屋の前に着いた。駅を出てから3分しか経っていない。
梓「帰りましたよ、唯先輩」
私はドアノブに手を掛けようとしたところでふと動きを止めた。
廊下にモップが二本転がっていることに気が付いたからだ。
きっと倉庫から借りて返さなかった人がいるのだろう。全く、マナーがなっていない住人がいたものだ。
私は再びドアノブに手を伸ばす。
『梓が帰宅すると見知らぬ靴が。梓は急いで部屋に駆け込むが唯の隣には……』
背筋が凍った。
いや、まさか。そんなことはないとは思うものの、扉を開けるのが怖かった。
やっぱり怖いよ、憂。
でも……。
梓「逃げちゃ駄目だよ、うん」
私は意を決した。
最終更新:2010年11月12日 03:52