みんなには「これも部長の役目だから」と適当な理由を付けて、私は一人澪の家へと向かった。歩き慣れた道、見慣れた風景、この中の想い出には、いつも澪がいる。それを思い出す度に、私はほんの少しだけ勇気づけられる気がした。
澪のお母さんは、快く私の来訪を受け入れてくれた。お邪魔します、と言って、澪の部屋に向かう途中には、一体どれほど物事を考えたのか、分からない。とにかく、どんなことを話そうだとか、どうやって謝ろうとか、そんな事をこの短時間の内に考えていたような気がする。
でも、そんなに沢山考えたって、いざ澪の部屋に入ってみれば、全て頭の中から吹き飛んでしまった。
律「澪……」
澪「……」
律「き、今日はさ、私一人なんだ、はは、嬉しいだろー?w」
澪「……」
律「……はは、は」
澪は何も答えずに、ただ布団の中でじっとしているだけだった。同じ過ちを繰り返すのか、と心の中に強く繰り返し、私はゆっくりと澪の傍に近寄った。前にみんなと来た時よりも部屋の中は散らかっていて、所々に破り捨てられている紙には、書き途中の歌詞らしきものが、乱雑な字で書かれていた。
ベッドを背もたれにして腰掛けると、微かに澪の匂いがした。寝息は聞こえない。意識して息をひそめているような息遣いが聞こえる。私は薄暗い室内の天井を見上げて、一人話し始めた。
律「この間は、悪かったよ」
澪「……」
律「突然、しかも澪から告白されて、驚いちゃって、それでつい、冗談にしようとしちゃって……」
澪「……」
律「澪が真剣で、本気だったことは知ってる。澪、分かりやすいもんな」
澪「……だ」
律「え?」
澪「分かってて、あんなこと言うなんて、……最低だ」
律「……うん、悪かった。本当にごめん」
澪「じゃあ、答えてくれるのか……?」
律「それを言おうと思って、一人でここまで来たんだよ」
澪「……」
澪が息を呑む音が聞こえたような気がした。私も緊張やら何やらで、喉が異常に乾いていた。ライブの時も、こんなに緊張したりしなかったのに、今は未だかつて経験したこともないような緊張で、押し潰されそうだった。
澪「……やっぱり、いいよ」
律「え?」
澪「無理して答えなくても、良いんだ。私が我がままだったんだから」
律「いーや、ダメだ」
澪「いいって、やっぱり女の子同士でおかしいし、律も答えにくいだろ」
律「いーやダメだったらダメだ!」
澪「律……」
律「こういうのは白黒すっきりさせなくちゃいけないんだよ。澪もそっちの方が良いだろ?」
澪「それはまあ、そうだけど……」
暫しの沈黙。私からも澪からも、話そうという気配が感じられず、私が言わなければならない、そう思った。
時計の針の音だけがやかましく聞こえて、どれぐらい時間が経ったのかさえ、私にはもう分からない。ただ、緊迫した時間が、薄暗い部屋の中で、ゆっくりと、本当にゆっくりと進んでいるような気がした。
律「私は……」
澪「うん……」
律「実は、」
澪「……」
律「あんまり分からん!」
カチコチ。時計の音が無音の空間に響く。その内、どちらからともなく、私達は笑った。
澪「分からんって、白黒付けれてないだろw」
律「いや、色々と考えたんだけどさ、やっぱり分かんなくて、ということで付き合おうぜ、澪!」
カチコチ。また時計の音だけが響く。
澪「はい?」
律「だから、あんまり分からないから、とりあえず付きあってみようぜ、っていう」
澪「ちょ、ちょっと待って。展開に付いて行けないから」
律「何だよー、順応力ない奴だなー」
澪「お前があっさりすぎるんだ!」
律「……ぷっ、あっはははは!」
澪「……ったく……」
律「なんかさ、久し振りだよな、こういうやりとりも」
澪「それは……まあ、私が悪かったよ」
律「ちゃんと学校にも部活にも来いよな。梓も唯も、心配しすぎて練習にならないんだから」
澪「……うん、ごめん」
律「それで、返事は?」
澪「えっ?」
律「さっきの」
澪「……そ、それは……その、あ、当たり前というか……」
律「あー? よく聞こえないぞー、澪ちゃーん」
澪「つ、付き合うよ! 律と、付き合いたい!」
律「ふっふっふw」
澪「あ……」
律「やっぱ澪は可愛いなーw」
澪「ばっ、バカ律っ! もう帰れ!」
律「ほほーう、本当に帰っていいのかなー?」
澪「あっ……」
律「ん?」
澪「や、やっぱり……」
律「んんー?w」
澪「やっぱり帰れー!」
律「あははwごめんごめんwちょっとからかいたくなったんだよ」
澪「もう、相変わらずだな……」
律「んじゃ、晴れて私達は恋人って訳だ。女同士だけどなw」
澪「……うん」
律「なんだよー、もっと嬉しがれよー」
澪「その、私は嬉しいけど、律は……」
律「私が何だよ」
澪「律は本当にこれでいいのかな、って」
律「……正直、まだよく分かってないけど、それを確かめるためにも、やっぱり付き合ってみないとさ」
澪「そういうものかな」
律「そういうものだって」
律「……それじゃ、そろそろお暇するかな」
澪「もう帰っちゃうのか?」
律「ん、明日も学校だし、もうこんな時間だし」
澪「そっか、……そうだな。私も、明日はちゃんと行くから」
律「うん、それじゃな」
澪「あっ! ……っと玄関まで送るよ」
律「別にいいのにw」
澪「いいから!ほら、早く行くぞ!」
律「んじゃ、また明日なー」
澪「うん……」
律「……」
澪「……」
律「澪、ちょっとこっち来て」
澪「え? ……うん」
律「お休みなさいのー」
澪「え?」
律「ちゅー……んっ……」
澪「ええっ!? ……んむっ……」
律「へへへーw それじゃな! 寂しくなったらいつでも電話しろよーw」
澪「あっ、こらっ! バカ律! ……全く」
澪の家を走って出て行って、私は近くの公園に入るとベンチに座った。もうすっかり夜も更けて、公園の中にも、公園の外にも人影は見えない。ただ凍て付く空気が、火照った私の顔を、急激に冷まして行く。
――澪と唇を合わせた時、なんとも言えない感覚に陥った。陶酔とも、愛情とも、まして喜びとも言えない、何だか複雑な気持ちで、恥ずかしいのもあったけれど、私のその感覚に恐れを成してあの場から逃げたのかも知れない。
澪の恋人のなる。それも、同性である私が。
私の決断は本当に正しかったのか、それは分からない。ただ、どうすればいいのか分からなかったのは本当で、ああするしかないと思ったのも本当で、私は自分の気持ちに素直に従った。もしかしたら、やっぱり澪を恋愛対象と見れずに、余計辛い思いをさせてしまうかも知れないし、私が澪の事を本当に好きになるかも知れない可能性もあるけれど、それでも今の私にとっては、後者の可能性は限りなく低いように思えた。
自分には来ないだろうとばかり思っていたような展開が、今現実に私の前にある。それに対して何も準備をしていない私は、きっとまた澪を傷付ける。そんなことばかり考える自分が何だか堪らなく嫌なやつに思えて、私は頬を両手で叩くと、冬の夜空の下を走りながら家へと帰った。
この冷たい風が、私をとてつもなく冷静にしてくれたらいいのに。
そんなことを考えながら。
律「ただいまー」
聡「お帰りー」
律「はあー寒かった」
聡「今日は遅かったじゃん。彼氏でも出来たのかよー?w」
律「ばーか、お前こそ彼女の一人でも早く作ってこい」
聡「うるせー」
律「……」
律「なあ、もしもさ、聡が男に告白されたらどうする?」
聡「うえっ!? 気持ち悪いこと言うなよ! そんなの有り得ないだろ!」
律「だから、もしもって言ってるじゃん」
聡「あんまり考えたくない……」
律「ふーん、そっか。まあそうだよな」
聡「何だよいきなり……澪さんに惚れたの?w」
律「ばーか」
軽くあしらってみたものの、聡の当然といえば当然の反応は、少なからず私を不安にさせた。 同性での恋愛なんて、遠い世界のことだと思っていたし、聡だって私と同じだと思う。でも、私はいきなりその世界に入ってしまって、どうすればいいのかも分からずに悩んでいる。澪の前では普通に接することはできた。だけど、これから先、私は今まで通りの接し方をできるのだろうか、と考えると、そんなことは絶対にできないと思う。
それぐらい、友人と、恋人という関係は懸け離れているものだ。
だからこそ、私も不安になるのだと思う。澪は……澪は、どう思っているのだろう。不意に、嬉しそうに、恥ずかしそうに微笑む澪の姿が脳裏に浮かんだ。
翌日――
律「みんなー! 澪を連れ戻したぞー!」
澪「そんな大袈裟な……」
唯「!澪ちゃーん! 寂しかったよー!」
梓「澪先輩……! 心配したんですよっ!」
紬「りっちゃん……澪ちゃん……良かった……」
澪「うわっ! 唯……梓まで……。その、悪かったよ、心配かけて……」
久し振りに部活に顔を見せた澪を、唯と梓は泣きながら、ムギは微笑みながら出迎えた。
そんな光景を見ると、私の悩みなんて何処かに吹っ飛んで行くんじゃないかと思えて、少しだけ気が楽になる。だけど、澪がこっちを向いて、困ったような、嬉しいそうな笑みを浮かべると、私は本当に笑い返せているのか、分からなくなった。
澪「これからは卒業ライブに向けて頑張るから、……ごめんね」
唯「うええ、澪ちゃんが戻ってきてくれて、ほんとに良かったよー……」
梓「ほんとに居なくなっちゃうのかと……私本気で思ってました……」
律「澪は罪作りな女だなーw」
澪「う、うるさいっ!」
そして、何時も通りの日常が、再び始まった。
練習前にはムギが持ってきてくれたお菓子を摘まんで、ムギが淹れてくれたお茶を飲んで、その間だけは以前のような感覚で澪と接することができた。時折は殴られることはあったけど、それは殴るというよりも撫でるという感覚に近くて、少し擽ったい感じがした。そんな誰も気付かないようなところで、私と澪の関係は、着実に変化の兆しを見せ始めていた。
律「よし、今日はこれにて解散! お疲れ!」
唯「えー、もう終わりー? なんか短いような気がするよー」
梓「やっぱり澪先輩がいると、練習もはかどりますね!」
紬「もうちょっと練習したかったな……」
律「まあまあ、落ち着け皆の衆。疲れを溜めずにまた明日頑張るためにも、今日は解散だ」
唯「り、りっちゃんがまともなことを言ってる……!」
律「おーいお前の中の私は一体なんなんだー」
終始微笑ましい雰囲気だった私達は、そうしてそれぞれ家路についた。その中で、私と澪だけはいつもと同じように、同じ帰路を辿る。以前よりはお互いに寄り添って、以前よりも初々しく、以前よりも緊張しながら、手と手が触れ合うたびに顔を赤くして。そんないかにも恋人染みたやりとりが、――何故だか心から喜べるものではなかった。
澪「り、律っ」
何度か手が触れ合った頃、澪が例の如く顔を真っ赤に染め上げて、私を呼んだ。
でも、澪の言いたいことなんて、私には言わずとも分かっていて、私は自ら手を差し出した。
澪「え……」
律「繋ぎたいんだろー、ほら早くしないと冷えちゃうぞ」
澪「う、うん」
律「ほら、こうすればあったかい」
言いながら、私は澪と絡めた手を、コートのポケットの中に入れた。二人分の温もりが一気に身体を暖めていくようなその感覚は、どこか心地よく、どこかぎこちない。初めての恋人なら誰にでもある感覚だ。私は自分にそう言い聞かせながら、照れて真赤になった澪の横顔を見つめながら歩いた。
恥ずかしがって俯く澪の顔は、やっぱり整っていて綺麗だった。以前はそんなことに意識なんて向けなかったのに、今は何故か無性に気になる。桜色の唇も、紅の差す頬も、喜色を隠しきれない目も、全て今までの澪とは違って見えた。
だからこそ、私はそんな澪に対して、後ろめたい気持ちを感じずには居られなかった。
澪「律、私、今までこんなに幸せだったことなかった気がする」
律「そっか。まあ、この私が相手なんだから当然だ」
澪「また調子に乗って……」
律「あははw」
澪「それじゃ、また明日」
律「うん、帰ったらメールする」
澪「分かった。……ありがとう」
そんなやりとりをして、私達は別れた。家に着くと部活の疲れやら何やらが一気に襲いかかってきて、お風呂に入ると、夕飯も食べずに寝てしまった。その疲れが何なのか、それは言葉にしたくはない。だけど、その疲れが全て部活の所為にするのは確かに違っていて、それでも私は無理矢理それを考えないようにして寝てしまった。
澪には一言だけ「おやすみ」というメールを送った。明日はちゃんと送らないといけないな、なんて考えていると、そのうち私は深い眠りに落ちていた。
寝てしまった。
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時間が丁度よくなった頃を見計らって、誰もいない部屋に向かって「行ってきます」と言うと、私は大学へと出発した。
まだまだ寒い時期なので、結構な厚着をして歩いていると、制服に身を包んだ中高生と擦れ違うことが沢山あった。
以前の私達も、あんな風に学校に通っていたのだろう。高校生と大学生とでは、見る視点が大分変わっていることに気付いて、老けたかな、なんてことを考えると、自然に自嘲的な笑みが漏れた。
時折ギターかベースらしきものを背負って、忙しそうに駆けて行く女子高生を見ると、私は思わず昔を思い出してしまって、不覚にも泣きそうになった。あの頃は毎日輝いていたような気がする。良い友人に囲まれて、好きなことに打ち込んで、将来に対して不安なんかなかった。ずっとこのままの時が続いて行くんだろうな、なんてことを考えていた。
だけど現実は厳しくて、私達は離れ離れになってしまって、私は対して行きたくもなかった大学に入学しようとしている。
以前志望していた短大は受けるのをやめた。代りに受けたのが、今の大学で、実家とは結構距離が離れている場所にある所だった。
どうしてここを受けたのか、と聞かれたら、私は誰に対しても何となくと答えると思う。でも、自分にだけ正直に話すのなら、私は逃げたかったから、と答える。それが、正直な私の気持ちだった。
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今年のクリスマスが、私にとって、私達にとって特別な日になるなんてことは、当初予想もしなかったことだった。
女子高で恋人ができるなんて思っていなかったし、ましてや澪の恋人になるなんてことは、今までの人生で一度も考えたことがなかった。
だから、今年のクリスマスが近付くにつれて、私は何だか言葉にしがたい心境に陥っていた。澪の浮かれた表情を見るたびに、それは段々と色濃くなって、そうして自己嫌悪する毎日だった。
クリスマスにパーティーをしよう! と言いだしたのは唯で、今年は予定あるから、と断ったのは澪だった。
事前に打ち合わせがあった訳でもなければ、約束があった訳でもなかったけれど、私もそう言わなければならないと思って、誘いを断った。結局唯達はムギや梓、和を招いてパーティをするらしい。
私と澪は、勿論二人でクリスマスを過ごすことになった。
特別な日。それはきっと恋人にしか分からない感覚で、恋人という初めての関係に慣れて居ない私が、やっぱり言葉にしがたい心境に陥るのは、誰もが通る道なのだと思う。初々しくて、まだあまり進展してないカップル。 私と澪は、きっとそんな関係にあった。
律「クリスマスはどこ行く?」
澪「私はどこでもいいよ」
律「そういうのが一番困るんだよなー」
澪「だ、だって、そんなに思い付かないし……」
律「あー、じゃあ適当にどっかで飯食って、ラブホにでも行くか」
澪「ラっ、ララララブホって、おま、何いって……!」
律「冗談だって冗談wほんと澪は面白いよなー」
澪「か、からかうな!」
そしてクリスマス当日、私達は駅前で待ち合わせることにして、各々家を出た。
私は唯ほどではないけど、元々時間にはルーズな方だったので、澪よりも遅く着くだろうと思っていたが、案の定そうなってしまったので、急いで家を出た。
駅前はとても賑わっていて、男女のカップルがこれ見よがしに手を繋ぎながら、いかにも幸せそうな表情で歩いている光景がよく見られる。私はそんな人達を傍目に見ながら、澪との待ち合わせ場所に向かった。時刻は夜の七時。雪は降ってなくて、空気の澄み渡った夜だった。
DQN「君一人なの? だったら俺達と楽しいことしようZE!」
DQN2「気持ちいいの間違いだろwww」
DQN3「フヒヒwww」
澪「あの、これから友達と予定あるんで……すみません」
待ち合わせ場所に着くと、澪が柄の悪い男達に絡まれているのが見えた。下品な声が少し離れたここからでも聞こえてくる。
何だか無性に腹が立って、近くの店のショーケースに自分を映して、カチューシャを外して、適当に髪の毛を弄って、男のような出で立ちで澪のところに向かう。男達はまだしつこく澪に絡んでいた。
DQN「え、なに、これってツンデレ?ww うわーツンデレだよこの子www」
DQN2「逆に誘ってんぞーwww」
DQN3「フヒヒwww」
澪「や、やめて下さい! 人呼びますよ!」
DQN「やっぱツンデレだよwwwツンデレwww ここでツンツンベッドでデレデレwwwってかwww」
DQN2「ちょwwwおまwwww」
DQN3「フヒヒwww」
遂に澪の腕を無理矢理掴み始めた男の間に、私は割り込んだ。そして事前にかけておいた「110 通話中」の文字が浮かぶ携帯のディスプレイを男の前に出して、少し声を低くして「まだやんの?」と相手を睨む。
DQN「やべ、こいつマジで警察呼びやがった!」
DQN2「おい逃げるぞ!」
DQN3「フヒヒwww」
突然の男――もしかしたら女にしか見えなかったかも――の乱入に、あからさまに焦った男達は、110の番号を見るやいなや一目散に逃げ出して行った。「全く……」なんてかっこつけてた私は、「大丈夫か?」と澪に振り返る。澪は、何だか恍惚とした表情で、まるで恋する乙女のそれにしか見えない潤んだ眸で、私を見つめていた。
律「大丈夫か、澪、おーい、澪さーん?」
澪「あ、ああ、大丈夫大丈夫」
律「ほんとに大丈夫かー?」
澪「うん、ちょっとびっくりしちゃっただけw」
律「あ、私のかっこよさに?w」
澪「まあ、うん、そうだよ……」
思いもよらぬ予想外の言葉に、私まで驚いてしまって、またいつものようにカチューシャを着けると、私は赤くなっている澪の手を引いて歩きだした。
最終更新:2010年01月07日 23:31