あの足音がする。
とんとんと。
息遣いまで伝わるようなその足音は次第に大きくなる。
その音の向こう側、耳の奥で雨の音が響く。

そしてがっちゃんとノブが半端に回る音。
扉は開かない。
澪の声が扉越しに響いた。

「っと…おーい、りつー。」
「どうしたんだ?」
「手伝って。」
「おう、ちょっと待っててくれ。」

ベッドに横たわっていた体を起こし、扉まで小走りする。
近づくと澪が扉を開けられなかった理由がすぐにわかった。
ノブを掴もうにも両手が塞がっているのか、上手く扉が開けられなかったようだ。

「どうしたんだ?」
「ほら、今日寒いだろ?」
「あぁ。雨だしな。」

私は窓の外を眺めながらうざったそうに言った。
昨日も雨、今日も雨、そんで明日の予報も雨。
いくら台風の季節だからって勘弁して欲しいぜ。

「だから、これ。」

澪が持ってきたのはホットミルクだった。
まだ湯気が立っている。
両手に持ったそれの内、片方を私に差し出しながら澪は微笑んだ。


嬉しい、有難い。純粋にそう思った。
ただ、飲みたいという気持ちよりも、そのカップに触って手を温めたいという気持ちの方がはるかに大きかった。

「サンキュ。これ私の分か?」
「あぁ。熱いから気をつけろよ。」

そう言って差し出した手をさらに伸ばし、私にカップを持たせる。
待ってましたと言わんばかりに、すかさずそのカップを手で包んだ。

「おぉ・・・あったけー。」
「ふふ、ばか。」
「いいだろ?寒かったんだから。」

目の前に居る別嬪さんは私を厭きれた表情で見つめながらしょうがないヤツだと、笑いながら言った。
私はなんとなく目のやり場に困ってしまって、居たたまれなくなったその視線をカップの中へと移す。

「そういえば、それ。取らなくていいのか?」
「それって・・・?あぁ、取るよ、取りますよとも。」

澪が私に尋ねてきたそれとは、膜のこと。
私はこの膜が苦手だ。
大人っぽい言い方をすると好きじゃない。
正直に言うと大っ嫌いだ。


口の中が粘つく感覚や、舌の上で徐々にばらけていく様がどうしょうもなく駄目なんだ。
私に説明書というものがあるなら、目次よりも先に1ページ全部使って誰が見てもわかるように注意書きされているだろうな。
うん、きっとそうだ。

そんなくだらないことを考えながら、破けないように器用に膜を摘んで持ち上げた。
隣では表情一つ崩さず、幼馴染がティッシュを広げて受け入れ態勢を万全に整えてくれている。

-さっすが、私の行動読んでる

なんて考えるとこんな些細なことが妙に嬉しく感じられてしまうから困る。

「・・・へへ。」
「りつ?どうした?」

思わず言葉まで零れてしまうんだから、本当に困る。
なんでもねぇよなんて目を逸らしながら言っても、気恥ずかしさが残るだけ。

なんで笑ったのか教えろ、と澪。
なんでもねぇよ、と繰り返す私。
しばらくそんなやりとりが続いた。

「あ、そうだ。」

ふと、澪が思い出したように言葉を発した。
その声に反応して顔を上げる。
どうした?そう言うように。


「私、ココア持ってくるよ。」
「ココアって、粉か?」
「あぁ。律も飲むだろ?」
「私は…。」

普段なら絶対飲むって言ったんだろうけど、何故か言い淀んでしまった。
そして結局、声を発して出てきたのは天邪鬼な答えだった。

「いや、私はこのままでいいや。」
「そうか?それじゃスプーンは1つで良さそうだな。」

そう言って立ち上がると部屋から出て行く。
意味もなく律儀に後姿に『行ってらっしゃい』と手を振ってみたけど、やっぱり気づいてもらえなかった。

ほんのちょびっとの寂しさを胸に、いまだに熱を持っているカップに少し口をつける。
液体の熱気が私の唇を少しだけ湿らせた。

中身が零れないようにゆっくりと息を吐くと表面が波打った。
澪の足音はこうしている間にも遠のいていく。

なんでこのまま飲むって言ったのか。
それは多分、きっと、澪が入れてくれた状態を壊したくなかったからもしれないと今になって気付く。
これでココアなんて入れてみろ、最初にホットミルクを持ってきた澪を否定することになるじゃないか。

なーんて、ばっかみて。
こんなめんどくさいことを考えて生きてると思うと嫌になる。
さっきの返答はただの気まぐれだと信じたい。
っていうかそうであってくれ。

最近はこうやって『二人でいる時間のほんの少しの一人きりの時間』に考えることがある。
なんでだろうな。
部屋で一人でいるときよりも、澪に待たされているときの方が捗るんだ。

「・・・。」

なんてことはない、ただの妄想。
精神的な自慰と言われても私はきっと否定できない、そんな下世話なことに思考を巡らせている。
考えちゃいけないだなんて悩む時期も、誰かに相談した方がいいのかもしれないと俯く時期もとっくに過ぎた。
このよくわからない気持ちとは長い間連れ添っていなきゃいけないんだろうという確信めいた目下の結論だけが掌に残っている。
最終的にどうしたらいいか、その答えは私にもわからない。

解決したいとも思わないし、澪を私の好きにしたいとも思わない。
澪に会う度にどうしても脳裏を過ぎってしまう、ただそれだけ。

それを実行したいと私は思わないし、理性を働かせてその欲求を押し殺そうともしない。
じわじわと湧き上がってくるそれを感じて、受け入れて、頭の中で事を済ませて満足する。
だから私と澪はいつまでも友達のまま。
誰も不幸にならない、楽で簡単な解決法。

「あっつ・・・、いい加減冷めろよなぁ。」

これは、もしかしたら火傷したかもな・・・。
不意に口寂しくなって、ペロっと舌を出してカップの淵から牛乳を舐めた結果だ。
口寂しい、というよりも動揺を隠そうとしたのかもしれない。
ここには誰もいないのにな。

「っていうか…。」

また膜は張ってる。
こいつは油断するとまた出来上がるんだよな。

「……。」

この膜が、私と澪を隔てる何かと重なってしょうがない。
ま、こんな簡単に摘んで捨てられるようなものだとしたら寧ろありがたいんだけどな。
…澪は私のこと、どう思ってるんだろ。

「……。」

どう、って…。
そりゃ、ただの親友だよな。
何考えてるんだ、私。

「は、ははは…。」

上手く笑えない、かっこ悪いな私。
割り切ったはずの想い。そう考えて甘く見ていたか。

澪には見えているんだろうか、私達の間に張られた薄い膜が。
それは好意的に捕らえると両想いの私達の最後の障害。
まぁ、両想いなんて夢物語は有り得ないんだけどな。
それに、そうだったとしてもそれを確かめる術を私は持たない。

自虐的に考えると、私の理性の糸。
いや、その糸をプッツンさせない自信はあるけどな。
そんなことしてしまガチャ。

…え?ガチャ?

「ごめんごめん、遅くなったな。棚の奥に入っててさ。」
「みお!?ごっふっ!」
「律!?大丈夫か!?」

突然の澪の声と扉の音に驚いた私はカップの中身を多分に口に含んでしまった。
もちろん、膜も一緒に。
考え事してる途中でいきなり部屋に入ってくるなよ…。

「うげぇ…膜、口の中、うっわぁ…。」

日本語と呼ぶには少々拙いカタコトを発した。
気持ち悪い、胃がムカムカする。
喉に張り付いたそれは私の口の中を完全に支配した。
心配そうに声をかけながら澪は私の背中をさするけど、安心させられるようなことが何一つできない。

こうして気安く触れてくる手だって、私の気持ちを知ったら二度と出なくなるだろうに。
覗き込んで近づけてくる顔だって、優しく気遣うその目だって、なんだって…。

「ちっきしょー…、膜め…。」
「あぁ、結局飲み込んじゃったのか?」
「そっちじゃ…ない。」

私はムスッとした調子のまま宣った。
何のことだ?澪はそう言うように首を傾げた。
どうせ言ってもわかんないんだろうな、そう思うと口にしても問題ないような気がしてきた。

-言ってやろうか。

どうせ報われないんだ、この程度の戯れは許してくれよ。

「何って、私達の間の…ぅおええぇ…。」
「りつ!?」
「くっそ…。」


『膜』はとことん私の邪魔をするらしい。

-もうしばらくホットミルクは飲まない。

八つ当たりするようにそんなことを心に誓った。





おわり



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最終更新:2010年11月14日 03:35