チーン

私は電子レンジからミルクの入ったカップを取り出した。
コーヒーも出来たようだ。もう一つのカップに注ぐ。ミルクと砂糖は入れない。
二つのカップを盆に載せ、彼女の眠る部屋へと向かう。

コトッ  ガチャッ

盆を床に置いて扉を開くと、ベッドの上のふくらみはまだ規則正しい呼吸を続けていた。

「唯先輩、朝ですよ。起きてください」

「う、う~ん……おはよ、あずにゃん」

「おはようございます。唯先輩」

「ん?なんだ。まだ6時じゃん。お休みなんだからもう少し寝かせてよ」

「今日は二人で遠出しようって約束したじゃないですか。早く準備しましょうよ。
寝るなら電車の中で寝てください」

「え~わかってないねぇ、あずにゃん。旅というのは目的地に辿り着くまでにこそ楽しみがあるんだよ。
 途中で寝るなんてもってのほかだよ」

「そうですか。でも唯先輩は放っておいたらまた夢の世界に旅立ちそうですからここで起こさないとダメです。はい、これ飲んで目を覚ましてください」

「ん、ありがとね」

唯先輩はホットミルク。私はブラックコーヒー。
フーフーして熱を冷まし、一杯目をすする。

「あったかいねぇ」

「そうですね」

「でも昨晩のあずにゃんの方があったかかったよ」

「は、恥ずかしいこと言わないでください!」

私と唯先輩が普通の先輩後輩じゃなくなってから2ヶ月。
私と唯先輩が身体を重ねるようになってから1ヶ月。

私はシーツの隙間からのぞく唯先輩の白い肌を見つめた。


2ヶ月前。10月。


帰り道。
澪先輩、律先輩、ムギ先輩と別れ、唯先輩と二人きりで歩いている時だった。

唯「お、あずにゃん。たい焼き屋だよ!」

梓「ほんとですね」

唯「あれ?なんでそんなに冷めてるの?いつもなら飛び跳ねて喜ぶのに」

梓「そんな反応したことありません。今財布がピンチで、たい焼き一つ買うのだって惜しんでいるんですよ」

本当は凄く食べたい。
あのお店は雑誌やテレビでも取り上げられている幻のたい焼き屋。
この町に来るのは二月に一回といったところか。私もこの目で見るのは初めてだ。

唯「そっかぁ。じゃあ私がおごってあげるよ!」

梓「え、悪いですよ」

唯「まあまあ、ここは先輩を立てたまえよ、あずにゃん君」

そう言うなり唯先輩は屋台へとダッシュした。相変わらず勝手な人だ。

唯「うぅ、何でたい焼き一個で200円もするのぉ?高すぎだよぉ」

梓「まぁそれくらいの価値があるんでしょう。じゃあいただきましょうか」

私達は川原に並んで腰掛けていた。あの演芸大会の練習をした川原だ。
あの後も何度か二人で来ることがあった。

唯「ああ。やっぱりあずにゃん食べたかったんだね~。よだれ垂らしちゃって」

梓「垂らしてません!もう。いただきます!」

ん。あれ? 普通のたい焼きと大して変わらない。

唯「なんていうか」

梓「あんまりおいしくないですね」

唯「ぼったくりだよ!」

梓「ですね」

唯先輩が珍しく腹を立てている。

唯「はぁ……。まぁいいよ。こうしてあずにゃんといられる時間が増えたんだし」

梓「……そんなこと言ったって何も出ませんよ」

この人の言葉は掴みどころがない。本気なのか、冗談なのか、ただの天然なのか。

唯「ツれないなぁ。ほら、私の白あんをあげよう」

梓「はぁ。じゃあ私の粒あんをどうぞ」

私達は半分ほど食べたところでお互いのたい焼きを交換した。
うん。やっぱり……。

唯「白あんなんて邪道だ!」

……この人に心を読まれるなんて、なんたる屈辱。
私は黙ってそっぽを向いた。

唯「あずにゃ~ん。図星だった?」

粒あんを食べ終えた唯先輩が後ろから抱きついてきた。

梓「私の心はそんなに狭くありません。白あんも粒あんも大好きです」

唯「私のことは?」

梓「だいすk……って何言わせるんですか」

唯「私はあずにゃんのこと大好きだよ~」

唯先輩は私の肩に顎を乗っけてより密着度を高める。左腕なんか私の胸に思いっきり触れている。人がいないからってくっつきすぎですよ。
まぁ人がいないし、離れさせる必要もないか。

唯「……やっぱりドキドキしてないね」

梓「えっ?」

唯先輩は突然低い声を出した。

唯「ねぇあずにゃん。私の胸、触ってみて」

梓「へっ?」

唯先輩は私の右手を掴むと自らの左胸にそれを押し当てた。

梓「ちょっ、唯先輩!?」

突然の不可解な行動に私は混乱した。
が、すぐにあることに気付いた。ブレザー越しの背中では気付かなかったけど。

唯先輩、どうしてこんなにドキドキしてるの?

唯「最近さー」

唯先輩は間延びした口ぶりで語り始めた。

唯「あずにゃんを見たり、あずにゃんに抱きついたり、あずにゃんのことを考えたりするとさ。身体が熱くなるんだよね。血が全身を駆け巡っているような感覚になるんだー」

いつも抱きしめられているのに気が付かなかった。

唯「よーく考えたよ。一人でね。憂とか和ちゃんとかりっちゃん達に相談したらいけない気がしたんだー」

きっといけないですね。だってその感情はきっと……。

唯「結論は出たよ」

……。

唯「でも諦めたよ」

どうしてですか。

唯「だってさ」

なんですか。

唯「私の片思いなんだもん」

梓「違います」

唯「えっ……」


梓「私がドキドキしないのは唯先輩との距離が近くなりすぎたせいです。一緒にいるのが当たり前になったからです」


梓「初めて演奏を聞いた時は憧れました。この人と同じバンドでギターを弾きたいと思いました。けど、そんなイメージはすぐに崩壊しました。
こんなにだらしない人だとは思いませんでした」


梓「でも、毎日抱きつかれたら、毎日手を焼いていたら、何度も手を引かれたら、何度も助けられたら」


梓「頭も身体も、あなたから離れられなくなりました」


私は唯先輩に抱きついた。
私から抱きつくのは初めてだ。

唯「あずにゃん……」

梓「唯先輩……」

私は唯先輩の顔を見つめた。
唯先輩の瞳には私しか映っていない。まるで私が唯先輩に捕らえられたみたいだ。
縮まる距離。……誰も、見てないよね。



翌日。


憂「おはよう、梓ちゃん」

梓「あぁ、おはよう。憂」

憂「? なんだか眠そうだね。大丈夫?」

梓「大丈夫だよ。昨晩はちょっと眠れなくて」

川原での興奮が夜になっても冷めなかったんだ。でもさすがに正直に言うわけにはいかない。
憂の様子からして、唯先輩は私達の関係をまだ憂には知らせていないようだ。

私と唯先輩の関係は変わってしまった。これからどうするかは二人でよく話し合おう。
しばらくの間は二人だけの秘密。ふふ。なんだかいい響きだな。「二人だけの」って。

純「なにニヤニヤしてんだが」

梓「なっ!?じゅ、純。いつの間に?」

純「おはようって言ったじゃん。なのに梓ちゃんときたら朝っぱらから一人でニヤけてて。
  何?もしかして彼氏でもできたとか?」

憂「そうなの?梓ちゃん」

梓「違うよ!そんなんじゃない!」

純「じゃあ何よ?クマなんか作っちゃって。ゆうべはお楽しみだったんじゃない?」

梓「昨日は……そう、遅くまで映画見てんだよ!」

純「エロ……」

梓「……先行くね」

思春期の少女は無視するのが一番だ。

純「あ、待ってよ梓」

憂「もう、純ちゃんったら」

憂もそんなにニコニコしてないで助け船出してよ。別にやましいことはしてないからね。

……やましくはないですよね。唯先輩。



教室。


私は結局二人を置いて一人で登校した。

梓「おはよー」

教室の出入り口付近にいたグループに挨拶したが返事がなかった。何やらひそひそ話をしているようだ。

梓「……おはよー」

クラスメートA「え!あ!な、中野さん!おはよう!」

クラスメートB「お、おはよう梓ちゃん。今日は憂ちゃん達と一緒じゃないんだ」

梓「まぁね」

クラスメートC「へー……。もしかして今日は先輩と一緒に登校とか?」

Cさんがそう言うとAさんとBさんが焦りの色を浮かべてCさんを見た。

梓「? ううん。途中までは憂と純と一緒だったよ」

C「そっかー。ところで梓ちゃんって軽音部の先輩とすごく仲がいいって聞いたよ。羨ましいなぁ」

梓「そ、そうかな。私も先輩達のことは好きだよ」

AさんとBさんはCさんに向けていた視線を私の方に向け直した。
何だろう。驚いているような、戸惑っているような、そんな目だ。

純「あずさー。本当に置いてくなんてひどいじゃない」

憂「みんなおはよう」

純と憂が来て、間もなくホームルームの時間になったのでAさん達との会話は打ち切られた。

この時私は大して気にしてはいなかったんだ。ただの世間話だと思っていた。
いや、いくら気にしたところで結果は変わらなかっただろうな。
人の口に戸は立てられない。



放課後。


唯「あーずにゃんっ!!」

梓「にゃっ!」

部室に入るといつも通りの手荒い歓迎。

唯「えへへぇ。会いたかったよぉ」

梓「もう、大袈裟ですよ。いつも会ってるじゃないですか。離れてください」

しかし、私達は昨日までの私達じゃない。私はいつもよりほんの少し抵抗の力を弱めた。

律「あはは、お前ら相変わらず仲いいなぁ」

紬「梓ちゃん、今日はケーキよ~」

澪「ほら、唯。そんなにくっついてたら梓がケーキ食べられないぞ」

律先輩達はいつも通りだ。唯先輩は昨日のことを話してはいないし、みんな気付いていないみたいだ。

律「でさぁ、その時澪が……」

澪「わ、わあぁ!やめろ!言うな律!」

紬「まぁまぁまぁ。気になるわぁ」

唯「ケーキ美味しいなぁ」

梓「そろそろ練習しましょうよ……」

本当にいつも通りだった。
……やっぱり言わない方がいいのかな?もし私達のことを言ったらこの楽しい時間が壊れてしまいそうで怖い。唯先輩もきっとそうだ。

唯先輩と目が合う。唯先輩はフォークを口に含みつつ首を横に振った。
……今は二人だけの秘密、ですよね。



一週間後。6限目。


眠い。どうしても我慢できず私は机に突っ伏していた。昨日の夜、唯先輩と遅くまでメールしてたせいかな。

ご高翌齢の古典の先生の呟きと板書の音だけが教室に響いていた。
私以外にも眠そうな生徒がちらほら。中には手紙を回す人もいる。
あ、純には手紙渡さないんだ?はは、純嫌われてるなぁ。
……違うよね。
わかっているんだ。そりゃ一週間もすればどんなに鈍感でも気付く。

ばれたんだ。私と唯先輩のことが。

どうやらあの日、あの川原付近に桜高の生徒がいたらしい。周りに人がいないことをちゃんと確認しておけばよかった。
翌日のあのクラスメートの妙な態度もそういうことだったんだ。そして噂はどんどん広まっていった。
噂が私の耳に直接入ってきたわけではないが、みんなの私に対する接し方を見ればわかることだ。
今だって私と純と憂を避けて手紙のやり取りが行われている。きっと私のことだろうね。

気がかりなのは唯先輩だ。

唯先輩もきっと私と同じような目に合っているんだろうけど、私にそのことを話そうとはしない。私も噂に関する話を唯先輩にしていない。お互い何気ない素振りで接している。
でも、そろそろ限界じゃないかな。

潔くカミングアウトするか、隠し通すか、それとも別の選択肢をとるか。
いずれの道を選ぶにしても、唯先輩と二人で決めなければならない。
いつまでも逃げ続けるわけにはいかない。


……けど、もうすこしだけ、恋人として、二人だけの静かなひと時を過ごしたかったな。

純「梓。ちょっといいかな?」

放課後、部活に行こうとした私を純が呼び止めた。隣には憂がいる。
二人ともいつになく深刻そうな表情をしている。

梓「何?」

純「時間は取らせないからさ、ちょっと来てくれない?」

梓「……いいよ」


二人に連れられた場所は今は使われていない空き教室だった。カーテンが閉まっていて薄暗い。掃除が行き届いていないせいか埃っぽい。

純「けほっ。別の場所の方がよかったかな?まぁいいや、すぐに終わらせれば済むことだし」

憂「うん。早速だけど、梓ちゃん」

この薄暗さの中でもわかるほど、憂の瞳にはまっすぐな光が宿っていた。

憂「梓ちゃん。私達に隠してることがあるんじゃないかな」

やっぱり憂達の耳にも私達の噂は入っていたようだ。

梓「ないよ。何にも」

憂「梓ちゃん」

憂は両手で私の左手を掴んで胸の前に持ってきた。憂の手は震えていた。必死の懇願であることが十分に伝わってくる。

憂「梓ちゃん、お願い。梓ちゃんだって誰にも相談できないのはつらいでしょ。私達でよければ力になるから」

憂の目には涙が溜まっていた。それでも私は……。

梓「何を聞いたのかは知らないけど、根も葉もない噂を信じちゃダメだよ。じゃあ私部活があるから」

私は憂の手から逃れて教室から出て行こうとした。

憂「梓ちゃんだけの問題じゃないでしょ!」

私は扉に手を掛けたところで思わず静止して振り返った。

憂「梓ちゃんの問題は私達の問題だよ。それにお姉ちゃんのことだって……」

……唯先輩。

梓「憂達にはわからないよ」

純「ああ、わかんないよ」

今まで沈黙を守ってきた純が突然口を開いた。

純「今まで同性のことを好きになった人なんて見たことないから、どう接していいか、どうアドバイスしたらいいかなんてわからないよ」

ストレートな物言いだった。やっぱりもう大体のことがばれちゃってたんだ。

純「でも、世間一般の考え方なんていいんだよ、どうでも」

純が私の方に歩み寄ってきた。

純「梓は唯先輩のことが好きなんでしょ」

純は先程の憂と同じように、今度は私の右手を掴んだ。

純「そして唯先輩も梓のこと大好き。それでいいじゃん」

気付いたら憂も再び左手を握っていた。

憂「お姉ちゃんなら、絶対梓ちゃんのこと大事にしてくれるよ。私達だっているからね」

純「澪先輩達だってきっと応援してくれるよ。梓と唯先輩のこと」

二人は優しく微笑んだ。

梓「憂……純……」

あぁ。もうなんて言えばいいんだろう。

梓「あり……が…とう」

私は何とか声を絞り出せた。


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最終更新:2010年11月14日 03:47