「おじゃましまーす…」
玄関に入ると少しは寒さが和らいだ。
まだよく動かない手を擦り合わせてその場で待っていると、やっとぱたぱたとスリッパの音が聞こえてくる。
「梓ちゃん入ってー」
私のところまでやって来た憂はお決まりの手を広げるポーズをやってみせ、一緒に笑顔を作る。
ふと憂が気づいたように口を開けた。
「あ、寒いよね?」
「うん」
すると憂はふふーと言って私の手を取った。
合わせた手を、さらに上から憂が包んでくれる。
僅かに湿気が感じられる手は冷えきった私の体まで解かしてゆく。
「じゃあ部屋行っててね」
「わかったー」
離れる手に名残惜しさを感じている内に憂はキッチンへと向かっていった。
ぽつんと取り残されて胸には少し虚しい気分が残る。
この場にいても寒いだけなので私は掌をコートのポケットに突っ込んで階段を昇った。
「ふぅ…」
憂の部屋に入ると相変わらず綺麗に掃除されていて、質素と言っても良いくらい。
鞄を壁際に置きその上に脱いだコートを被せていると、以前は無かった写真立てが目に入った。
机の上のそれを取り、私は炬燵へ足を入れた。
暖房が鳴らす音だけがする部屋で、片方だけ出した手でそれを持ち眺めていると、またドアが開いた。
開いた扉から一瞬舞い込んだ廊下の冷たい空気が頬を撫でる。
「ふー、最近一気に寒くなったねー」
さっきより鼻をほんのり赤くして憂が私の隣に座る。
キッチンは暖房を効かせていないらしい。
「はい、これ飲んで」
そう言って出されたのはホットミルク。
ゆらゆらと湯気を立ち込めるカップに視線を下ろし、そして憂を見た。
「牛乳?」
「うん」
どうして、と聞く前に憂はまた人懐っこい笑みを浮かべた。
「なんだか梓ちゃんが猫みたいだったから」
言われて私は少しばかり機嫌を悪くした。
彼女、いやこの姉妹は何かと私を猫扱いする。
姉のほうはまだ純粋に言ってるから良いものの、とは言ってもこちらが言ったところで意味が無いのだが、
彼女はからかいの意味も込めてくる。
何より彼女に遊ばれるのは気に障る。
わざとらしく目線を逸らしたけれどどうせ彼女は気にしない。
「飲まないの?」
それどころか憂は全く気付いていないようだ。
怒る気も失せた私は、微かに残る靄のような憂さを流し込むようにカップに口付けた。
「あつっ」
しまった。
気付いた時にはもう遅い。
ゆっくり振り向くと憂は今日一番の笑顔を浮かべていた。
「やっぱり猫舌だね~」
しみじみと憂が言う傍ら、私は腹を立てそっぽを向いて寝転がった。
「?」
見ていなくても憂が疑問符を浮かべているのが目に浮かぶ。
私の知っている以前の憂は人の心情の機微に聡いはずだったのに今となっては何処へやら。
とはいえそうなるのも私の前だけなので私は喜んで良いものか複雑な心境だ。
「おーい」
未だ不思議そうな調子で小さい声を上げる憂が少し可哀想になって、謝れば許してあげようと起き上がろうとすると
カタッ、と炬燵の布団から零れ落ちた。
「あ」
「ん?」
ほとんど同時に上げた声に何故か感動していると憂は止める間もなくそれを取ってしまった。
憂が部屋に入ってきて思わず隠した写真立て。どうして、と聞かれても分からない。
それよりも、よりによってこんなタイミングに。
「あ、これ見てたんだー」
跳ねるような声に顔を見ずとも嬉しそうな表情を浮かべているのが分かる。
完全にタイミングを失った私は諦めて炬燵の上に顎を乗せた。
「……むー」
少し静かになったと思ったら憂が肩を寄せてきた。
言うのは癪だけれど、温かい。
「これ、初めてのデートだもんね」
私に見えるように憂は写真立てを前に出す。
見るとそこには、私と、その横で手を繋ぐ憂の姿。
写真の右側にはカメラを持つ左手が影を作っていて、私は情けなくも見て分かるほどに体を強張らせている。
「あはは、変に緊張しちゃってるね」
「憂が変なこと言ったから」
確か憂が「恋人」だとか自分ですら敏感なくせにそんな言葉を出して、断る訳にもいかない私には頷くしか無かった。
今となっては仄かに懐かしい。
こんなにくっついているのに慣れてしまった、と言うよりはくっついていないと落ち着かない。
我ながら恥ずかしい考えにまたカップを手に取り、今度は息を吹き掛けてから啜った。
だけどやっぱり上手く行かない。
あつ、と言ったのが聞こえてしまったのか、憂は私からカップを奪い小さく喉を鳴らして難なく飲んで見せた。
間抜けにも呆気に取られた私を見て、憂は悪戯な笑みを向ける。
本人は気付いていないのか、唇についた牛乳がかわいかったので私も笑顔で返してあげた。
「ね、」
聞き返す前に憂は私の手を取りカップを持たせた。
「猫舌なのはね、べろを引っ込めてないからだよ」
「?」
猫舌と言う言葉に反応しなかったのは憂が突然言い出したことに頭が回らなかったから。
「べろが前に出てると、火傷しちゃうよ」
なにを、と言う前に憂にゆっくり押し倒された。
その拍子に捲れてしまった裾が脇腹を冷やす。
カップを溢さないように気を遣っていた私には戻せない。
「…じゃあ、どうやるの?」
重なった胸からはどちらとも付かない鼓動が聞こえる。
暖房の音は気付くと耳に入らなくなってしまっていた。
口の中を確かめるように舌を動かすと、僅かに甘い味がした。
「牛乳、蜂蜜入れておいたんだ」
「そっか」
すぅ、と口を小さくして息を吸ったあと、憂は気付かない程小さく口角を持ち上げた。
「じゃあ、教えてあげる」
「うん」
憂から目線を離すことは出来ず、口からは自然と声がでた。
ゆっくりと近付く憂の温かさを感じて、私は瞼を下ろす。
そう言えば初めは私が誘ったのにな、なんて思いながら聞こえたのは、
「いじけちゃダメだよ」
耳で囁かれ、咄嗟に声を出そうとした私の口は塞がれた。
私の舌は、薄く開いた口から侵入してくる憂の舌に押し戻されて抵抗は出来なくなる。
どうやら憂は私のことなど全てお見通しのようだ。
観念した私は、しかし今度は憂の方へと押し返す。
憂は驚いたらしく全身の力が抜けたのが分かった。
憂は重なる口の隙間から声を漏らし、何とか離れようとする。
私はカップをゆっくり床に置き、憂の頭に手を回した。
逃がすもんか。
攻められるのに弱い憂を知っているのは私だけ。
憂がいくら私を手懐けようとしたってそうはいかないんだ。
猫舌だって構わない。
益々熱くなる口元も、こんな時だけは快感に変わる。
顔を赤くする憂を見て私の血液はどんどん巡る。
部屋に立ち込めるのは、胸につまるような牛乳の香り。
絡まった舌からする甘い味覚は、ホットミルクからか、
それとも──
おしまい。
最終更新:2010年11月14日 03:52