和「えっちなのはいけないと思います」
「そういうのは嫌いだって、言ったはずです」
そろそろと伸ばした私の手を払って、和ちゃんが吐き出した台詞。
眼鏡の奥から、鋭い視線が私の目を射抜き、その奥にいる私を探していた。
「ごめんなさい」
あっけらかんと私が言うと、和ちゃんは足を組み、読んでいた本を閉じて、顔を私の方へ向けた。
「21回」
冷たい声が私の耳を通って、脳髄を凍らせる。
「さわ子さんが、今まで私の顎に手をかけた回数です」
それだけ言うと、和ちゃんは目を伏せて、それから視線を本に落とした。
ぱらぱらと、しおりのある所を開いて、読書を再開する。
21回、顎に手をかけた。
つまりは、21回、私の脳髄は凍りつき、体は恐怖で震えたということだ。
21回、私は彼女の心の臓に、精神の写像に、ナイフを突き立てるようなことをしたということだ。
21回、私はこう繰り返したということだ。
「……ごめんなさい」
耳小骨がすり切れるくらい、私の謝罪は和ちゃんの耳を通った。
その度に、和ちゃんは言うのだ。
「かまいませんよ、別に」
その度に、私は和ちゃんがしたように、和ちゃんの目を見つめようとする。
彼女の眼の中に、彼女を見つけようとするが、彼女は本から目を離さない。
アパートの一室で、私の住居で、私たちは触れることもなく、視線も触れることもなく、
ただ、同じ空気だけを共有している。
「身体的接触は必要ないはずです」
付き合い始めて三日くらい経った頃だろうか、和ちゃんは頬を染めて言った。
私はそれを微笑ましく思って、こう返した。
「そうね、私たちが好きになったのは、互いの若さでも、性別でもないものね。
あなたが真面目で、私が不真面目で、それが私たちの恋だものね」
和ちゃんは眼を輝かせて、一瞬俯いて、すぐに顔を上げた。
凛々しい顔つきで、視線は真っ直ぐ私に向けて、手を後ろに組んで言った。
「私、頑張りますから」
言葉だけが耳を通って、意味は空間に置き去りにした。
私の脳は、ただ空気の振動に反応した。
「ええ、期待してるわ」
和ちゃんは、はにかんだ。
「だから、さわ子先生も頑張ってください」
「私が真面目になればなるほど、相対的にさわ子さんは不真面目になるでしょう?」
本から目を離さずに和ちゃんは言った。
私の肺から出て、和ちゃんの肺に入った空気が、私の鼓膜を震わせる。
「そうしたら、私はもっとさわ子さんのことを好きになれるでしょう?」
私と彼女の視線は出会わない。彼女の声は、私の唇を震わせない。
和ちゃんは横目に私を見て、呟いた。
「だから、あなたも頑張って」
あの日、二人して見た安っぽい恋愛映画。
帰りに立ち寄った喫茶店に置き忘れた、彼女の言葉の意味は、風に乗ってやっと私の元へたどり着いた。
それをしっかりと掴んで、私は微笑んだ。
和ちゃんの顎に手を伸ばす。
「22回」
和ちゃんは私の手を軽くはたいて、今までと同じ声で言った。
私は今までとは違って、おどけた調子で言った。
「何回言われても繰り返すなんて、不真面目でしょう?」
彼女は今までとは違って、足を組んだり、読書をしたりはせずに、柔らかそうな唇を私の耳に近づけた。
近づけるだけ。触れはしない。
柔らかそうな唇。私が触れたことのない唇。
「23回」
そっと、小さな声が、鼓膜も耳小骨も全部すっ飛ばして、直接脳髄を溶かした。
柔らかそうな唇。私がずっと触れようとしてきた唇。
「さわ子さんが、不真面目なことをした回数。私が、さわ子さんを好きになった回数」
柔らかそうな唇。きっと、これからも触れることはない唇。
固そうな心。多分、今までもずっと触れていた心。
視線は出会わず、体は触れず、共有するのは空気だけ。
そんな空間の中で、確かに私たちは結びついていた。
……
さわ子「ごめんね」
「先生、今日、先生の家に泊まってもいいですか?」
放課後の教室。夕陽が差し込む。
教室には二人だけ。私と、彼女。
私は自分の机に腰掛けて、彼女は教卓に腰掛ける。
「和ちゃん、机に座るのは行儀が悪いわよ」
また、はぐらかす。
怒鳴りつけたいのを我慢して、私は搾り出すように言った。
「先生こそ」
彼女は私の眼を真っ直ぐに見て、眉を下げて笑った。
震えた声が空気を震わせる。
「和ちゃん、ごめん」
また、謝った。先生、なんで謝るんですか。
初めて私の口を塞いだ時も、それから毎日、私と二人きりになったときも、
どうしてあなたは謝り続けるんですか。
怒りは、情欲も恋慕も全て飲み込んで私の胸の内で暴れる。
心臓の動きを乱して、近くの肺を震わせて、外に出たいと訴え続ける。
ぎゅっと胸を掴んで、私は努めて明るく言った。
さっきも言った言葉。
「先生、今日、泊まっても?」
彼女は目を伏せて、長い艶やかな茶髪を軽く撫で付けて、笑った。
「うん……いらっしゃい」
軽い音を立てて、彼女は教卓から降りた。
一度も振り返らずに、教室を出る。
「ちょっと待ってて……車の準備してくるから。親御さんには自分で連絡入れてね」
長い廊下を歩いていく。私はそれを、窓から乗り出してじっと見つめ続ける。
彼女が階段に向かい、私の視界から消えた。
彼女は最後まで振り返らなかった。私はさっきより強く胸をつかんだ。
「ん……シートベルト締めてね。イヤだから、捕まるの」
あまり柔らかくないシートに座って、彼女を見つめる。
彼女は私を見ずに、前だけ見つめて車を発進させた。
「ねえ、先生」
私が呟いても、彼女は返事をしない。
話題を振っても、曖昧な返事ばかり。
だから私は、信号が赤になったとき、彼女の手に自分の手を重ねた。
「和ちゃん、危ないよ」
そう言って、彼女はもう片方の手で、私の手を優しく払った。
私は嬉しくなった。彼女は泣きそうな顔をしていた。
「いらっしゃい」
アパートの、彼女の部屋を開けて、彼女は振り返らずに入っていった。
いらっしゃい、の言葉は、さわ子先生から壁へ、壁から私へ届けられた。
「お邪魔します」
私は彼女の後ろ姿に向かって返した。
彼女は立ち止まって、それでもやはり振り返らずに、掠れた声で言った。
「和ちゃん、ごめんね」
私はドアを閉じて、口を開けた。
「……どうして」
「……どうして」
茶色い短髪のその娘は、震えた声で言った。
怒りなのか、恐れなのか、私は彼女じゃないから分からない。
「どうしてあなたは謝るんですか」
あなたから奪っているものがあるから。
あなたの眼が、いつも真っ直ぐに私に向かってくる視線が、怖いから。
けれども私が口にしたのは、幾度も繰り返された短い言葉。
「ごめんね」
胸に手を当てて、指でとんとんとリズムを取って、彼女は続けた。
彼女がこの後どうなるか、私は知っている。
どんな顔をするのか、私は知っている。
「どうして今も振り返ってくれないの?」
振り返っても、過去が見えないから。
貴方から奪おうとした若さは、根拠のない自信は、進み続ける活力は、私のものになってくれないから。
私の内にある、重ねただけの時間が、先の見えない恐怖が、歩みを止める諦観が、確実にあなたを蝕んでいるから。
前にも後ろにも、私が捨てようとしたものがあるなら、せめて前を見ていたいから。
言いたいことを全部込めて、私は短く呟いた。
「ごめんね、和ちゃん」
和ちゃんは、きっと今、胸を強く掴んで、何かと戦っている。
多分、それは、私が彼女に植えつけたもの。
「ごめん、だけじゃ、なにも分かりません」
小刻みに震えた、ところどころしゃくりあげる声が、私の脳髄を麻痺させる。
もう少し、もう少し踏み込めば、手に入るんじゃないか。
失って久しい、けれどもかつては確実に持っていた何かを、
泣き虫で真面目な彼女を、短髪で色気のない彼女を、
隅から隅まで捜し回って、橋から橋まで壊し尽くして、
最後に残る何かが、きっとそれが私の求めている何かなんじゃないか。
「おいで、和ちゃん」
私は両腕を広げて、彼女に振り返った。
彼女は涙で濡れた顔を輝かせた。
そのまま私の胸に飛び込んでくる。
「さわ子さん」
一度だけ、和ちゃんは呟いた。
一晩中、唇を重ねて体を重ねて、壊して探して見つけたものは、
抱き合う彼女と私だけだった。
微笑む彼女と目を伏せて俯く私だけだった。
だから私は、今日も呟いた。
「ごめんね」
……
さわ子「和ちゃんの罪と罰」
「和ちゃん、今度私達、文化祭でライブやるんだ。聞きに来てね」
高校に上がって、数ヶ月が立った頃、ある日の放課後、私の幼馴染が嬉々として私に報告した。
いつも私や、彼女の妹に頼りっきりで、一人では何も出来なかった幼馴染の成長を、私は喜ぶべきはずだった。
「そっか、観に行くね。頑張って」
私は搾り出すように、やっとのことで言った。
胸の中で、何かがのたうち回るような感じがした。
幼馴染は屈託の無い笑顔を見せて、小走りで教室から出て行った。
いつも私の指定席だった、彼女の傍には、今は彼女のギターと、部活の友人がいた。
胸を抑えて、私は生徒会室へ向かった。
生徒会の雑務を済ませて、私はそそくさと帰りの準備を始めた。
もしかしたら、今なら幼馴染と一緒に帰ることができるかもしれない。
「あら、真鍋さん、帰るの?」
少し釣り上がり気味の目をした先輩が、大人びた笑顔で私に声をかけた。
学生というものは、学年が一つ違えば、まるで十歳も年上に見えるもので、
少なからず私はこの先輩に畏敬の念を抱いていた。
「はい、もうしわけありませんが、お先に帰らせていただきます」
私のかしこまった言い方がおかしかったのか、先輩はくすりと笑った。
「そう、お疲れ様。真鍋さんは随分と丁寧な言葉づかいをするのね、立派よ」
私も、先輩と同じように小さく笑って、生徒会室を後にした。
夕陽が差し込む長い廊下を歩いていると、前から、長い茶色がかった髪をした、長身の、端正な顔立ちの女性が歩いてきた。
その人は、私の姿を認めると、先輩と同じように優しく笑って、私に尋ねた。
「生徒会の子かしら」
私が、またかしこまって、そうです、と澄まして答えると、その女性は、先程とは打って変わって、
子供っぽく微笑み、明るく言った。
「肩の力抜いて。せっかく可愛いんだから」
それから、彼女に、ねっ? と同意を求められると、私は気恥ずかしくなって黙りこんでしまった。
それを見て、また彼女は優しく目を細めて、私の頭を軽く撫でた。
「お仕事、お疲れ様」
ふふっ、と笑って私から遠ざかっていくその女性の後ろ姿を暫く見つめて、私は首を横に振った。
自分がどうしようもなく子供に思えて、何だか悔しかった。
下駄箱から外へ出ると、グラウンドは夕陽で真っ赤に染まっていた。
いわゆる、青春の汗というものを流しながら走りまわる女の子たちには目もくれず、
別棟の音楽室を見ると、人影が動いているのが見えた。
どうやら、あまりに早く切り上げすぎたらしい。
今更生徒会室へ戻るのもみっともないので、私はひとりでとぼとぼと、赤く染まった帰路を歩いた。
先輩と、先程の長身の女性を思い出して、彼女たちと道行く人を比べると、皆が幼く見えた。
ベンチに座って携帯をいじるあの男性は、振る舞いが幼稚だ。
あそこで下品な声で笑っている女性は、表情と、精神が幼稚だ。
そうして、私は今日も、自分の学校と、生徒会と、またそれに属する自分への自信を強め、家に着いた。
家についてからは、なんということもない、ただ、明日の学校の準備をするだけ。
提出物を仕上げて、予習と復習をし、そして遅刻など決してしないように早めに寝る。
ルーチンワークの中で変化するのは、献立と、寝る前に読む本と、その夜見る夢くらいなものだった。
私は早々と眠りに落ちた。
嫌な夢を見た。
「今日は部活があるんだ」
幼馴染の唯が、幼馴染で無くなる夢。
「ごめんね、部活があるんだ」
私の手を払って、五線譜のバリケードで区切られた世界へ駆けてゆく夢、
その夢のなかで、彼女は私に言うのだ。
「今日も、明日も部活があるの。
明後日も、明明後日も、和ちゃんのために使える時間なんて無いよ」
日々の習慣からか、休日にも関わらず、早くに目を覚ました。
今日も唯は部活があって、私には時間を割けないらしい。
自嘲気味に笑って、かと言って家に篭もりっきりというのも体に悪いだろうと思い、結局当てもなく街をうろつくことにした。
最終更新:2010年11月14日 23:10