午前7時。
朝の空気は澄んでいて、誰もいない通りは、根拠のない全能感を私に与えた、
早朝に営業しているのはコンビニくらいなもので、とは言え何かを買うつもりもないので、私はただ街を歩き続けた。
しばらく歩いていると、何故か息苦しくなってきた。
自分が周りに溶け出すような、いいようのない喪失感と、それに対する嫌悪感を感じて、周りを見渡すと、
いつの間にか通りには人が現れていた。
「ああ、ぼうっとしすぎてた」
一人で呟くと、かろうじて、溶け出す自分を固定することが出来た。
胸を抑えて、早足で、なるべく人通りの少ない場所を探して歩き続けていると、突然、肩を掴まれた。
「ごめんなさい、人違いだったら悪いんだけど……名前、分からないわ。ごめんね」
言葉とは裏腹に、悪びれもせずにその女性は言った。
先日、学校の廊下で出会った女性、音楽教師の
山中さわ子先生だった。
先生に、そして自分に言い聞かせるように、ゆっくりと、一言ずつ区切っていった。
先生は、また声を出さずに笑った。
「そう、和ちゃんね、昨日会った。顔色が悪いようだけれど、どうかしたのかしら」
私は呼吸を整えて、平静を装いながら言った。
「いいえ。先生こそ、こんな時間に街で何をしているんです?」
私の言葉を聞くと、先生はきょとんとして、それから困ったように笑った。
「あのね、和ちゃん、今、午前十時よ。こんな時間って言うような時間じゃないと思うわ」
どうやら、私は三時間ほど歩きっぱなしだったらしい。
さっき息苦しく感じたのは、きっとそのせいだろう。
そう頭の中で繰り返して、私は胸から手を離した。
顔を上げると、先生は人差し指を口に当て、微笑んで私を見つめていた。
「ねえ、和ちゃん、一緒におでかけしましょうか」
正直言えば、私は直ぐにも先生の手を掴んで、そして離さないように、縄で縛りたいくらいだったが、
私は体を意志で固めて、直立したまま言った。
「先生は、何か用事があったのではないのですか」
遅ればせながら、よく見てみると、先生はスーツに身を包み、いかにも仕事中といった雰囲気だった。
私の問に対して、先生はにこりと笑った。
「ただのルーチンワークよ。繰り返し聞いた音楽よりは、新しい音楽を聞いてみたいの、私は」
そう言って先生は、私の手を引いて、規模を増そうとする人ごみの中を歩いていった。
先生が私を連れてきたのは、街の外れにある、寂しい雰囲気の喫茶店だった。
本を読む大学生と、新聞を広げる中年だけしかいないような、クラシックな店だった。
先生はコーヒーを、私は紅茶を頼んで、向い合って座った。
先生の綺麗な目が私の視線を受け止めて、私の幼い眼球は先生の視線に耐えきれず、しきりにまばたきを繰り返した。
「和ちゃんは、さっきは何をしていたのかしら」
コーヒーに入れた砂糖をかき混ぜながら、先生が私に尋ねた。
「なにも、ただうろついていただけです」
「へえ、人ごみの中が好きなタイプなの?」
「逆です。誰もいない街が好きなんです」
かき混ぜるのをやめて、コーヒーを少し啜ってから、先生は続けた。
私も、飲める程度にまで冷めた紅茶を、ゆっくりと口に入れた。
「でも、もう十時よ?」
「家を出たときは七時だったんですけどね」
先生は、今までとは違って、口を大きく開けて、明るい声で、快活に笑った。
歌のように綺麗な笑い声の間に、先生の言葉が混ざった。
「和ちゃん、変なの」
そのとき、何を思ったのかはっきりとはしないが、ともかく、
紅茶とコーヒーから立ち上る白い湯気の間に、白い先生の肌を見て、
そして、先生の子供のような笑い方を目にして、私は母親のように微笑んだ。
「先生も」
時間の流れが狂ったような、立場が逆転した空間で、私たちはしばらく談笑した。
先生が愚痴をこぼし、私がそれを頷きながら聞いた。
店を出たのは、およそ二時間ほど後だった。
「そういえば、」
喫茶店の前で、私は、背伸びをするさわ子先生に訊いた。
「先生は、確か軽音楽部の顧問だったの思うのですが」
「そうよ、ものしりね」
くつくつと笑って先生は私を見つめた。
何故か、探るような視線に感じられた。
「練習で忙しいと聞いたのですが、こんなところで油を売っていても構わないのですか?」
真っ直ぐに先生の目を見て、私が言うと、先生はまた、快活な笑い声を上げた。
「あはっ、あんなもの、半分はお茶のんで駄弁ってるだけよ。別に私がいなくても構いやしないわ」
それからすぐに、心配そうに声を落とし、私の顔を覗き込みながら言った。
「……どうしたの、和ちゃん、大丈夫?」
「ええ、なんでもありません」
私は胸を強く抑えて、掠れた声で言った。
嘘つき幼馴染。私のために、お喋りとお茶に費やす時間を割いてくれない幼馴染。
綺麗な先生。私と、お喋りとお茶を楽しんでくれた綺麗な先生。
「あら、和ちゃん、おはよう」
あれから、先生は頻繁に私に声をかけてくれるようになった。
よく気をつけて彼女の表情を見ると、時折、子どもっぽい、いたずら好きな彼女が顔を覗かせた。
私は、何故だかそれが好きだった。
「おはようございます、先生」
私が返すと、彼女は、時には大人びた、子供を見守るような表情で笑うのだった。
そして、そんなとき、私は、虚勢を張る子供のように凛とした表情で彼女を見つめるのだった。
また時には、新しい玩具を見つけた子供のような顔で笑うのだった。
そんな彼女に、私は十年来の親友のような気持ちで微笑むのだった。
「最近さ、なんか仲いいよね、和ちゃんとさわちゃん」
文化祭の数日前、昼休みに、頬杖を突いて、じとっと私を睨みながら幼馴染が言った。
私が答える前に、彼女は席を立った。
「私、軽音部のみんなと御飯食べる約束してたんだ」
そう言って、ぱたぱたと彼女は教室から出て行った。
彼女がいなくなると、私は教室の中で、ただの生徒になってしまう。
真鍋和ではない、桜が丘高校の一年生になってしまう。
私は胸に軽く手を添えて、鞄から出しかけた弁当を鞄に押し込み、教室を出た。
ふらふらとどこを歩いても、学校の中には鬱陶しいほどに人が、音が、唾液臭い匂いが溢れていた。
教室にいるときには気にならなかったのに、時間が経つごとに、その雑多な、下品な空気に、
身体の境界線が侵されていくような気がして、私は気づけば小走りになっていた。
階段を降りて、廊下を駆け抜けて、階段を登って……
周りに人はいなかった。私は、痣になりそうなほど強く掴んでいた胸を離して、深く息を付いた。
しばらく、階段の踊り場で、手すりに寄りかかって天井を見つめていると、あら、と声をかけられた。
「和ちゃんじゃないの。こんなところで何をしてるの?」
さわ子先生だった。長い髪を上下に揺らして、ゆっくりと階段を登ってきた。
こんなところ、と彼女が言ったのは、どうやら、音楽室の前のようだった。
私は彼女の目が、いたずっぽく光っているのに気づいて、彼女の気分を害さないように、なるだけ明るく言った。
「この学校にも、無人の音楽室でピアノを弾く幽霊はいるのかな、と思いまして」
私の言葉を聞いて、私の顔を見て、彼女は眉尻を下げた。
「うそつき」
そう言って、私の手を引いて音楽室へと入っていった。
音楽室は無人だった。
群衆と喧騒の代わりに、空気と静寂が私を囲んだ。
唾液の匂いが私の鼻を刺す代わりに、古い木の匂いが深く肺まで入ってきた。
「落ち着いた?」
音楽室に何故だか置いてある茶器を並べて、さわ子先生は私に座るよう促した。
さわ子先生と向い合って座ると、彼女の後ろに楽器が並べられているのが見えた。
軽音楽部のものだ、と先生は言った。
「音楽教師としては、もうちょっとメンテナンスに気を遣って欲しいのだけれど……
その話は今はいいわ。和ちゃん、大丈夫なの」
へらっと笑って、私は言った。
「はい、何でもないですよ」
「うそつき」
先生は、さっきと同じ言葉を繰り返した。
彼女は今までにないくらい、真剣に私を見つめていた。
「和ちゃんはそんな笑い方しないもの」
「先生が、知らないだけかもしれませんよ」
すると、先生は、悲しそうに笑って、小さく言った。
「そんな悲しいこと言わないでよ」
一瞬後には、先生は、いつものような子供とも大人ともつかない笑顔を作って、私の立ち位置をかき乱した。
彼女の前では、私は、大人びた保護者的な立場にも、甘やかされる子供の立場にもなれない。
先生はどこからか、たくさんの衣装を持ってきて、笑いながら言った。
「これ、メイドさん。和ちゃん着てみてよ」
私は先生のなすがまま、着せかえ人形のように様々な衣装を着た。
薄手の服もあり、体調を崩しはしないか心配だったが、先生の顔がころころ変わるので、
私は彼女の顔ばかり見つめていた。
音楽室から教室へ戻った時には、匂いも音も人も、全く気にならなかった。
周りの人は、私とは違う、小さな子供のように感じられた。
席に着くと、いつの間にか教室に戻ってきていた幼馴染が言った。
「和ちゃん、どこ行ってたの」
私は、ちらとだけ彼女に目をやって、小さく笑って答えた。
「秘密よ」
彼女は目を見張り、子供のように頬を膨らませて顔を背けた。
ごめんね、と言いながら私が頭をなでると、彼女はようやく機嫌を直してくれた。
「あのね、もう演奏は殆ど完璧なんだ」
彼女はおもむろに部活の話を始めた。
私はそれを、微笑みながら聞いていた。
「あとはね、りっちゃんのドラムが走り気味なのを直して……りっちゃんは周りを気にしなさすぎなんだよね、
私が法だ、みたいな感じで……」
天才は、法だ。
非凡人は、凡人の作った法を乗り越えても構わない。
なぜなら、彼が新たな法を打ち立てるから、すなわち、彼が法だから。
「っていう、話があるのだけれど……」
私は目の前の長い黒髪の女の子に向かって言った。
私が顧問をしている軽音楽部のベースの娘で、作詞も手がけている。名前は
秋山澪と言う。
どうやら、他の部員たちに歌詞が甘すぎると言われたのが気になるらしく、
社会的提言を暗示するような歌詞を……と、私に相談を持ちかけてきた。
「へえ、それは、何かの小説ですか?」
放課後の音楽室には、私とこの娘しか、まだいない。
傾きかけた陽が照らす彼女の顔は綺麗だったが、どことなく幼く感じられた。
「ドストエフスキーの、罪と罰、ね。本、もっと読んでみると良いわよ。
作詞の世界観が深まるから」
黒髪を小刻みに揺らして、澪ちゃんは笑った。
「凄い、なんか、音楽の先生みたいですね」
私は苦笑した。
「音楽の先生よ、私は」
そうでした、と笑って、澪ちゃんは扉に目をやった。
先程からそわそわしているのが見て取れた。
「来ませんね、みんな。文化祭まで何日もないっていうのに」
それから、深く息を吐いて、私に尋ねた。
「先生は、どう思いますか、私たちの演奏。正直、まだ人前で出来るレベルではないと思うんですけど」
やけに謙虚な彼女の姿勢に、私は笑った。
「あのね、さっきの小説で、主人公は自分の信念……あるいは、論理に従ってね、人を殺すのよ」
ひっ、と小さく声を上げて、澪ちゃんは耳を覆った。
「そ、そんな小説、私は読みませんからね」
「まあ、最後まで聞いて欲しいわ。結局彼はね、自首するのよ。
監獄の中で、彼は独白するの」
結局、おれはひとふんばりが出来なかったのだ。
「どういう意味でしょう」
耳を抑えていた手を離して、彼女は上目遣いに私を見ながら、尋ねた。
「彼はね、耐えられなかったの。法を否定して、新たに法を打ち立てるには、天性の力がいるって考えてたの。
けれど、自分にはそれがない……ってことじゃないかな」
感心したように声を上げて、それから眉をひそめて澪ちゃんは返した。
「それが、なんの関係が?」
「うん、だからね、あなた達はまだ若いから、きっと何とかなるよってこと」
拍子抜けしたように、澪ちゃんは苦笑した。
飛躍しすぎた論理を補完しようとすると音楽室の扉が開き、続々と部員が入ってきた。
「どうも、放課後ティータイムです。リーダーは私、ドラムスの田井中です!」
カチューシャを着けた短髪の女の子が、入ってくるなり大きな声を上げた。
続いて、癖毛の茶髪の女の子が、
「アイスマイスターは私、ギターの平沢です」
と言い、最後に金色の長髪の女の子が柔らかく言った。
澪ちゃんはだんまりを決め込んだ。
すると、三人に続いて入ってきた、短髪の、眼鏡をかけた女の子が投げやりに言った。
「眼鏡要員、生徒会の真鍋です」
私の新しい友達、玩具、着せ替え人形の、和ちゃんだった。
ムギちゃんが和ちゃんを席に座るように促し、いつものように紅茶の準備をし始めた。
和ちゃんはきょとんとして、遠慮がちに言った。
「あの、練習は?」
唯ちゃんも、りっちゃんも、悪びれる様子もなく、あっけらかんと言った。
「いつもこんな感じだよお」
「だよな。まずはお茶しないとな」
それから和ちゃんは何も言わなかった。
しばらくして、紙切れをりっちゃんに渡して、
「これ、講堂使用許可届け。早く出してね、もう随分遅れてるんだから」
とだけ言って、ふらふらと音楽室から出て行った。彼女は胸を抑えていた。
軽音楽部のみんなは、茶を飲み終わった後、しばらく練習して、帰路についた。
次の日、和ちゃんは学校へ休んだ。
最終更新:2010年11月14日 23:12