37.1度というのは、正直、学校へ行こうがまったく構わない程度の微熱だ。
けれど、私は学校を休んだ。しかも、布団に入って暖まるでもなく、机に向かって黙々と勉強をしている。
全く、我ながら訳の分からないことだ。
どれだけ時間がたったか分からないが、ただコツコツとシャープペンが下敷きにぶつかる音だけを聞いていると、
その音を、車のエンジン音が遮った。
インターホンの音が鳴った。しばらくしても返事がないことを考えると、親はどこかへ出かけているらしい。
私は、すこしおぼつかない足取りで、玄関へと向かった。
やけに心臓の鼓動が大きく聞こえた。
ゆっくりと、扉を開けた。
「やっほ、和ちゃん」
その幼い喋り方と、茶色がかった髪から、私は幼馴染が来たかと思った。
嬉しくて、心の臓が体全体を震わせるかと思った。
流れていく血の、全ての赤血球が歌い出し、白血球もこの時ばかりは外敵と手をとりあって歌い……
「ちょっと、なんだかぼうっとしてるけど、大丈夫?」
けれど、全ては私の妄想だった。
私の目の前に立っているのは、長髪の、眼鏡をかけた、さわ子先生だった。
「……はい。微熱、ですから。それより、先生は何故私の家に?」
失礼だが、私はこのとき、非常に失望した。
体中の熱が、外へ逃げていくような気がした。
「ええっと、唯ちゃんがね、和ちゃんが風邪ひいたっていうから、アレかなと、私のせいかなと」
私はさわ子先生に背を向けて、家の中へ入るよう、どうぞ、と促した。
お邪魔します、と先生は言って、丁寧に靴を揃えて家へ上がった。
居間へと先生を案内して、私は訊いた。
「唯たちは、今は何をしているんでしょうか」
ちらちらと辺りを見ながら先生は笑った。
「練習してるわよ、一生懸命ね。流石に、もうすぐ文化祭だからねえ」
私も、けらけらと笑った。狂ったように笑った。
落ち着いた後で、私は目を丸くしている先生に尋ねた。
「先生、私は唯の幼馴染で、今私は風邪をひいています。ねえ、先生は私のことが心配でしょう?
それなのに、唯は……どうして、でしょうね」
先生は、今までとは打って変わって、真剣な顔で、慎重に言葉を選びながら言った。
「ええ、私は、ね。昨日の着せ替えごっこのせいで和ちゃんが風邪を引いた、ってのもあるからね。
でも、もう高校生だもの。普通は、友達が風邪を引いたくらいじゃそんなに驚かないわよ」
そう、でも、私は、私はきっと……
私が頭の中で混ざり合った感情を、掬って言葉にする前に、先生はにこりと笑って、言った。
「でもね、きっと来るわよ、唯ちゃんは。なんたって、仲良し幼馴染だものね。
部活の時も、よく和ちゃんの話をしてるわよ」
脳内の感情は、いつもと同じように胸の奥に沈み、私はそれが漏れ出ないように、胸を強く抑えた。
私は、頬に力を入れて、唇を釣り上げ、無理に笑って言った。
「じゃあ、先生、それまでここで待っていてくれますか。その、"きっと"の時まで」
先生は、自然に微笑んで、言った。
「喜んで」
結局、"きっと"の時は来なかった。
私は先生の隣に座って、彼女の手を握った。
彼女は、
「きっと来るわよ、きっとね」
と繰り返してくれたが、もう、私にとってはそんなことはどうでも良かった。
彼女の手を握って、彼女が、五線譜の中へ、私の理解出来ない言語域へ、行ってしまうのを、
彼女がおたまじゃくしの様に、音の海の中へ泳いでいってしまうのを、防ごうとした。
「先生は、音楽の教師ですか、それとも、私の、学校の教師ですか」
そう言うと、先生は、目を伏せて、言った。
「和ちゃんの友達、じゃあ駄目かな?」
それでいいや、と呟いて、私は目を閉じた。
次に目を開けたのは、ベッドの中で、明くる日の早朝だった。
私は、今日は学校へ行くことにした。
道中、幼馴染には会わなかった。
教室は相変わらず唾液臭かった。空気中に充満する、内容のない会話が私を苛立たせた。
私には、楔が必要だった。この、くだらない時間と空間から、私を切り離すための楔が。
「おはよ、和ちゃん。聞いてよ、昨日りっちゃんがね……」
私には楔が必要だった。この、十年来の幼馴染以外の楔が。
この楔は、もう、ギターの弦にからまって、抜けてしまったのだ。
「そう」
私は気のない返事を繰り返した。
先生が保証してくれた"きっと"の時は、きっと、これから先もずっと来ない。
今日の授業が終わった。
教材を鞄に詰め込んで、教室から出ようとすると、幼馴染が私に声をかけた。
「和ちゃん、今日、音楽室来ない? お茶とお菓子があるよ」
私は彼女の方を向かずに、遠慮しておくわ、と答えて、生徒会室へ向かった。
後ろで、幼馴染が不満そうな声を上げているのが聞こえた。
生徒会室には、既に、あの目のつり上がった先輩がいた。
先輩は私を見ると、驚いたように口に手を当てて言った。
「真鍋さん、掃除はしたの? 私は今週は休みだけれど」
私が、あっ、と声を上げると、先輩は眉尻を下げて言った。
「サボっちゃ駄目よ。生徒会として示しが付かないでしょう」
それから、にっこりと笑って、仕事に戻った。
「まあ、いいわ。それより、体調は大丈夫なの?」
ええ、と答えたあとで、そういえば、唯はこんな台詞を、今日言わなかったなと思った。
けれど、もう、どうでも良かった。私は先輩を、値踏みするように見つめた。
「あら、なあに、顔に何か付いているのかしら」
先輩は私の視線に気づくと、ぺたぺたと手で顔を触った。私が笑うと、拗ねたような顔をした。
「だって、人に顔を見つめられると、なにかあるのかと思うじゃない」
とても優しく、見守るような表情で見つめられて、私は口をつぐんだ。
日頃から尊敬するこの先輩を、ふと、違うと思った。大人すぎる。
「さあ、ちゃっちゃと仕事を終わらせちゃいましょう。
文化祭の見回りのシフトに、講堂の設備、やることはいくらでもあるんだから……」
先輩の声は、生徒会室の壁に、窓に、扉に、空気に溶けこんで、もう掬い出すことは出来なかった。
生徒会の仕事も終わった。
つまり、私の一日はもう終わったことになる。
けれども、私の輪郭はまだ書かれていない。楔はまだ見つかっていないのだ。
このまま街を歩いたら、私は、人ごみと融け合ってしまう。
そして、私は私でない何かになる、というより、何かの一部になる。
蛇に飲み込まれるような、胃酸に溶かされるような光景を思い浮かべて、私は身震いした。
「ああ、そうだ、真鍋さん。これ」
そう言って、先輩は腕章を差し出した。
生徒会、と書いてある。私はそれを鞄に入れて、先輩を見た。
「文化祭の見回りのときに着けるのよ。なくさないでね」
頷いて、私は生徒会室を後にした。
通りは、臭いこそないものの、やはり私の神経を逆撫でした。
例えば、もし、私のことを知らない誰かが、今私を見たら、
私の隣にいる下品な金髪の女性と私を、ただ同時刻の同じ空間、同じ人ごみの中にいるというだけの理由で、
いっしょくたにしてしまうのではないか……
私は途端に胸がむかむかしてきたから、そこを強く抑えた。
鞄の中を探って、先程もらった腕章を取り出して、見つめた。
「流石に、これを着けるのはねえ……」
そう呟いて苦笑するが、これを持っていれば、ひとまず、人ごみに溶けてしまうようなことはないだろう。
右手にしっかりと腕章を掴んで、私は早足に歩道を歩いた。
すると、後ろから能天気な声が聞こえた。
「あっ、和ちゃんだ」
さわ子先生かと思ったが、違った。幼馴染の唯だった。
その後ろには、軽音楽部の部員3人が続いていた。私はちょっと見ただけで、視線を腕章に落とした。
「唯たちも、今から帰りなのね」
「そうだよ、和ちゃんも一緒に帰ろうよ」
「ごめんね、今から本屋に行くの」
自分でも自覚する前に、私は、笑って嘘をついた。
自分でも、さっき何故嘘を付いたのか、分からなかった。
けれど、しばらく考えると、すぐに答えは出た。
ため息を付いて、自嘲気味に笑った。
「ごめんね、唯」
ベッドに仰向けになって、呟いた。
私の声は、部屋の空気に溶け込まず、いつものように、私の胸の奥に潜っていった。
それを掻き出そうと、胸に手を当てたが、いつも蓋にしかなっていない私の手は、
突然機能を変えることなど出来ず、虚しく、ただ寝間着だけを掴んだ。
嫌な夢を見た。
「ごめんね」
幼馴染の唯が、幼馴染で無くなる夢。
「ごめんね、貴方じゃもう駄目なの」
彼女の視線を避けて、知識と論理の塔の高みへ、虚構の誇りの階段を登っていく夢。
その夢のなかで、私は彼女に言うのだ。
「今日も明日も、私は進むの。あなたに頼らなくてもいいように。
明後日も、明明後日も、あなたは私のことなんて思い出さないだろうから、だから、私も……」
目を覚まして、いつも通りの天井を見た。
今日も続くかと思われた繰り返しの日々に、円循環の輪に、いつもと違うものが割り込んだ。
ちかちかと光る携帯電話が、私に、一歩進め、と、ただ重ねただけの年月に、
実は仲が良いわけでもなかった幼馴染にいつまでも頼るな、と非難がましく私を呼ぶ。
『やっほー、
山中さわ子です。唯ちゃんにアドレスを聞きました。
又聞きは悪いかとも思ったけど、友達としてよろしくね』
受信時間は、昨日の深夜。
私は携帯電話を握りしめて、部屋の中、一人で呟いた。
「……よろしくお願いします」
…
「和ちゃん、今日、お菓子食べに来ない?」
昼休み、幼馴染が私に言った。
「ごめんね、私も忙しいの」
弁当箱を鞄から出しもせずに、私は教室から出て行った。
教室から随分と離れた音楽室へ、階段を降りて、一人で向かう。
携帯電話を強く握りしめて、何度も時間を確認した。
亀の置物に手を触れて、階段を登り、音楽室の扉を開けた。
彼女がいた。
「あら、和ちゃん。急に音楽室に呼び出したりして、どうしたのよ」
さわ子先生が、茶器に熱湯を淹れながら私に言った。
長い髪が、開いた窓から入ってくる空気に揺れている。
「いえ、今朝のメールが、本当に先生からのものだったのか、確認したほうが良いかと思いまして」
扉の傍で立っていると、先生に手招きされた。
先生と向い合って椅子に座ると、先生がお茶を出してくれた。
強すぎない臭いと、濃すぎない色が、私の気持ちを和ませた。
「そう……まあ、せっかく二人きりなんだし、少しお話しましょうか」
頷いた私に、遠慮がちに先生が語ったのは、私の幼馴染のことだった。
「昨日、唯ちゃんがぼやいてたわ。和ちゃん誘ったのに来なかった、って」
まだ熱い紅茶を口に入れて、先生が顔をしかめた。熱い、と小さく言って、舌を外に出した。
「和ちゃん、まだ怒ってる?」
的外れな質問に、私は思わず笑って答えた。
「なにが?」
すると、一瞬の間をおいて、先生も笑った。
「和ちゃん、敬語、忘れてるよ」
「これはすみません。ですが、先生、私は別に怒ってなんかいませんよ」
「そうなの? じゃあ、寂しい?」
くつくつと声を殺して笑って、私は言った。
「いいえ、別に……むしろ……」
どうでもいい、です。
私の顔を覗き込んでいた先生が、表情を曇らせた。
私は胸を抑えた。
「どうでもいい、です」
目の前の、成績優秀、容姿端麗――ただし、色気があるというわけでもないが――の模範的な生徒が、
私の予想だにしない言葉を、吐き捨てるように言ったので、私はたじろいでしまった。
気づくと、彼女は胸を抑えていた。
「あっ……そっか……じゃあ、あの」
私は言うべき言葉を探そうと、辺りに目をやった。
彼女が胸を抑えている。急がないといけない。
「先生、一つ聞いてもいいでしょうか」
私は気づいていた。彼女が、何かを言おうとするとき、何かを考えたとき、
その何かが、彼女の中で暴れまわるとき、彼女は胸に手を当てて、その何かに蓋をするのだ。
どこからも出てこないように、誰にも聞かれないように。
「ねえ、先生、私たちは……私と唯は……どうして、」
彼女の胸は限界だった。はちきれんばかりに膨れていて、彼女は呼吸もできずに喘いでいた。
「どうして、友達だったんでしょうか」
疑心が生じた暗鬼は、彼女の指の間から、ぎょろぎょろと周りを見回していた。
「いや、私たちは、友達だったのでしょうか、そもそも。
私と唯は幼馴染だったけれど、幼馴染は、友達でしょうか。
私と彼女の間には、十数年という時間のほかに、どんな繋がりがあったの?」
彼女が置き忘れた敬語を拾うこともせず、私はただ、笑うことしか出来なかった。
「いくらでもあるわよ、探せば。だから……」
私が言い終わる前に、彼女は、目にかかった前髪を払って、眼鏡の奥から、
刺すような視線を、明らかに敵意を持った眼差しを私に向けた。
「違いますよ、先生。私は先生に、そんなことを言って欲しいんじゃない、そんな先生が好きなわけじゃない。
いくらでもあるだなんて言わないで、いくつあるのかを言ってください。
それが言えないなら、もっと別のことを」
私はどうすればいいのか分からず、しかし、その姿を見ているのも嫌だったから、
手を伸ばし、彼女の手を胸からどけた。
「ファック……知ったこっちゃないのよ、そんなこと。
アンタもグダグダ言ってんじゃないわよ、股にギター突っ込むわよ?」
和ちゃんは、大きな声を上げて笑った。目から涙が溢れるほど笑っていた。
そして、人差し指で目尻を拭って、震えた声で言ったのだった。
「先生、格好良いよ」
文化祭の前日、私は和ちゃんを家に、というより、アパートの一室に招いた。
彼女は眉をハの字にして笑って、軽音楽部はいいのか、と訊いてきた。
もちろん、放ったらかしていいわけはないけれど、彼女たちは強いから、
私は、目の前の、このクッキーのように簡単に壊れてしまいそうな彼女を、なんとか守らなければいけないと思った。
「なんか、狭いですね」
和ちゃんは私の部屋に入るなり、こう言った。
「和ちゃんの家だって、そんなに広くないじゃないの」
私が口を尖らせて言うと、和ちゃんは、目を細めて言った。
「そういう狭いじゃないんです……なんていうか……」
棺桶みたい。
彼女はそう言って、すぐに、ごめんなさい、と謝った。
私はテレパシストじゃあないから、彼女の言ったことの意味はわからないけれど、
酒が、人間の意思伝達の潤滑油になることは知っている。
「ということで、じゃーん、ビールです」
私が部屋着に着替えて、ビールの瓶を持って行くと、和ちゃんは露骨に嫌そうな顔をした。
「それは、教師としてどうなんでしょうね」
私は頬を膨らませて言った。
「でも、友達としてなら別に良いでしょう」
すると、彼女は優しく笑った。
彼女が棺桶と言った部屋の中で、私たちはお酒を飲んだ。
和ちゃんはちびちびと舌でビールを舐めていて、そんな彼女を見て、私は笑った。
私が小さく笑うと、彼女は大きく笑い、私が声を上げて笑うと、彼女は声を殺して笑うのだった。
「ねえ、先生、キスして、くれませんか」
彼女がどうしてこんなことを言ったのかは分からない。
ただ、私は、言い訳するつもりはないが、アルコールで頭が回らなかったのと、ただ、
彼女を悲しませてはいけないと、彼女に胸を抑えさせてはならないと、そればかり気にかけて、
簡単に、唇をあげてしまった。
酒は潤滑油だった。動きのいい絡繰人形のように、滑らかに、けれど、なんとなく機械的に、
私たちはキスをした。
最終更新:2010年11月14日 23:13