翌朝(12月17日) 琴吹家食堂

唯「ふぁあ…」

紬母「唯ちゃんはまだお眠かしら♪」

やさしく唯に微笑みかけつつ、紬の母がそう言う。

唯「えへへ…」

唯たちは、紬の母とともに朝食を摂っている。
紬の父はとっくに自分のオフィスへ向っていたため、同席していない。

紬母「斉藤に学校まで送らせるから、ゆっくりご飯をとって頂戴ね。」

眉毛こそ沢庵でないものの、明るい髪色、おっとりとした雰囲気、
やわらかな物言い、と紬によく似ている。

憂「あずさちゃん、まだ来ないのかなぁ…」

梓は、バスルームを借りているところ。

律「寝汗かいて、下着までびっちょりだったんだってさ。」

紬「♪~」

おそらく、寝汗だけではあるまい。

紬は上機嫌だ。

律「ムギよ、豪くご機嫌だな…」

紬「そうかしら~♪?」

紬母「紬のクリスマスパーティは、あのツリーを使うそうね?」

紬「うん、唯ちゃんがすごく気に入ってくれたのよ♪」

唯「…」

唯は再び、昨夜のことを思う。


あの場から離れ、再び床の中に入ったも後も、中々寝付けなかった。
起きてからも頭の中の奥まで強くこびりついたまま。

あの精霊-ホーリエと名乗った-はいったい何者なのか?
あのツリーは??
天上のノモスとは??生命の実とは??
人間の目的にまつわる悪とは??
唯は本能的に、深く考えないようにしている。

だけれども、近いうちに、あの精霊と再び邂逅するであろうことを、
唯は知っている。

12月17日 桜高 昼休みの澪の教室

澪は和は二人で昼食を摂っている。
だが…

和「ずいぶんと熱心にやってるわね…」

澪は食事半分に、目前の書き上げ作業に没頭していた。

澪「これは良い機会なんだ…あいつらを、泥沼から引き上げてやれる…」

和へ視線を返し、澪はそう答える。


澪「何事もやれば変えられる!私達は絶対に変えられるんだ!!」

最近は、オバマ大統領の語録集を愛読書にしている澪。

和「さわ子先生に頼まれた手前だけれど、
  私はあの子達のペースにあわせて教えさせてもらうわ。」

頼まれた、と言ったあと、
ああ違う、脅迫だったわ、と思い返す和。

澪「和、私は鬼になるから…!」

目が本気である。



12月17日 夕刻 琴吹邸

学校からの帰宅後、今日の分のパーティ準備をすませ、
唯達は紬の指導のもと、勉強に勤しんでいた。
数学を重点的に攻めているところである。

律「微分とかさ、絶対やる意味ないよな。
  一生涯微分と無関係に過ごす自身あるぜ。」

唯「むふぅう…うううううう…」

かたや唯の脳味噌はパンク状態。

梓(まだ習ってないけど、予習は重要だよね…)

その横ですらすらと二年生の問題を解く憂。
日本に飛び級のシステムが無いのが悔やまれる。

紬「そうは言ってもね、数学は論理的思考を鍛えるのに
  一番良い教科なのよ。」

律「いやいやいやいや、あたしらがいくら頑張っても
  頭の回転なんてぜんぜんよくなんねーからぁ。
  な、唯?」

唯「くぅぅぅ…」

目前の計算に苦悶する唯。

憂「律さん!おねいちゃんはやればできる子なんですからっ!」

唯が"お馬鹿"にカテゴライズされるのが気に触るらしい。

紬「『人間は考える葦』って、ブレーズ・パスカルも言っているわ。」

紬「今の便利な世の中も全て、そのおかげでしょう?」

律「パスカルだかヘクトパスカルだか知らないけれどさぁ…」

そのとき、どこからともなく、唯の耳にある声が聞こえるて来る。

『パスカルは、≪力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力≫
 とも言ったわ。』

あのホーリエの声。
律たちの顔色を伺うが、誰も気が付いていないようだ。

『けれど、良き考えすら良き結果を生むとは限らない。
 自分が良きことと考えることが、
 隣人には許しがたいことであるかもしれない。』

唯「力なき正義は無力であり、正義なき力は暴力…」

唯がそう呟く。

律「は?」

唖、となる律。

紬「それも…パスカルの言葉ね。」

唯「正義は、誰が正義だって決めるんだろう?
  暴力は、誰が暴力だって決めるんだろう??」


紬「パスカルはものすごく強い信仰心をもつクリスチャンだったらしいから…」

紬「パスカル自身の正義は、キリスト教の教えと切っても切きれない
  、神様が下し示したもの、のはずだわ。」

唯「じゃあ、私達はどうなの??」


紬は答えに窮する。

しかし、刹那の思案の後に紬は答える。

紬「正義を深く考えなくても、人間は生きていけるわ。
  けれど私は、よくよく考えて、それを、自分の正義を確かなもの

  にする必要があると思うの。」

紬「うちのお父さんは、そんなことをよく言うから…」

紬「だって、そうしないと、琴吹家に関係する多くの人間が
  苦しむことになるでしょう?」

律(ムギの奴、唯のギー太を値切ってたよな、確か。)


唯「偉くなればなるほど、その人の考え方次第で
  たくさんの人が幸せにもなり、不幸にもなるんだ、ね。」

唯「でも、今の日本にも、他の国にも、色々な理由で苦しんでいる人はたくさんいるし、
  他人を苦しめてまでお金を稼ごうとするひともたくさんいるよね。」

唯「そういう人たちはどうなるんだろう??」

梓「だから法律や警察があるんじゃないですか?」

梓が口をはさむ。

唯「でもやっぱり、苦しんでいる人はたくさんいるよ。」

梓「それは、人間は万能じゃないですし、自分が蒔いた種で苦しむ
  自業自得な人たちもたくさんいますし…」

唯「他人のせいで苦しんでいる人もたくさんいるよ。」

律「まあ唯よ、なんだ、理想を言ってもはじまらねーし…」

律が口を入れる。

律「とにかく終わりだー終わりっ!
  今日はもう切り上げてスマブラしようぜっ!」

律が場を収める。
けれど…


その日、皆が眠りについたあと、唯は再び生命の樹の前に立つ。
そして、呟く。

唯「堀江さん…」

すると生命の樹から、あの紅く輝く光球が現れ、唯の目前へと下降する。

『ゆい、月並みだけれど、私はライブドアの元社長ではないのだわ…』

『ホーリエ、よ。』

『よく覚えて頂戴。』

唯「私だけに聞こえるように、声をかけてくれたよね?」

『ええ、そうよ。』

精霊は答える。

唯「なんかわたし、よくわからなくなっちゃった…」

『ふふ…ゆい、まずはそれでいいの。』

唯「…」


『昨日、あなたに話したわよね?
 人間が意識を持ち始めてから、
 それがためにずっと苦しんで来た、最大の"謎"のことを。』

『そう…大変巨怪な"謎"、≪エニグマ≫のことを。』

唯「えに…ぐま?」

『ゆい、あなたに教えましょう。』

『人間が長い間苦しんで来たこの謎は…』

『なぜこの世界に悪が存在するかということよ。』

『とくに一神教が優勢な地域においてだけれど、
 なぜ完全である神のもと、世界に悪が生じたのか、
 多くの人が頭を悩ませてきたわ。』


『多くの人々は悪を…』

『善が欠けている状態としたり、
 神との距離のために神との関係が弱まったもの、としたり
 神との距離のため、神が放射する勢力からの恩恵に、
 より少なくしか預かれぬため、としたり、
 人間の根源的罪のため、としたり…』

『その点、ゆい、あなたたち日本人をはじめとする、アジアの人々は
 昔から実際的だっただわね。』

『生きることにおいて諦念を強く有する、とでもいうのかしら?
 輪廻及び転生の概念を背後に持つ民族に多く見られるわ。』


『そして悪の改善や悪を消滅させる、ないし善に近づく、方法も…』

『人間の欲望を意識的に抑制するやり方。
 まったく呪術的な方途にたよるもの。
 善の知的追求による一種の啓蒙。
 善のもと、悪とされたモノを意図的に排除する方法…』

『けれど、人間、種としても個体としてもの、この人間には、
 悪は執拗にこびり付き、根付いて、
 …決して分かたれることはなかった。』

『今の今まで、ね。』


『また、悪を遠ざけることが得てして…』

『全く逆説的な…結果、遠近法的な結果を多く生み出すだけ、だったわ。
 つまり、あるモノに意識が集中されることで、
 その周辺にある、そのモノから距離のある別のもの、
 その輪郭がぼやけただけだった。』

『つまり、多く存在する悪をあいまいなものにし、
 あまり目に付かないようにする、という結果になっただけだった。』

『意識的、無意識的な逃避でもあったわ。』


『人間が意識を獲得し、歴史を紡ぎ始めてから…』

『人間はずっと悪くなっていったわ。』

『悪への無関心も強くなっていった。』

『…けれど、こうも考えられたわ。』

『そうではなく、人間は、人間を悩ましてきたこの迷信から
 自由になりつつあるのではないか、と。』

『必要なのは、この善及び悪という迷信ではなく、
 ≪合理的かつ的確な采配≫なのではないか、とね。』

『例えるなら、あなたの時代の交通法規のようなもの、よ。』

『けれど、それでは同時に、個人が個人の内に持つ倫理感が
 小さくなることを意味するわ。』

『倫理感は、一種の信念と恐怖感情の間の子。』

『倫理感を迷信として捨て去ったとき、そのときこそ、
 あの怪物は、大きく開いた口をもって
 人間という種をひと飲みにすることでしょう。』


『ふぅ…』

精霊は一息置く。

『あの太い眉毛の子、大変良い子だわ。
 私も好きよ。』

唯「むぎ、ちゃん…」

『けれど…』


『動物はその体格が大きくなるほどに、多くの栄養を必要とし、
 不要とされたより多くの排泄物を体外に捨て去る。』

『同じように、あの子の一族の富を糧に生きるものも多いけれど、
 その分だけ、あの子の一族に起因する悪のために苦しむ者達も多い。』

『人間は汚れている、と考えたモノから目をそらそうとする。
 これを虐待し、遠く離れたままにしておこうとするの。』

『あなたの生きるこの時代は、人間の歴史のなかで
 最も、それが極大化している時代よ。』

『さて。』

『…今日はここまで。』

『ゆい、よくよく考えなさい。』

唯「…」

唯は黙ったまま。

『ふふ…大丈夫よ、ゆい。あなたは、結晶のような意志を持ち
 その意志のもと、透徹した直感を持っているのだから。』


そう言い終えると精霊は樹の中へとかえっていった。

精霊が描いた軌跡の残り香を見つめる唯。

唯「わたしも、たくさんの人を、苦しめてきた…のかな…」

そう独り言つ。

京都の冬はまだまだずっと、寒くなるはず。

翌日 12月18日 19時 琴吹家食堂

一同は食堂に会して夕食を摂っている。
今回は紬の父も同席している。

律(しかしまあ、親子で立派な眉毛ですこと…)

律は盗み見るように、琴吹父と琴吹娘の額あたりを見比べる。
紬の父も、それはそれは太い眉毛(ただし毛色は黒色だが)を持っている。
まるで、ぶっとく海苔を切り取って貼り付けたかのよう。


紬父「ん?田井中くん、やはり私の眉毛が気になるかな?」

律(しまった…!)

律「え、あ、ああ、いやぁ…ハハハハハハ…」

笑ってごまかそうとする律。

梓(これだから…)

ため息をつく梓。


紬父「まあ、琴吹家と言えば眉毛!と言われるくらいだからね。」

紬父「着脱可能だと誤解されることもあるぐらいなんだよ?」

紬母「まあ、あなたったら♪」

紬の父は、にこやかに笑いながらそう言う。
やはり彼もどことなく、紬と同じ優しい雰囲気を漂わせている。

唯「あの、ムギちゃんのお父さん…」

唯が唐突に口を開く。


紬父「うん?なにかな、平沢くん?」

紬の父は、唯に顔を向ける。

唯は上座に座る紬の父の斜め左奥、
紬や律とテーブルを挟んで対面する形に座っている。
唯の両隣には憂と梓がいる。

唯「あの、聞きたいことがあるんです、けど…」

紬父「言ってみなさい、平沢くん。」

優しく微笑みかける紬の父。

唯「ムギちゃんのお父さんが、会社の社員の人たちの幸せのために、
  心がけていることって、何なんですか?」

律(ん?唯らしからぬ真面目な…)

律は訝しげに唯を見やる。

紬父「ふむ…」

視線を天上に吊るされたシャンデリア状の照明に向け、
数秒、何事かへと考えを向ける、紬の父。


紬父「たくさんあり過ぎるけれど…」

視線を唯へもどし、真面目な、しかし柔らかな目持ちで答える。

紬父「そのうちで最も大切だと私が考えることは…」

紬父「私が判断と決定う場合に、最高度の内容と速さを持って、
   この二つを行うこと、かな。」

紬父「これが、リスクを回避する上で最も重要なこと、
   と考えているね。」


唯「…」

実を言うと、紬の父の回答は、唯にはよく理解できなかった。
『状況判断と命令』の重要性を、まだ年若い唯は、
現実味を持って捉えることができないのだ。

紬父「例えばだ、ある人が心臓発作で倒れたとしよう。」

唯がうまく反芻できていないことを悟り、紬の父はこう続ける。

紬父「そして救急車を呼び、救急隊員が来るまで応急手当を行って
   その患者を病院まで搬送する。」

紬父「脳内出血や心臓発作から生還する可能性は、
   時間との格闘だ、ということはわかるね。」

コクリ、と唯は首肯する。

紬父「それに、応急処置や救急隊員の処置が不味いものであった場合にも、
   あたりまえだが、患者の命はそれだけ危険にさらされる。」

紬父「企業を運営管理することも、これと同じ、ということになるね。」

唯「あ、そっか…」

唯は合点がいったようで、ふんふん、と頭を少し揺らす。


そのとき-

コンコン。

食堂の扉がノックされる音がする。
扉の脇に控えていたメイドがゆっくりと扉を開ける。

「失礼します。」


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最終更新:2010年01月25日 15:34