ピピピピッ。
静かな部屋に鳴り響いた電子音。
澪「36度8分か……」
高校入学してから8カ月、昨日初めて学校を休んだ。
しかしこの調子なら、明日には学校に行けそうだな。
昼下がりにしてはやけに室内が暗い。
ベッドにもぐったまま目だけを窓の外に向けると、
なるほど、外はしとしとと雨が降っていた。
決まってこんな日は、頭が痛む。
私の頭部に刻まれた古傷が痛むのだ。
それと同時に瞼の奥に浮かんでくる、律の泣き顔。
私は古傷に左手を当てながら無意識に呼んでいた。
「りっちゃん……」
そうそう、
小さい頃、私は律を「りっちゃん」と、
律は私を「澪ちゃん」と呼んでいた。
そして私たちはある日を境に「ちゃん」を付けなくなった。
その日のことを、私はしっかりと覚えている。
むっくりとベッドから起き上がり、まだちょっとフラフラしながら机に向かう。
一番下の引き出し、その中の一番奥。
あ、あった。
私は両膝をついて手を奥に入れると、その先に触れた手紙の感触を確かめつつ引き出した。
『りっちゃんへ』
ここにあるってことは未だに送っていないから。
一番奥にしまってあるのは、律に読まれたくないから。
律宛の手紙なのに律に読まれたくないなんて、ちょっと変だな。
なんだかおかしくて、笑ってしまう。
これを書いたのは3年前。中学一年生だった。
久しぶりに読んでみようと、封のされていない封筒から便箋を引っ張り出す。
ピンク色で、カワイイうさぎさんのキャラクターが描かれた便箋。
あれ、今よりも字が下手だな。
またおかしくて、笑ってしまう。
『りっちゃんへ』
りっちゃんが、
私のためにつくってくれた、たくさんの冗談と、
私のために費やしてくれた、たくさんの時間と、
私のために流してくれた、たくさんの涙に、
ありがとう。
大好きでした。
手紙は途中だったが、私は天井を見上げた。
自然と溢れてきた涙で続きが読めなくなってしまったのだ。
3年経った今でも色褪せぬ思い出がよみがえる。
3年前
中学一年生の秋。
ざわついた教室。
暗い空。
ガタガタと鳴る窓。
朝のホームルーム。
教壇には担任の先生が立ち、これから来る台風について話していた。
どうやら、大型の台風が近づいてきているため、
今日は臨時休校になるらしい。
窓の外を見ると、
木々は踊る様に風に煽られ、
ゴミや砂が舞い上がり、
時々怪物の唸り声のような風の音が聞こえてきた。
この中を歩いて帰らなくちゃいけないの?
こ、怖い。
りっちゃん「みーおちゃん! 帰ろ!」
はっと我に返り前を見ると、
さっさと帰り仕度を済ませたリっちゃんが私の顔を覗き込むように立っていた。
どうやらホームルームは終わっていたらしい。
みおちゃん「りっちゃん、歩いて帰るの?」
りっちゃん「え? それ以外、どうやって帰るの?」
ですよね。
でもさ、こんな中歩いて帰るのは……
りっちゃん「もしかしてみおちゃん、怖いんでちゅか?」
もう!
なんでこんな時ばっかり鋭いんだよ、りっちゃんは!!
いや、でも怖いなんていったらい三日間はからかわれるな。
みおちゃん「な、何を言ってるんだ! こ、怖いわけな、ないだろ? さ、早く帰るぞ!」
くすくすと笑うリっちゃんの声を背中に聞きながら、私はカバンをひっつかんでずんずんと歩きだした。
そうだ、早く帰ってしまおう。
外にいる時間をなるべく短くすれば、怖い時間も短くて済むもんな。
急ぎ足で廊下を歩く。
廊下は電気が煌々と点いているにもかかわらず、どことなく暗い影を帯びている。
こ、怖い。
廊下に並んでいる窓は、今にも割れそうなほどガタガタと震えている。
こんなたくさんの窓に囲まれているのだ。
もし窓が割れてしまったら……。
やっぱり学校にいるのは危険だ。
とにかく早く帰ろう。
形容しがたい恐怖心の塊が、胃のあたりからぐいぐいとせりあがってくるのがわかった。
いつもの見慣れた学校のはずなのに、今は知らない学校にいるようだった。
怖い、何もかも。
震える足。
なんとか、もたつきながらも歩く。
歩け、私。
歩くんだ、私。
早く帰らなきゃ。
りっちゃん「近くで見るとすごいな……」
下駄箱から一歩外に出ると、
風が轟々と唸り声をあげ、木々をなぎ倒し、
あちこちから何かが倒れる物音が聞こえてくる。
教室から見ていた外なんかとは比べ物にならないくらい、怖い。
りっちゃん「私の家族は迎えに来れないからなぁ。みおちゃん家は? 誰か迎えに来れる?」
私は小さく首を左右に振った。今日は両親とも仕事でいないのだ。
りっちゃん「先生が、
『どうしても帰れない生徒は、台風が弱まるまで教室に残っててもいい』
って言ってたけど、残ろうか?」
私は大きく首を左右に振った。
歩いて帰るのは怖い。でも、ここにいるのはもっと怖い。
りっちゃん「うーん。じゃあ、あたしの家に行く?
みおちゃん家より近いし、
それに、今日は聡が風邪引いて学校休んでてさ。
お母さんが看病してるから大丈夫だとは思うんだけど、ちょっと心配ってのもあるし」
私はそこでやっと気が付いた。
そっか、私、家に帰っても一人なんだ。
みおちゃん「聡が風邪引いてるのに、私お邪魔じゃないかな?」
りっちゃん「だいじょぶだいじょぶ! 私の部屋にいれば平気でしょ! 部屋にいれば風邪もうつらないしさ! よし、そうと決まればさっそく行きますか!!」
そう言い終わらないうちに、りっちゃんは私の手首を掴んで走り出していた。
みおちゃん「あ! こら! こんな時に走ったら危ないだろ!!」
商店街は半分がシャッターを閉めていた。
シャッターがガタガタと鳴る。
いつもより人通りの少ない商店街は、やはり見慣れたいつもの商店街とは違って見えて、私の恐怖心をこれでもかと煽ってきた。
りっちゃん「みおちゃん、大丈夫だって! 大丈夫だから!
だからさ、ちょっと離れてくれない? 腕、痛いんですけど……」
気が付くと私は、りっちゃんの腕にしがみついていた。
首を左右に振る。
イヤだ。
ていうか、怖くて離せない……。
その時、突風のような一際強い風が私たちを襲った。
二人で体を寄せ合い、縮こまってなんとかやりすごした……と思ったら、
りっちゃん「あっ!!」
そう言ってりっちゃんは後ろを振り返った。
私もつられて振り向くと、プリントがひらひらと空中を舞い上がっていくのが見えた。
りっちゃんが私の腕を振りほどく。
りっちゃん「やっばい!!」
りっちゃんはプリントを追いかけて行ってしまった。
どうやらカバンのフタが開いていたらしく、中から飛んで行ってしまったようだ。
いつもだらしないからこういうことになるんだぞ。
それにしても必死に追いかけてるな。
大事なプリントなのかな?
もしかして、今日提出するはずだった数学の宿題?
あ、りっちゃんがジャンプしてプリントを掴んだ!
と思ったら、手に触れる前にまたプリントが舞い上がってしまった。
りっちゃん「ぬおおおお!! 待てぇーーー!!!」
必死にプリントを追いかけて行く。
なんかりっちゃん、犬みたい。
ちょっと面白いかも。ぷぷっ。
散々プリントに弄ばれていたが、ようやくキャッチしたらしく、
プリントを高々と掲げ、満面の笑みを見せてくれた。
あの喜び方。やっぱり犬みたい。
満面の笑みに、私はぷっと吹き出して答えた。
犬が笑顔で駆け寄って来た。
いや、りっちゃんだ。
面白いから後でちょっとからかってやろう。
あれ、りっちゃんが立ち止まってしまった。
上を見たり横を見たり、きょろきょろしている。
どうしたんだろ?
私も当たりを見回してみるが、何も無い。
しかしよく聞いてみると、金属の軋むような音が聞こえている。
なんだろ、なんか不気味な音だな。
嫌な予感がざわざわと音を立てて私の全身をなでまわしていく。
なんか、怖い。イヤだ。
何?何?何?怖い。怖い。怖い。怖い!!
私はざわつく全身と、不安に揺れる心と、胃からせり上がってくる恐怖心に立っていられなくなり、
両手で耳を塞いでしゃがみこんだ。
その時聞こえたりっちゃんの声を最後に、私はしばらく気を失う。
りっちゃん「みおちゃん、危ないっ!!!」
気が付いたら真っ白い天井を見上げていた。
ここはどこ?
首を動かして辺りを見まわそうとしたら、頭のてっぺんに鈍痛が走った。
みおちゃん「いたたた……」
ふいに出た私の声を合図に、りっちゃんが駆け寄ってきた。
「みおちゃん! みおちゃん! 大丈夫?」
りっちゃんが上から覗き込むように私を見つめている。
目には不安の色が映り、その瞳は震えていた。
りっちゃんの説明によると、
強風で商店街の看板が外れ、私を直撃したらしい。
幸い小さな看板だったため、
頭を直撃して怪我をし、意識は失ったものの、
命に別条はないし後遺症もないということだ。
怪我、ってどれくらいの怪我なのかな。
りっちゃん「みおちゃんのお母さんね、
今入院の手続きしに行ってるんだけ……あれ?
みおちゃん? おーい! 戻ってこーい!」
私はこのりっちゃんの声を最後に、再び気を失った。
だってりっちゃんの制服、たくさん血がついてたんだもん。
あれって、私の血!?
気持悪い、吐きそう……。
次に目を覚ますと、目の前にはママがいた。
その隣にはパパ。
そしてその隣にはりっちゃん。
りっちゃんは私服だった。
着替えに帰ったのかな?
私は心の中で言った。
「バカ」
台風なんだから、危ないだろ。
頭が痛いので、恐る恐る触ってみる。
頭のてっぺんにはガーゼが厚く乗せられ、網のようなネットがかぶせられていた。
産まれて初めての入院か……。
パパとママは、私の意識が戻って安心したのか饒舌だった。
それとは対照的に、いつもよく喋るりっちゃんは俯いて押し黙ったままだった。
なんでだろう?
さっき私がりっちゃんを見て気絶しちゃったこと、気にしてるのかな?
ママが言いにくそうに言った。
澪ママ「みおちゃん、あのね、傷のところなんだけどね」
なんか、すごく嫌な予感がする。
できればママの話、聞きたくないな。
澪ママ「傷口を縫うためにね、周りの髪の毛をね、その、あの、そ、そ、剃ったの」
うぅ、私、女の子なのに。
もう、学校行けない……。
私は布団を頭まですっぽりと被り、
声を押し殺して泣いた。
だって、だって、
人見知りで引っ込み思案で怖がりな私にとって、
唯一ちょっとだけ人に自慢できるのが髪だったのに。
りっちゃんだって褒めてくれたんだよ?
みおちゃんの髪キレイだね!って褒めてくれたのに。
あ、そうか。
りっちゃん、だからさっきから黙ってうつむいてるんだ。
私は心の中で言った。
「バカ」
傷ついたのはりっちゃんじゃないんだから、
そんな悲しそうな顔しないでよ。
怪我は順調に回復し、ほどなくして退院となった。
その翌日、私は学校へ行った。
まだ頭にガーゼと白い網のようなネットをかぶったままだったので本当は行きたくなかったんだけど、
2週間も学校を休んでいたのだ、これ以上休むわけにはいかない。
イヤでも注目の的になる私。
何人もの人に「大丈夫?」と聞かれ、
「もう大丈夫」と、同じ答えを繰り返す。
最初は心配されているんだと嬉しくもあったけど、
知らないクラスの人「秋山さん、大丈夫?」
さすがに知らない人にまで声をかけられるのは疲れる。
もうヤダ。帰りたい。
だが今は我慢だ。
みんなが事情を分かってくれればきっと収まるはずだから。
しかし、そんな私の淡い期待は外れ、
むしろお昼休みになる頃には、自体はさらに悪化していた。
どう悪化していたかと言うと、
隣りのクラスのAさん「みおちゃん! ものすごく大きい看板が頭に直撃して倒れたところをりっちゃんに助けられて、お姫様抱っこで病院まで運んでもらったんだってね!」
まず、いらない尾ひれがたくさんつき、
隣りの隣りのクラスのBさん「秋山さん! 一度死んだけどりっちゃんの心臓マッサージで蘇生したなんて、スゴイね!」
次に原型を留めなくなり、
どっかのクラスのCさん「あなたが秋山さん? 宇宙人にさらわれたところを田井中さんに助け出されたんですって?」
最後には宇宙規模の壮大なスケールにまで膨れ上がっていた。
いったいどうなっているんだ?
誰がこんなウソを?
誰かの悪意を感じ、
少しイライラしながら廊下を歩いていると、聞きなれた声が聞こえてきた。
りっちゃん「でさでさ、みおちゃんったら『助けてりっちゃぁぁぁん!!』って泣くわけよ。だから私が崖から落ちたみおちゃんを……イダイッ!!!」
なんとなく勢いで、後ろからりっちゃんにゲンコツしてしまった。
りっちゃん「イタタタタ……って、みおしゃん!?」
みおちゃん「ねつ造すんなっ!!」
りっちゃん「……」
あ、ヤバイ。さすがに怒らせちゃったかな。
でも、元はと言えばりっちゃんがウソついて回っているからであって。
りっちゃん「……」
あ、やっぱりゲンコツはダメだよね。謝らなくっちゃ。
みおちゃん「あの、りっちゃん、ごめんね? 痛かった?」
りっちゃん「……」
みおちゃん「りっちゃん?」
最終更新:2010年11月15日 23:12