わたしが目を覚ますとそこは真っ白な天井だった。

体中の鈍い痛み。
そして閃光のように走る、頭と足に走った痛み。

男「―っ! ―意識がもどった!」

側で見ている男が叫んでいる。

天井から目線を下げる。
自分の周りは皆、白衣を着ている。
あぁ、ここはきっと病院で、この男は医者なのか。
自分の両足が吊り下げられている。

「(あぁ、折れてるのかな、これ)」

意識がはっきりして状況を確認する。
周りの雑音が、人の会話だと認識できる。

男「外の家族に伝えて。―平沢さん、大丈夫ですか?」

不意に質問される。答えなきゃ。

「……平沢? ……だれ、それ?」


看護婦「ご家族の方。平沢さん、意識を取り戻しましたよ」

病院の待合室でベンチに座っていた少女はその言葉を聞いて、立ち上がり、駆けていく。



病室の少女が目を覚まして数分後。
病室の前で、駆けつけた方の少女に医者は告げる。

男「意識は戻りました。ただ、記憶に混乱が見られます。」

男「ひらたく言うと、記憶喪失。記憶はいつ戻るか・・・・・・」

男「今はまだ、自分のことすら覚えていません。ご両親は?」

少女は動揺し驚愕した表情を浮かべ、小さく震ている。

「お父さんと、お母さんは、、、今は、仕事で海外に・・・・・・」

医者は気の毒そうな声で、この少女を慰めるように言う。

男「―支えに、なってあげて下さい。」

少女の震えが止まる。

「はい」

その目は、決意に燃えていた。


病室の外から、話し声がする。

そして、静かにドアを開いて1人の少女が入ってきた。

―わたしは、少女に問う。

「あなたは、誰?」

入ってきた少女は、少し悲しそうな顔をした後に笑顔で答える。

「わたしの名前は平沢 憂。よろしくね、お姉ちゃん!」

わたしは混乱した。記憶にない。わたしには、記憶がない。

そして、告げられた単語の中から推測される重大な事実に、狼狽する。
目の前の平沢憂と名乗る少女に恐怖すら感じながらも、つぶやくように聞き返す。

「お、姉ちゃん?」

憂「そう、あなたの名前は平沢 唯

そして憂はわたしの手を握り、その額に当てて祈るような姿勢になる。

憂「わたしの、たった一人。大切な姉妹……」


平沢 唯

わたしの……名前?

自分でも思い出せないわたしの名を、この初めて会った少女が与えてくれる。
その状況に激しい違和感を感じる。同時に平沢 憂を警戒する。
自分が何者なのか、自分の妹と名乗るこの少女は本物なのか。
記憶をたどることすらできない自分に、イライラしてきた。

もう一度、平沢 憂を見て自分の気持ちを整理する。

恐怖、不安、違和感。そして……気付いた。

自分の中の、この少女をどうしようもなく愛おしいと思う気持ち。

記憶のないはずのわたしが漠然とした『それ』を感じたとき、「あぁ、だぶんこの女の子は自分の家族なんだ」と確信した。

と同時に「わたしは、平沢 唯なんだ」と納得した。

わたしは憂を信じて警戒を解いたが、そこで新たに妙な罪悪感が生まれる。

先ほどからずっと祈るような姿勢の憂。

「(きっと憂……も不安なんだ。何か、何か言ってあげないと!)」

色々と感情を制御できない自分の中で、もう1つこの状況に不謹慎な感情に気付く。
先ほど警戒を解いたばかりで、しかし尚混乱している わたしの口から、不意にその想いがこぼれ落ちる。

「私の妹はこんなにも可愛いのか……」

唐突なわたしの言葉に、憂は驚いた顔で唯を見る。
見つめ合い、静止した時間。

くすぐったい気持ちに絶えられず、わたしは笑顔になる。

どちらからでもなく病室の2人は笑い声をあげた。



あれから一ヶ月

―わたしの記憶は未だに戻っていなかった。

この一ヶ月間、毎日憂は わたしの病室に来ている。

食事、着る物、暇つぶしの遊び相手。
看護婦も感心するほど、憂は甲斐甲斐しく わたしの世話をしてくれていた。

その間両親は一度も病室に来ていなかった。
なんでも海外での仕事が丁度立て込んでいて、どうしても都合がつかないらしい。

正直、そんな薄情な両親に憤りを感じてはいたが、憂に見せてもらったアルバムから自分が両親に愛されていることが充分に理解できた。
両親は子供の わたし達ですら恥ずかしがるほど仲が良くて、いつも わたし達をほったらかして旅行に行っていたらしい。
話の中の両親に、若干苦笑するが、なぜだか和やかな気持ちになる。

今となっては記憶にない、アルバムの中の両親に会うことが楽しみだ。

両親の件をはじめ、憂は記憶のリハビリにも協力してくれている。

買い物の思い出。
食事の思い出。
旅行の思い出。
幼馴染との思い出。
―そして、学校の思い出。

特に高校に入学してから入ったという、軽音部の話は胸を躍らせた。
唯は中学までは部活をしていなかったらしい。
高校生になってから、軽音部に入って少々アグレッシブになったようだ。

唯が軽音部に入って変ったことが嬉しいのか、憂は特に軽音部の話を楽しそうに話した。


本当に、楽しそうに唯の思い出を聞かせてくれる憂。

きっと憂は唯のことが大好きだったのだろう。

はやくわたしに記憶が戻って欲しいのだろう。

それなら、せめてわたしは精一杯、平沢 唯になろう。

記憶の補完も順調。混乱は、もうない。精神も……安定している。

わたしは日に日に元気になっていき、性格も明るくなっていった。



――それが、憂の前のわたし。


憂「それじゃあ、また明日ね?おねえちゃん!」

そういって、憂は今日も笑顔で手を振って病室を後にする。

「うん!また明日っ!」

そういって、わたしは今日も憂に負けない笑顔で送り出す。

そして最後に、1人残された病室で わたしは今日も大きな溜め息をつく。

ハッキリと、胸を焼くような、大きな罪悪感がわたしを襲う。

今日も憂が楽しそうに話してくれた唯の思い出を反芻して、自問自答する。
しかし、わたしは何も思い出せない。

今病院のベッドにいるわたしは、憂の中にいる唯ではない。

それならば、憂の中にいる唯は……死んだの?

失った記憶が、かつての唯の魂であるかのように錯覚する。

今いるわたしは憂にとってのなんだろう?

憂は笑いかけてくれる。しかし、その笑顔は唯に向けられたもの。

憂の中にある唯を想うと、わたしのアイデンティティが保てなくなる。

それでも、憂の笑顔を思い出すと気持ちが温かくなる。ずっと一緒にいたくなる。

―とても愛しい、憂。

――わたしの、可愛い妹。

「憂……つらいよ……寂しいよ」

「わたしは、憂が…・・・大好き、だよ」

そういって、本当のわたしは今日も、1人涙を流すしかなかった。


更に半月が経った

ギブスがとれて、病室もリハビリ病棟に移るころ。

―わたしの病室に嬉しい客が来た。

「おっっす!!!! 」

元気な声で、勢いよく病室のドアを開けたのは
カチューシャで前髪をあげた少女、田井中 律

「声が大きいぞ、律っ! 他の病室の患者に迷惑だろうが!」

そういって、先ほどの元気な少女の頭を諌めるように小突いている
長い黒髪が綺麗な少女、秋山 澪

「おじゃましま~す♪」

ふわふわした声と雰囲気で入ってきたのは
眉毛が特徴的な、琴吹 紬

「……お邪魔します」

ふわふわ少女とは対極に、緊張しながら入ってきた
小柄なツインテールの少女は、中野 梓

軽音部の面々だ。

「見舞いに来るのが遅れてごめんなさいね、唯」

「……やっぱり、この人数は少し多すぎかしらね」

彼女達の後に続いて
落ち着いた声で、気を遣いながら病室に入ってくる
メガネの少女は、わたしと憂の幼馴染の真鍋 和

わたしは今日のメンバーのことを知っている。

憂が今まで彼女達の話をきかせしてくれたり、写真を見せてくれたりしてきた。
(集まった少女達は皆、写真や伝え聞いたとおりの容姿をしていたので安心した。)

それに加えて、実はわたしは彼女達と前に、電話で直接話をしている。

彼女達は、今日の見舞いのアポをとるために、憂に電話をかけてきていた。
そのときに少し会話をさせてもらったのだ。

彼女達は、唯に会いたいのを今まで我慢していたらしい。
この時期まで、「記憶と精神状態が混乱する」と家族(実際は憂1人)意外の面会を医者に止められていたのだ。

「だから最初は大人数で乗り込んでいくぞっ!!」と電話でわたしにも了承をとりにきた。

憂「えへへ、いらっしゃ~い♪」

そういって、憂は満面の笑みで彼女達を出迎える。
憂も楽しそうで、わたしも嬉しい。

わたしは深呼吸をして、入ってきた面々に挨拶をする。

「えっと……お久しぶりですね、かな?」

わたしが硬い表情なのは、混乱しているからではなかった。

知らない仲じゃない。

それでも

「なんだか、緊張……しますね?」

いざ顔を合わせると、話しかける言葉もたどたどしくなる。
なんだかくすぐったい気持ち。

意識を取り戻した夜、憂と見つめ合ったときみたい。

律「うぉっおぃ!! 唯が! 唯が敬語だ! 初々しいぞ!」

大げさな身振りで、律はリアクションをとる。

律「いや、むしろ『憂い憂いしい』 ! 敬語が、憂ちゃんっぽいって意味で!」

さらにたたみ掛ける。自信満々の顔をして、律はわたしを見た。
楽しい人だなぁ。

澪「変な造語つくるな!」

澪はすかさずツッコミを入れる。
まるで夫婦漫才だ。

憂「なんですか~、それ」

憂も笑ってる。

病室の中の空気も緊張感がなくなり、少し明るくなる。

わたしも、自然と笑みがこぼれる。
気が楽になった。

「相変わらずなんですね、律さんは」

気が緩んだ瞬間、不意にでた わたしの言葉に病室の中の全員が動きを止めた。

『相変わらず―』

紬「唯ちゃん、まさか」

梓「覚えているんですか!?」

2人はわたしの側に来て、まっすぐとわたしの目を見て訊いてきた。

「ごめん」

紬と梓の期待が宿る目

その2人の目と、目を合わせるることができずに瞼を閉じる。

「ごめんね。思い出せないや」

やっぱり、わたしの頭の中にあるのは、憂との予習で得た知識としての思い出だけだった

自分でも、この人達に直接会ったなら、もしかして記憶が戻るようなことがあるかも……という小さな希望はあった。

その小さな希望が、あさっり無くなったことに、失望する。


でも、なぜだろう。
さっき不意に出た言葉の理由は―。
自然と口から言葉が出る。

「……でもね、なんだか懐かしいんです」

そうだ。

なんとなく、ただ懐かしい。

みんなが周りに居ると懐かしく感じる。

「だから、さっきまでみたいに今までどおりに接してください」

わたしはさっきと同じ笑顔でそう言った。


「梓ちゃんも! そんな泣きそうな顔しないで、ね?」

少し、この後輩をからかってみる。

梓「うっ、な、泣きそうな顔なんてしてません!!」

入ってくるときは緊張でガチガチだったくせに。生真面目なコなんだね。

律「いつもどおりか~。いや、さっきのは緊張のあまり ちょっととばしすぎてたんだけどな?」

律は照れくさそうに笑っている。

澪「そうか?律はいつもあんな感じだぞ」

和「そうね。律は案外いつもああね。」

澪と和が律に厳しいツッコミを入れられる。

律「おぉい! 唯、違うぞ! これはこいつらの策略だからな!?」


「どうなんですか?紬さん?」

懇願するような目の律を受け流し、側にいた紬にフッてみる。

紬「ふふふ、皆いつもどおりね~」

頬に手を添えながら、紬は柔らかい笑顔で答える。

律「っムギぃ~~~!!! わたしは本当はこんなキャラじゃなぁああい!!!」

しばらく、病室に笑い声が響く。


わたしはなんとなく気になって、憂の方を見る。

憂も楽しそう。

この感じ、やっぱり懐かしいな。


紬「ときに、唯ちゃん?」

笑い声の中、紬が思い出したかのようにわたしに話しかけてきた。

「なぁに?」

わたしも、自然と敬語じゃなくなっていた。

紬は小さく先払いをした後、まるで幼子に言い聞かせるような柔らかく、ハッキリした声で言う。

紬「これからm、これからは……わたしのこと、『紬さん』じゃなくて『ムギちゃん』って呼んでね?」

「ムギちゃん?」

紬「そう、約束してねっ!」

紬は、さっきと同様の期待を宿した目で、わたしの目をまっすぐ見ている。


そうか、あだ名か。


「うん! わかったよ、ムギちゃん!」

今度は、その目を逸らさずに答える。

なんだか、誇らしい。
やっと記憶の中の友達に出会った気がした。


そのやり取りを聞いていた皆も次々と名乗りを上げる。

律「わたしのことは『律さん』じゃなく『りっちゃん』って呼ぶんだぞ!」

澪「私は普通に『澪ちゃん』でいいよ」

和「私も普通に『和ちゃん』って呼ばれていたから、これからもそう呼んでね?」

それから

―憂は満面の笑みで梓の肩を掴んでいる。

なるほど。

「梓ちゃんは?」

わたしも憂と同じくらいの笑顔で梓に聞いてみる。

梓「え、えとえと」

顔が真っ赤だ。

周りの皆も悪戯っぽく笑っている。

「?」

梓「~~~~~っっ!!!」

目が合うと、反らし、また目を合わせて。

遂に決心したかのように、梓は真っ赤な顔で言った。

梓「あ、ああ、わたしのことは『梓ちゃん』じゃなく、……『あずにゃん』と呼んで下さいぃ!!」

そのとき

半ばヤケになったような、梓の叫びは、病院中に響いたとか。響いてないとか。



その日の夜

みんなが帰った後、いつものように、今日得た唯の思い出を反芻する。

「楽しかったなぁ」

1人になって静かになった病室で、なんとなく声をだしてみる。

みんな、聞いていたとおりの楽しい人たちだった。
ちょっと賑やか過ぎる気がしたが。

「ふふっ」

もう一度、今度は1人で笑い声を上げてみる。
さっきまでの賑やかさを確かめるように。

「ふふふっ」

思い出し笑いが止まらない。
まるで、修学旅行での旅先での夜みたい。

その日の夜、わたしは1人、笑いながら眠りについた。


―でも

―今日はいつもより、憂とあまり話すことができなかったなぁ……。


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最終更新:2010年11月17日 04:07