更に一月が経った。
目が覚めた頃の季節はまだ秋になりたてだった。
今では病室の窓からみえる景色も、空気の臭いもすっかり冬になっている。
憂「おねえちゃん。今日は寒くなってきたから、毛糸の腹巻持って来たよ♪」
相変わらず憂は毎日病室に来て、わたしの世話をしてくれている。
「ありがと~、憂♪」
憂からもらう、少し気の抜けたプレゼント。
嬉しい。
リハビリ病棟に移ってからは、両足のリハビリに励むことになった。
妙な言い方になるが、わたしの両足はかなりキレイに折れていたらしい。
骨の回復もはやく、わたしの足は順調に治っていた。
これだとリハビリの頑張りしだいでは、今年中には退院できると医者は言う。
それでもリハビリを始めた当初は、激しい痛みと倦怠感との闘いだった。
自分は特別不幸な存在だと言い訳をして、この苦痛から逃げ出したくなる。
自分には、両足で立って歩いていた記憶などない。
それならいっそ一生車椅子でも、いいんじゃないか?と自分に言い訳する。
そういって挫けそうになるとき、憂は何度も側にきて支えてくれた。
自分に言い訳はできても、憂にだけは言い訳はできない。
あの日、目が覚めたときに、憂のつぶやいた言葉を思い出す。
「わたしの、たった一人。大切な姉妹……」
愛しい憂。わたしの可愛い妹。
リハビリ生活を通じて、わたしの憂に対する想いは大きくなっていった。
そして、支えてくれているのは憂だけではない。
軽音部のみんなと和。
面会が許可されてから、彼女達は数日に1回のペースで会いに来てくれている。
毎度のことながら、彼女達は病室で賑やかに雑談する。
そして、たまにリハビリの手伝いもしてくれた。
彼女達の賑やかさには救われる。
楽しくて、余計なことを考えずに済む。
なにより彼女達は
きっと今までも、
平沢 唯はこうしてみんなの助けを得て生きてきたのだろう。
「ふふふっ」
まるで、かつての平沢 唯になったかのような感覚に、自然と笑い声がでる。
―リハビリは順調に進んでいった。
男「立ち上がってみて」
「はい」
車椅子を支えに、わたしはなんとか立ち上がる。
男「うん。いや、すごいな」
医者は素直にわたしのリハビリの成果に感心する。
男「歩いてみてくれる?」
ゆっくりと、わたしは自分の足で、一歩、足を前に出そうとする。
「あっ」
しかし、片足を前に踏み出しせるほどには、腰と足の感覚はまだ戻ってなかった。
わたしはバランスを崩して倒れそうになる。
憂「おねぇちゃん!!!」
憂がわたしの肩を支えて、姿勢を元に戻してくれる。
男「まだ、日常生活を送るには松葉杖は必要か」
そう つぶやいた医者は腕を組んで唸り声をあげる。
憂「あ、あの……お姉ちゃんは、どこか深刻なんでしょうか?」
震えた声で医者にたずねる。
今にも泣きそうな顔をしている憂を見て、わたしも泣きそうになる。
男「あぁ、いやいや。逆だよ」
医者はあっけらかんと答える。
男「そろそろ、退院の時期も具体的に考えないとね」
そういって医者はカルテになにか難しそうな言葉を書き始める。
男「入院生活や生活態度を見ると、君の記憶障害は、日常生活をおくるのに、問題は、なさそうだけどね」
もったいぶった話し方をしながら、カルテを見つめ、溜め息をつく。
男「まぁ、記憶障害の件は専門の先生の意見もきかないといけないが」
男「2、3歩。歩けるようになったら、ていうのを……当面の退院の目安にするか」
そういって、医者はわたし達に笑顔を向けた。
既に溢れんばかりの笑顔だったわたしに向かって
男「退院とはいっても、しばらくは自宅から通院してもらうよ?」
医者は笑顔で釘をさす。
診察室をでた後。
そこで、わたしは遂に我慢できずに声をあげて喜んでしまう。
「やったー!!!」
そうだ!わたしが歩けるようになれば!
これからは、憂と一緒の家に帰ることができる!
これからは、みんなと同じ学校に通うことができる!
そして、もしかしたら自宅に帰ることによって記憶が戻るかもしれない!
「やったね!憂!」
わたしはこれまでにない誇らしい気持ちだった。
「やったね!お姉ちゃん!」
憂もまた、満面の笑みをわたしに向ける。
その目にはうっすらと涙がにじんでいた。
「もう!憂ってば泣くのはまだ早いよ?」
わたしは憂の目尻の涙を拭いながら言う。
憂「そうだね、まだ早いよね……」
憂は少し落ち込んだ顔になる。
その表情にわたしは狼狽する。
「ちょっ、ちょっと憂。そんなに落ち込まないで!」
憂はいまだに下を向いたままだ。
「わ、わたし頑張るからね!すぐに家に帰れるように、わたし頑張るから!」
憂「違うの」
憂はもう、さっきの笑顔になっている。
憂「また、2人で、家に帰って、学校いって。いままでみたいに一緒に過ごせるんだと思うと」
憂「ただ、嬉しくて……」
『いままでみたいに』
憂のその言葉で、わたしが忘れかけていた黒い罪悪感が蘇る。
憂がいっしょに家に帰りたいのは、『わたし』なのか?
憂「おねえちゃ~ん?」
慰めるように、若干甘い声で憂が声をかけてくる。
気付けば、わたしの目にも涙が溜まっている。
憂「ふふふ、おねえちゃんも今から泣いてるよ?」
憂はそう言って わたしが憂にしたのと同じように、わたしの目尻の涙を拭ってくれる。
その行為で、逆にわたしは涙が止まらなくなる。
―憂が側にいてくれるだけで、わたしは頑張ることができる
―憂が笑ってくれるだけで、わたしは幸せになる
「ゴメン、ゴメンね?わたし、頑張るから……頑張るからね?」
このとき、遂にわたしは心に決めた。
わたしのこの足で歩けるようになったなら……憂に、この想いを告白しよう。
記憶のない、わたし。
今までの、平沢 唯じゃないわたしだけど、貴方が好きですって伝えよう。
「……頑張るからね!」
わたしは、最後に強く憂いった。
憂「……」
憂は黙っている。
もしかしたら、わたしの決意が、想いが、伝わってしまったのかも。
憂は少ししてつぶやく。
憂「あんまり、頑張って、早く退院されるのも困るかも……」
「え?」
憂、なにを言ってるの?
憂「実は、あまり家の掃除してなくて」
憂「けっこう散らかってる……かな?えへへ」
憂は悪戯っぽく笑った。
それから数日後
―わたしは、眠る間も惜しんで、リハビリをしていた。
今日もまた、リハビリルームで1人、黙々と屈伸をしている。
憂はまだきていない。
リハビリに熱心になりすぎて、着替えの服を忘れていたのだ。
憂「汗、かきすぎて、風邪をひかないようにね?」
そう言い残し、憂は家に着替えを取りに行っている。
そこに、軽音部のみんながやってきた。
律「よっ、頑張ってるな!」
初めて病室に入ってきたときとは違って、あっさりとした挨拶。
「りっちゃん」
澪「憂ちゃんに聞いたぞ?歩くことができたら、退院なんだって?」
いつも律にいれるツッコミとは違って、優しい声で話しかけてくる。
「澪ちゃん」
紬「はい、唯ちゃん、すごい汗かいてるわよ?」
そういって、ふわふわのタオルをだしてくる。
「ムギちゃん」
梓「わたし達も手伝わせてください!」
ふふふ、やっぱり生真面目なコなんだね。
「あずにゃん」
和「まったく、着替えの服くらい電話くれればとってくるのに」
なんだか、いってることがお母さんみたいだよ?
「和ちゃん」
みんな、憂と一緒にわたしのことを支えてくれた。
そうだ。みんなにも、わたしの決意を伝えておかなきゃ。
「ねぇ、みんな。聞いてくれるかな?」
―わたしは問う。
「わたし、記憶を失くして、前と変った?」
軽音部の面々は、少し困ったような顔をした後に笑顔で答える。
律「少しだけ、雰囲気がちがうな」
澪「あぁ、記憶を失くす前より落ち着きがある……かな」
紬「そうねぇ~大人しくなったかも」
梓「以前よりしっかりしてます!」
和「……胸が大きくなったわね」
澪「和……」
和「あら?」
……そうか、やっぱり平沢 唯にはなれなかったか。
「そう、わたしは、もう記憶を失くす前の平沢 唯じゃないの」
「記憶を失くして、自分を失くして」
「空っぽの人間だった」
「でも、そんなわたしでもこの2ヶ月の間にいろんなこと考えて、耐えて、経験して」
「みんなとも、友達になって」
「そして、人を好きになったの」
また、自然と涙が溢れてくる。
「わたしね、憂が、あのコのことが大好きなの」
「わたしが歩けるようになったらね、この気持ちを伝えようと思うの」
「この気持ちはこの2ヶ月間で得た『わたし』だけのもの」
『自分は、もう記憶を失くす前の平沢 唯じゃない』といった。
みんなの記憶の中の平沢 唯は、もうどこにもいないのだと。
そう言ったのだ。
その事実に、軽音部の面々はショックを隠し切れないようだ。
当たり前か。
わたしはずっと騙してきたのだ。
それで、支えてもらっていたのだ。
「ごめんなさい。平沢 唯じゃなくて」
「ごめんなさい。平沢 唯になれなくて」
しかし、決めたのだ。この想いを伝えると。
これ以上、『わたし』の友達を騙したくない。
これ以上、『わたし』が大好きになった人たちに嘘をつき続けたくない。
伝えなきゃ。
全てを告白すると。
平沢 唯がいなくなり、『わたし』がかわりになったことを。
きっとあのコは許さないだろう。
それでも、もし。
もし、許してくれるなら。
『わたし』はあのコを愛していると。
全ての事実を告白するんだ。
自分でも狂気じみていると思う。
自分よがりな、自己中心的な考えだと思う。
この2ヶ月間、支えてくれた友達を無為に傷つけた。
これからわたしは、最愛の人を傷つける。
その先にあるかもしれない。
あの、黒い罪悪感の無い、真実の愛を手にするために。
憂が『わたし』を許したとき。
憂が『わたし』を愛したとき。
憂はそのとき、妹じゃなくなる。
憂はそのとき、恋人になる。
そうだ、きっと憂は恋人になるよ。
きっと妹じゃなくなる。
「だって、わたしの妹がこんなに可愛いわけがないもの」
―あ、歩けた
=終わり=
最終更新:2010年11月17日 04:09