律「……」

律は自室のベッドに腰掛けて放心していた。

黄昏時の日差しが、カーテンの隙間からほげーっとした彼女の顔を照らす。

律「何これ…どういうことなの…」

ぽつりと独りごちて、自分に手に視線を落とす。

彼女の目に映るのは、スティックによってマメが作られた見慣れた小さな手のひらではない。

肘の先から指先にかけて黄金に近い茶色の毛に覆われた、獣の足のようなフサフサした手のひらだった。

指先に生えた驚くほど鋭利な爪が、きらりと光る。

手にばかり気を取られていたが、よく見れば靴下を脱いだ足も、同じように毛むくじゃらだ。

口内にも違和感を感じ、おそるおそる鏡の前で口を開くと、少しだけ犬歯が鋭く長くなっている。

金色に光る瞳は、少しばかり獣の鋭さを帯びていた。

律(目つき獣みたいじゃん…)

前髪を下ろして目元を隠す。

そのままぼんやりと丸い鏡を眺めていると、背筋にざわざわっと何かが走るような感覚が律を襲った。

律(この感じ…)

この感覚には覚えがあった。

つい先ほどまでいつも通りだった自分の体が、こんないびつな物に変化する前に、律は一度この体のざわめきを経験していた。



時はさかのぼり、放課後。

いつものように部活を終え、いつものようにだべりながら、いつものように皆と別れ、家に着いた。



律「たっだいま~」

聡「おかえり姉ちゃん!」

律「お?なーんか嬉しそうだなぁ。どした?」

聡「ずっと欲しかったゲーム、やっと買ったんだよ!今日父さん達遅いしさ!一緒にやろうよ!」

律「えっマジで!?でも今日課題多いしなぁ…。今何時だ?」

靴を脱ぎながら時計に目をやる律。円形のそれが目に入った、刹那。

ザワッ

律「ほわっ!?」

聡「あいっ!?」

突然の姉の奇声に驚く聡。怪訝な面持ちで、彼は律を見た。

聡「な、何?」

しかし彼の声は律の耳をすり抜けた。

律は自分の心臓が、尋常じゃない速さで鼓動するのを感じ、胸を押さえた。

律「は、あっ…」

熱い呼気と共に額に汗が噴き出す。言葉にならない何かが、体の奥から駆け上がってくる。

聡「ちょ、ね、姉ちゃん!?大丈夫!?」

律「なんか…わかんな…ごめ、ちょっと部屋行く…」

明らかに調子が悪そうな律を見て、聡はどうしたらよいかわからずうろたえる。

そうこうしているうちに、律はあっという間に階段を駆け上がっていった。

聡「はや…」

よくわからないが、駆け出したくなるような衝動に駆られる。

律は一気に階段を駆け、自室に飛び込んだ。

ドアに背を預け、座り込む。

律「…うっ…」

再び背筋がざわめき、徐々に鼓動が収まっていく。

ようやく落ち着きを取り戻した律は、ふぅと息をついた。

律「一体何だったんだ――」

ずれたカチューシャを元に戻そうと手を挙げ、目に入った物体に律は固まった。

律「――…は?」

茶色いフサフサの手。光る爪。

瞬きをすることも忘れ、その手を閉じたり開いたり。

明らかに自分の手だが――自分の手じゃない。

律「はあああああああああぁ!!??」

そして話は、現在に戻る。


律(丸い物を見たら、体がぞわぞわする…)

律(それにこの手…まるで映画で見た狼男みたいだ…)

律「――いつの間にか狼人間になってました…ってか?」

なんで?意味わかんない。

律は混乱する頭を抱え、その場に座り込んだ。

律「…これ、元に戻れるのかな…」

腕から生えた体毛を引っ張り、律は独りごちる。と、その時だった。

コンコン

律「おぎゃっ!!!」

聡「あひぃっ!!!」

いきなりドアがノックされ、律は飛び上がる勢いで悲鳴を上げた。

ドアの向こうからも、甲高い悲鳴が聞こえてくる。

聡「ね、姉ちゃん?大丈夫なの?入るよ?」

律「だっ!駄目駄目駄目!入ってくるなああぁ!!」

開きかけたドアの元へ、律は凄まじい速さで駆け寄ると、内側から押さえつけようとした。

しかし、律はこの時、自分の体の変化にまだ慣れてはいなかった。――結果。

バギャァッ!!!

鋭利な爪がドアに穴を穿ち、力加減がされなかった両腕はドアを突き抜けていた。

突如ドアから生えた腕の間に、聡の顔がちょうど収まった。短い黒髪が、はらりと切れて落ちる。

聡「…へ…?」

聡の顔に引きつった笑みが張り付く。

律「…」

沈黙の中、ゆっくりと腕がドアから抜かれ、二つ開いた穴から律が顔を覗かせた。

律「あ、あはは…。ども~、田井中りっちゃんです♪」

聡「」ドサッ

律「ちょ!さ、聡!?しっかりしろおおおぉ!!」

気まずい沈黙が、律の部屋の中を支配する。

律と聡は何故か正座をして、向かい合って座っていた。

ドアに開いた穴は、外側には律の手作りパネル(舌出してスティック持ったアレ)、内側にはポスターを貼ってごまかした。

見られたからには黙っているわけにはいかないので、律は聡に自分の体に起きた異変について説明した。

もっとも、彼女自身何が起きているのかわからないが。

律「……」

聡「…も、元に戻ったね」

律「あ、あぁ…本当だ…」

呆けているうちに、いつの間にか体は元に戻っていた。

聡「…えっと…丸い物見たら変身しちゃうんだよね?」

律「たぶん」

聡「…ほい」パカッ

急に聡は手に持っていたゲームのパッケージを開ける。律の目に入る、丸いディスク。

律「おわっ!!聡お前!!…うぁっ!!」

途端、律は体を震わせて呻いた。聡はその様子を興味深そうに見つめる。

聡「おおぉ…なんかすげぇ」

律「う、ううぅ…さと、しいいぃ…」

体のざわめきが落ち着いてくると、律は息を切らせながらその気持ち悪い感覚に耐えた。

律「…っ…はぁ。折角元に戻れたのに、何すんだ!!」

再び変身し、牙をむいて怒った律を見て、聡は肩をすくめて申し訳なさそうに笑った。

聡「だって、なんかすげぇんだもん」

律「…まぁいいや。とにかく、誰にも言うなよ?お父さんとお母さんにも内緒。じゃないと――」

律が意地の悪そうな笑みを浮かべて聡を睨んだ。覗いた牙と、鋭い眼光に、聡は思わず身を震わせる。

聡「わ、わかったよ!」

律「――だいだい元に戻るまで二十分か」

腕と足から引いていく体毛を見つめて、律は呟いた。

聡「それにしても、なんか俺が思ってた狼人間とイメージ違うなぁ」

どこかつまらなさそうな声で、聡がぼやく。

律「どういうことだよ」

聡「いや、なんていうかさ…もっと完璧に狼になっちゃうイメージあるじゃん。だけど、姉ちゃんは腕と足ぐらいだろ?思い切り見た目が変わってるの」

律「牙も生えるし、瞳もちょっと変わるけど…。あ、あと、なんか凄い体が軽い。身体能力が上がったりしてるのかな」

とんでもない馬鹿力も発揮できるしな、と律は苦笑しながらポスターを貼り付けたドアを見た。

聡「ふーん…。まぁ、半狼人間ってところだね。でも、一体何でこんなことに?」

律「それがわかったら苦労してないっての…」

律は重々しいため息をついた。

律「とにかく、みんなにばれないようにしないとな」

聡「でも、かっこよくて良いと思うけどなぁ。自慢できるよ」

律「お前なぁ…気持ち悪がられるに決まってるだろ。怖がられるよ。第一お前もぶっ倒れたじゃん」

聡「…そうだね」

律「――軽音部のみんなには絶対ばれないようにしたいな…。みんなに怖がられるなんて…絶対嫌だ…」

弱々しい声で呟く姉の姿を見て、聡は顔を引き締めると手を叩いた。

聡「よし!姉ちゃん、特訓しよう!変身しても、すぐに元に戻れるように!」

律「は、はぁ!?」

突拍子もない提案に、律は素っ頓狂な声を出した。

聡「というわけで、はい♪」パカッ

有無を言わせず、再び聡は律の前でゲームのパッケージを開いた。

律「あぁあっ!!聡いいいいいぃ!!…くっ!」

ニヤニヤ笑う聡に歯向かうこともできず、再び気味の悪い感触に表情を歪める律。

聡(うおお!面白れぇ!!)

――その後も律の悲痛な声はずっと続いた。



翌日。

律「おはよ…」

律母「おはよう。どしたの、元気ないわね」

律「あはは、平気平気」

やつれた顔に笑みを浮かべ、律は食卓に着く。

昨晩ずっと変身を繰り返したせいで、心身ともにぼろぼろだった。

しかし、特訓の成果は現れた。

普通にしていれば元に戻るまで二十分ほどかかるが、体の底からわきあがってくるものを押さえ込もうとすることで、その時間を短縮することが可能になった。

その点は聡に感謝しなくてはならず、面白半分でいた彼をぶん殴りたかったが我慢した。

律「いっただっきまーす」

とにかく、学校ではぼろが出ないようにしなくては。

ご飯を頬張りながら、律は改めて自分に言い聞かせる。と、

律「あ゛」

迂闊だった。律の目に、目玉焼きの綺麗な黄身が映る。

律「へぁっ!!」

聡「うぉっ」

背筋を走る戦慄。律は慌てて鞄を引っつかむと、立ち上がった。

律「い、いってきます!!」

律母「え、もういらないの?そんなに急ぐ必要ないでしょう?」

律「ご、ごめん、お母さん!」

律は猛ダッシュで玄関へと駆けていく。

律母「…どうしたのかしら?変な子ね」

聡(…あんなので本当に学校大丈夫かな…)

律「はぁ…駄目だ。かなり気をつけてないと、簡単に変身しちゃうぞ…」

体毛に覆われた腕をさすりながら、律は車庫の中で一人呻いた。

律「もしみんなの前で変身したら…すっげぇ騒ぎになりそうだなぁ」

律(ふぅ…冷静に、冷静に…平常心で――)

ゆっくりと深呼吸しながら、律は元の姿に戻ることに努めた。



学校

律「おっはよー!」

クラスメイト達「おはよー」

いつもと変わらない笑顔で、律は挨拶を交わしながら自席に着く。

律(なんか…丸い物を見ないように気をつけようとすると、逆に丸い物を探しちゃう…。駄目駄目、いつも通り、普通にしてりゃ大丈夫――)

唯「りっちゃんおはよー」

律「ぎゃっ!」

唯「うぇっ!?」

律「あぁ…唯か。おどかすなよー…」

唯「それはこっちのセリフだよ~…」

しかめっ面をしながら席に着く唯。悪い悪い、と律は軽く謝った。

それから、後でやって来た紬とも挨拶を交わし、HRを終え、授業も順調に進んでいった。

律「ふぃ~…」

唯と紬と共に、三人で昼食の弁当を食べながら、律は大きくため息をつく。

紬「どうしたの?りっちゃん、ずいぶん疲れてる感じね」

律「ん?いやいや、りっちゃんはいつでも元気ですぜ。ただ、さっきの授業内容が難しかったなぁって」

唯「あぁ~難しかったね。私もうよくわからなくて、いつの間にか寝てたもん」

律「おい」

上手くごまかしながら、律はいつもと同じように会話を弾ませる。

途中、唯のお弁当に入ったゆで卵が目を掠めたが、何とか変身は押さえ込んだ。


昼休みが終わり、午後の授業に入った時のことだった。

数学の授業の準備をしていた律は、今日習う範囲を確認して、愕然とした。

律(え、円の性質…!?)

おそるおそる教科書を開けてみるが、すぐに閉じた。

至る所、円だらけだ。

律(く…どうする?授業休ませてもらうか…?)

だが、悩んでいる内に先生が教室に入り、授業は始まってしまった。

この授業の先生はなかなかの堅物で、本当に具合が悪そうに見えなかったら、あまり中抜けを許してくれないのだ。

変身を耐えているときは具合が悪く見えるだろうが、それから抜けるのを頼んでいるようでは間に合わない。

律(く、くそ…。こうなったら、一時間耐え抜いてやるぜ…。昨日の特訓を思い出せ、私!)

そうやって、気合いを入れて授業に集中するものの、なかなか教科書を見ることが出来ない。

黒板の文字に集中し、律は一心不乱にノートを取り続けた。

律(辛い…時間が長く感じる…)

一体何分経っただろうか。時計を見ることも出来ない。

いつボロが出てもおかしくない状況に、心臓が暴れている。

小さく深呼吸を続けつつ、律は鉛筆を動かす。と、

先生1「で、教科書49ページのこの図だけど…」

先生が、黒板にコンパスを使って、綺麗な円を大きく描いた。

律(ちょっおま…)

ぞっと、背中にざわめきが走った。

慌ててノートに視線を落とし、歯を食いしばってわき上がるものを堪える。

律(駄目だ駄目だ!我慢我慢我慢!!)

円を見たのが一瞬だったからだろうか。

何とか耐え抜くことが出来、ゆっくりと体が落ち着きを取り戻していく。

しかし――

先生1「…であるから、この円の半径は――」

律(う、うぅ…黒板が見れない…)

何とか変身は抑えたが、いまだに黒板には綺麗な円が描かれていた。

生徒1「…律ちゃん?大丈夫?具合悪いの?」

頭を押さえたまま俯いている律を見て、隣の生徒が心配げに声をかけてくる。

律「ん?あ、あぁ、へーきへーき。あんがとね」

ニカッと笑い、出来るだけ平然を装って応える。それを見て安心したのか、彼女も微笑んで前に向き直った。と、

先生1「ん?どうかしたのか、田井中?」

会話が耳に入ったのか、先生が声をかけてくる。

律「ふぇっ!?な、何でもありません」

先生1「そうか?んじゃあ、この問題解いてくれ。50番の、円の作図。簡単だから、すぐ出来るだろ」

律(――!!)

先生が教科書を見ながら黒板を指さす。

円の作図なんて…できるわけがない!

律(ちょっ、ど、どうしよ…)

だらだらと、背中を汗が流れる。

律(ま、まだ授業終わらないのか…!?)

ちらりと時計に目をやる、が。

律(おふぅっ!!)

円形だったことを忘れていた。汗びっしょりの背中にざわめきが走る。

律(こ、このタイミングでっ…馬鹿だろ私!!)

先生1「?どうした、田井中。ちゃっちゃと済ませてくれ」

律「…は、はい…」

律は震える足でゆっくり立ち上がると、なるべく黒板を見ないようにしながら前にでる。

その間も、体のざわめきが止まらない。

律(駄目だ、もう…抑えられない…!)

腹を決めたその時、救いの鐘が鳴った。

キーンコーンカーンコーン…

先生1「お、もうそんな時間だったのか。すまん田井中。その問題はまた今度頼む」

律「は、はい!」

号令が終わると、律は慌てて教室を飛び出し、トイレへと駆け込んだ。

律(ギ、ギリギリセーフ…)

一番奥の個室に入った時には、腕に毛が生えかけていた。

律(危ない危ない…いやいや、安心するのは早いか。早く元に戻んないと)

律は歯を食いしばって、体の奥からわき上がってくるものを押さえ込むことに努めた。


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最終更新:2010年11月20日 23:04