潮「はぁー授業疲れるなぁ~…」
慶子「ホント、私もう眠くて眠くて…」
信代「朝練があると疲れるよなぁ」
談笑に花を咲かせながら、生徒三人がトイレへと入る。と、
「ううぅ…く、う…はぁ、はぁ…」
慶子「!?」
潮「な、何…何今の?」
信代「ん?どうかした?」
二人の反応に、思わず声をひそめて訊ねる信代。
口に指を当てる二人の様子を見て、彼女も口をつぐんだ。
「はぁっはぁ…ぐ、うぅ…」
慶子・潮・信代「――~~…!!!」ゾゾゾッ
トイレの奥から聞こえてくる苦しげな呻き声に、三人は声を失って抱き合った。
信代「な、何だろ…?」
潮「ちょ、やめなって」ヒソヒソ
おどおどしながらも興味本位で声が聞こえてきた方へと近付く信代。ただただ震えたままその場に立ち尽くす潮と慶子。その時。
バキャッ!!
乾いた破壊音が鳴り響き、三人は飛び上がりそうになるほど驚いた。
潮・慶子「ひぎゃああああああああっ!!」
信代「うほおおおおおおおおぉおお!!」
甲高い悲鳴を上げながら、三人はものすごい勢いでトイレから逃げ出した。
律「ふぅ…なんとか収まってくれたけど…手すり壊しちゃったな」
ぼやきながら律は個室から出る。
知らぬ間に力を入れすぎていたのだろう。きつく握りしめていた手すりは、片方の端が壁から外れてしまっていた。
律「しゃーない…職員室に報告だけしとくか」
事情を聞かれたら困るので、ちょっと体重かけたら壊れたということにしておこう。
そう思いながら、律は職員室へと向かった。
慶子「の、呪いよ…トイレの花子よ…!!」
潮「違うよ!あれはきっとトイレで溺れて死んでしまった地縛霊なんだよ!!」
信代「なにそれ…。違う違う。きっと誰か便秘だったんだって」
トイレから離れた廊下で、三人はさきほどトイレで聞いた呻き声の正体について議論を続けていた。
信代「呪いだの地縛霊だの…そんなのあるわけないよ」
潮「一番凄い悲鳴上げてたくせに」
信代「なっ!いいさ!!じゃあもう一回行こうじゃないか!」
慶子「え、えぇ~…」
信代「あ、もしかして怖いわけ?」
慶子「こ、怖くなんか無いよ!いいじゃん!行こう!!」
潮「え~…ちょ、ちょっと待ってよ~…」
潮「ホントに戻ってきたし…」
慶子「ほら、入って」
信代「え、あ、あたしから…?」
慶子「当たり前じゃない!ほら!」
信代「わかったよ…」
改めて静かにトイレに入る三人。しばらく黙っていたが、呻き声は聞こえない。
慶子「み、見に行ってみて。一番奥」
信代「ちょ、行くならみんなで行こうよ」
おそるおそる、一番奥の個室をのぞき込む三人。中には誰もいなかった。が、
潮「ひ、ひいいいい!!」
へし折れた手すりを見て、潮は震え上がった。
慶子「きゃああああ!やっぱりそうじゃない!地縛霊が苦しさのあまり暴れたんだって!!」
信代「ち、ちちちちち違うって!そう!きっと誰かがふんばった勢いでぶっ壊しちゃったんだ!きっとそう!」
恐怖のあまり訳のわからぬ事を叫ぶ三人。そこへ。
がたん
さわ子「あなたたち――」
三人「qあwせdrftgyふじこlp!!!!!11!1!!!」
突然声をかけられ、三人は狂ったように悲鳴を上げつつ、トイレから逃げ出した。
さわ子「…?」
律に頼まれて手すりの確認に来たさわ子は、彼女たちの様子に眉をひそめて、ただ呆然としていた。
放課後。
律「ふぇー…一時はどうなるかと思ったぜ…」
一人ぼやきながら音楽室へと向かう律。あの数学の授業以降は、普通に過ごすことが出来た。
頬を叩いて気合いを入れ直した後、律は準備室のドアを開けた。
律「おいーす」
澪「遅いぞ部長さん」
梓「一番最後ですよ…」
律「あは、悪い悪い。ちょっとさわちゃんと話しててさ」
HRが終わった後、廊下を歩いていると急に呼び止められたのだ。
その真剣な面持ちに、律は内心焦った。もしかして、ばれたのか、と。が、彼女の口から飛び出した言葉はあまりにも拍子抜けな物だった。
さわ子『りっちゃん…あなた、ダイエットしなさいね?』
律(…体重かけたら壊れたなんて言い訳、するんじゃなかったな…)
手すりの壊れ具合を見て、さわ子は愕然としたのだろう。
律(普通は疑うだろうけど…アホの子さわちゃんに感謝だな)
紬「そうそう、今日はチーズケーキ1ホール持ってきたの」
唯「わーい!チーズケーキ!チーズケーキ!」
はしゃぐ唯を尻目に、律はいつもの席に着く。
律(ん、待てよ…。チーズケーキ…1ホール…!?)
机の上に、まん丸に焼かれたチーズケーキが置かれた。
律(げっ…!)
皆に悟られないように、律は何気ないそぶりでケーキから目を背ける。
律「…ムギー、紅茶砂糖少なめでよろしくー」
紬「わかったわ」
律(うぅ…ムギ、早く切り分けてくれ…)
紬「さて、あら…ナイフはどこかしら?」
ゆったりとした動作で、紬は切り分けるためのナイフを探す。
なかなか見つからないのか、もたもたしている。
梓「もー…練習しましょうよぉ」
待ちきれないといった面持ちの唯を見て、梓が不満げに呟きを漏らす。
唯「あずにゃんったらぁ。ケーキ食べたいくせにぃ」
梓「そ、それは…そうですけど…」
そうか、練習を先にやれば良いんだ。そのうちにむぎが切ってくれるだろう。
律は鞄からスティックを取り出しながら、ドラムに目をやる。が、
律(う、うおっ!!)
円形の集合体――それがドラムだった。慌てて目をそらす律。
梓「…?どうしたんですか、律先輩。珍しいですね、お茶より先に練習するつもりですか?」
律が机の上に置いたスティックを見て、梓が少し驚いたように訊ねる。
律は引きつった笑みを浮かべて、そんな彼女を見た。
律「はは…言ってくれるねぇ。私が練習熱心だと、そんなにおかしいかい?」
梓「あ、いや、そういう訳じゃなくて――そ、そうだ!ムギ先輩がケーキ切り分けて下さるまで、ちょっと合わせてみませんか!?私、新曲あやふやなところがあって」
上手くごまかした梓の提案に、律は喜ぶべきか悲しむべきかわからなかった。
とにかく、ここで返答に詰まっては怪しまれる。
律「んー、別にいいぞ!じゃ、やるか!」
澪「ほぉ…珍しく律が部長らしく見えるな」
律「お前ら、ホント失礼だな…。私だって見えないとこで頑張ってるんだぞ…」
律(梓の演奏に集中しよう…。ドラムからは出来るだけ視線を外すんだ…)
梓「――あっ…また間違えちゃった…。このパート難しいんですよね…」
律「んじゃ、ここ繰り返しやってみるか」
できるだけ平然を装って、律はスティックを握りなおす。
驚くほど手汗が出ていて、ドラムを叩いている内に滑って飛んでいきそうだった。
唯は頬杖をついて机の上のチーズケーキを眺めていたが、待ちきれなくなって、紬を振り返って急かした。
唯「ムギちゃ~ん…まだナイフ見つからないの?――ムギちゃん?」
ナイフを探していた紬は、いつの間にか手を止めて、練習に努める律と梓を見つめていた。
声をかけられて、びくんと肩を振るわせると、紬は慌てて棚を漁る。
紬「ご、ごめんなさい、ぼーっとしてたわ…。えーっと、確かこのへんに…あった!ごめんね、唯ちゃん。待たせちゃって」
唯「ううん。私もごめんね。何だか急かしちゃってさ」
ようやく見つけたナイフで、紬はチーズケーキを丁寧に切り分けていく。
澪「二人共、ケーキ切れたぞ」
律「あいよ~。じゃあ、あと一回だけやってお茶にしようぜ」
梓「はい!」
律の練習熱心な姿が嬉しいのか、梓が満面の笑みで頷く。
律(私って、そんなに練習サボってるように思われてるのか…?)
落胆しながらスティックを構える律。
自分でも知らないうちに結構ショックを受けていたようで、すっかり気をつけなければいけないことを忘れていた。
律「あ」
思いっきりドラムの円形が目に入る。律は慌てて全身に力を込めた。
律(ちくしょう!忘れてた!!)
わき上がるものとの葛藤が始まる。
梓「…律先輩?始めないんですか?」
カウントを取るためにスティックを構えたままの姿勢で固まる律を見て、梓が不思議そうに首をかしげる。
律「あ、あぁ…いくぞ」
怪しまれないためにも、律はそのまま無理矢理演奏に入った。
体を走るざわめきを押さえ込みながらの演奏は、いつもより力が入ってしまい、つい走りがちになってしまう。
澪「おい律。また走ってるぞ。肩の力抜いた方がいいんじゃないか?」
律(無理です澪さん…)
紅茶をすする澪の助言に応えることも出来ない。
ざわめきが、体を徐々に支配してくる。まずい。押さえきれない。
律「…っ…」
バキッ!!
力を込めすぎたのだろう。スティックが、握ったところで真っ二つにへし折れた。
梓「わっ!だ、大丈夫ですか?律先輩!」
乾いた音に驚き、梓が演奏を中断して振り返る。
額が冷や汗だらだらなのを悟られぬよう、袖でおでこを拭いながら律は笑った。
律「あちゃ~…寿命がきてたのかな…。これじゃ練習になんないよ…。ごめんな、梓」
立ち上がって、律は鞄を引っ掴み、皆を振り返った。
律「みんなもごめん!新しいスティック買いに行くから、私先帰るわ!じゃな!」
急いで部室を飛び出す律。皆はその背中を、何も言い返せずに見送った。
唯「あ…チーズケーキ食べていけばよかったのに」
紬「しょうがないわ。りっちゃんの分は、唯ちゃんが食べてあげて」
唯「うわーい!りっちゃん隊員…あなたの遺した物、決して無駄にはしませんぞ!」
澪「何言ってるんだ…」
部室を出た瞬間、腕と足に体毛が現れた。
律「うお…危なかったぁ…」
とりあえず、最悪の状況は避けることが出来た。後は、誰にも見つからないように変身を解かなければ。
他の生徒も部活中で、廊下に人気はない。
律(またトイレにでもこもるか)
律は階段を一気に飛び降りると、素早くトイレに駆け込んだ。
律「おぉ…すげぇ…」
身体能力の変化に、自分でもビックリする。
律「さて、と…」
例のごとく、律は一番奥の個室に入り、念じることに努めた。
その後、変身を解いた律は、早めに学校を出て、いつもの楽器屋で新しいスティックを購入し、帰宅した。
聡「あ、おかえり、姉ちゃ――」
庭でサッカーボールをリフティングしていた聡が出迎える。
律「あああああぁいっ!!」
聡「ちょおおお!」
彼が目に入った瞬間、律は地を蹴って駆け、思い切りサッカーボールを蹴っ飛ばした。
車庫の隅に固めてあった、積まれた本やダンボールの中にそれはつっ込み、埃を舞い上げて隠れてしまった。
律「…ふぅ…」
聡「…もうすっかり円形恐怖症だね…」
成し遂げた笑みを浮かべて汗を拭う姉を見て、聡はため息をついた。
律「今日は大変だったぜ…。ちょっと丸っぽいもの見ただけで、すぐ体が反応しちゃうんだもん」
リビングでぐったりと横になる律。その隣でアイスをくわえながら、聡は話を聞いていた。
聡「へぇ…。ま、まさか授業中に変身したりしてないよね?」
律「何回かやばいのがあってさ」
体を起こして、律は参ったように頭を掻く。
律「数学の時間に円の問題あてられるし、部活では目の前に丸いケーキ置かれるし、ドラムは円の集合体だし…」
聡「うわぁ…。大丈夫だったの?」
律「ぎりぎりで。しっかしどうすっかな…。こうも簡単に体が反応しちゃ、そのうちボロが出そうだぜ」
聡「じゃあさ!昨日みたいに特訓しようよ、毎日!今度は押さえ込む練習だけじゃなくて、簡単に変身しないようにさ!」
律「聡…お前なんか楽しそうだな」
聡「えへへ…そりゃだって…面白いじゃん」
律「こいつぅ…人の苦労も知らないで…この!」
律は聡の首に腕を回すと、チョークスリーパーをかける。
聡「わー!ごめんなさい!!ギブギブ!」
律「…ま、やらないよりはマシだろうしな…。よし!お母さん達が帰ってくるまで、ちょっと付き合ってよ」
律「ぐるるるるるぅ~…」
聡「――何で風船見ただけで変身しちゃうのさ…」
頭を抱えて呻る狼化した律を見て、聡が呆れたようにぼやく。
律「あのな、私だってなりたくてなってるんじゃないんだぞ。何で変身しちゃうかって?そこに丸い物があるからさ」
聡「なにかっこつけてるの…」
自分がふくらませた風船ををまじまじと眺めながら、聡は頭を掻く。
聡「丸だと思うから駄目なんじゃないかな。ほら、これは…えーっと…そう!いびつな形をしたよくわからない物だよ!」
律「えー…そんな簡単に済むものなのかな…」
聡「だってさ、実際変身しちゃった後も、戻りたいって思えば気合いですぐに戻れるんだろ?ようは気の持ち様だって!」
律「んーまぁ確かにそうだけど…」
聡「せめて、綺麗な円形をしてない物は見ても大丈夫になりたいよね」
風船を放り捨て、後ろを振り返る聡。
彼の背後には、様々な円形の物体が並んでいた。
律「……」
律はふわふわと宙を舞う風船を目掛けて腕を振るう。爪が薄いゴム膜をすっぱりと裂き、破裂音が響いた。
聡「うわっ!!?ちょ、ビックリさせないでよ!」
律「ん、悪い悪い」
律(力のセーブの仕方も、ちゃんと特訓しといた方がよさそうだな…)
恐ろしく鋭い爪と、扉に空いた穴を交互に見つめ、律は小さくため息を吐いた。
翌日、律はたびたび危ない場面に出くわしたが、先日とは違い余裕を持って乗り越えることができるようになっていた。
先生1「んじゃ田井中。昨日あたってたとこ、やってくれるか」
律「は~い」
律(わざといびつな形に描いてっと…)
律「できました」
先生1「おぉう…まぁあってるっちゃあってるが…汚い円だな」
律「答えが合ってればそれで良いんですよ!」
紬「りっちゃん、昨日ケーキ食べさせてあげられなくてごめんね。お詫びにマカロン持ってきたの」
律「ん?あ、あぁ、そんな気使わなくてもよかったのに!私が勝手に帰っちゃったんだし」
律(ピントをずらせば、なんとかいけるな…)
紬「でも、私がちゃんとナイフ用意してなかったせいだし…もらってくれる?」
律「…それじゃ、お言葉に甘えていただこうかな。でも、ホントそんなの気にしなくていいからさ」ヒョイパク
律「お!うめぇ!!ありがとな、ムギ!」
紬「……」
律「…どした、ムギ?私の顔、何か付いてるか?」
紬「え、あ、ううん。ごめんなさい、ぼーっとしてたわ」
部活中もボロを出すことなく、いたって普通に過ごすことが出来た。
帰宅後は両親が帰ってくるまで聡と共に特訓に努める。
そんな毎晩の特訓のおかげもあってか、ようやく律はこの体での生活に慣れ始めていた。
焦点を外すことで、少しぐらいなら丸い物を見ても大丈夫。
たとえはっきり見てしまっても、一瞬なら変身を押さえ込むことも出来る。
律(でも、結局何でこんな体になっちゃったのかはわからずじまいなんだよなぁ)
原因がわからない限り、普通の体に戻ることは無理だろう。
律(ま、この調子だとこの体でも今まで通りにできそうだけど…)
そんなこんなで、誰にもばれずにいつも通りの生活を送り始めていた、ある日のことだった。
最終更新:2010年11月20日 23:05