律「いっつ…!」

部活中、楽譜の整理をしていた律は、指に走った鋭い痛みに危うくそれをばらまきそうになった。

律「あいた~…指切っちゃったよ…」

唯「え?うわ、ほんとだ…痛そ~…」

律の人差し指を真一文字に走る、小さな切り傷。そこからじわりと血が滲む。

律(…そうだっ)

律「――なぁ澪、指切っちゃったんだけど」

些細な悪戯心が芽生え、痛い話が駄目な澪に律は話題を振る。

いつもなら澪は耳を押さえ、悲鳴を上げながら飛んで逃げるだろう。ところが、

澪「……」

律「…み、澪さん?」

あろう事か、彼女はいつの間にか傍に来ていて、じっと律の指を見つめていた。

律「え、な、何?どうしちゃったんだよ?澪って、血とか駄目だっただろ?」

澪「……」

無言で傷を眺める澪の様子にまごつき、律は手を引っ込めようとした。

しかし、澪はその腕を掴むと、自分の顔の前に律の手を持ってきた。

律「い、いてぇ!腕が変な方向に曲がっちゃうって!おい澪!!」

いつもの澪らしからぬ行為に、唯も紬も梓も、ポカンとしながら菓子をつまむ。

しばらく澪は律の指を眺めていた。そして――

律「――…なっ!!?」

澪は、無言のまま律の指をくわえ込んだ。

紅茶を口にしていた梓が、顔を真っ赤にして思い切りそれをぶちまけた。

状況が理解できず目が点状態の唯と、二人をガン見たまま固まっているの紬にも、紅茶の雨がかかる。

律「な、ななな…っ…ちょ、ちょっと、澪!!」

赤く火照った顔に焦りを浮かべ、律はもう片方の手で澪の体を揺さぶる。

澪「ん…は、あれ?」

ずっと律の指をくわえていた澪は、ハッとしたように顔を上げた。

律「お、おい澪…一体どうしたんだよ?」

まだ澪の舌の感触が残る指をちらりと見て、律は顔を赤らめたまま眉をひそめる。

澪「え?何が?」

律「何がって…!その、きゅ、急に私の指…舐めだして…」

澪「…は?」

澪「私が?」

律「…」コク

澪「舐めた?」

律「う、うん…」

澪「律の指を…?」

律「そうだよっ!!恥ずかしいんだから、いちいち聞くなよ!!ってか、何で――」カアァ

澪「……!!」カァッ

律と同様に赤くなって、澪は無言で鞄を引っ掴むと踵を返した。

澪「先帰る!」

律「え!?いや、ちょっと!澪!!」

逃げるように部室から立ち去る澪。律は困惑の表情を浮かべ、ただ彼女を見送ることしかできなかった。

唯「どうしたんだろ、澪ちゃん。変だよね、自分からやっておいて照れちゃうなんて」

梓「無自覚の内に体が動いてた、とか…」

梓が派手にぶちまけた紅茶を拭くのを尻目に、紬は真剣な面持ちで澪が出て行った扉を見つめていた。

紬「――まさか…」

律「…むぎ?」

紬「えっ?いや、澪ちゃん大丈夫かなぁ…」

すぐにいつも通りの笑みを浮かべ、顔に付いた紅茶を拭う紬を見て、律は首をかしげた。


澪(私が律の指を舐めた…?)

澪(自覚無いけど…あの空気は嘘付いてる雰囲気じゃなかったよな)

早足で学校を出ながら、澪はずっと悶々としていた。

知らぬ間に体が動いていて、気付いたら真っ赤な顔をした律が自分を見つめていたのだ。

律の指を舐めた覚えはない。

澪(……)ボッ

澪「は、恥ずかしい…」

自分で考えておいて恥ずかしくなった澪は、顔から湯気が出る思いをしながらそそくさと帰路についた。



翌日。

澪(なんでだろ…やけに目がさえて、なかなか眠れなかった…)

雲ひとつない空から照りつけるさわやかな朝日を浴びながら、澪はぼーっとする頭で学校へと向かう。

寝不足のせいか、やけに頭がガンガンするし、日差しが肌に刺さるようにちくちくする。

澪(それになんだか――すごく喉が渇く…)

時折顔を覗かせる堪え様のないこの喉の渇きは、何杯水を飲んでも消えることはなかった。

澪(風邪気味なのかな…)

ふらふらする頭を軽く振って、澪は校門をくぐった。

校舎に入ると、ずっと澪の頭を支配していたもやもやとした気持ち悪さはすっと引いていき、体調もだいぶよくなった。

澪(あれ…一体なんだったんだろ…?)

和「澪、おはよう」

背後から声をかけられて、澪は振り返る。和が靴箱から上履きを取り出しながら微笑んでいた。

澪「え、あぁ和。おはよう」

和「…?どうしたの?あまり顔色が良くないみたいだけど」

澪「やっぱりそうかな?何か、朝から調子悪くて…」

和「そう…。そういえば、昨日唯も澪の様子がおかしいって心配してたわ。無理しちゃ駄目よ」

澪「唯が?」

澪(あぁ…昨日のあれか…)

思い出しただけで、また顔が熱くなる。急に真っ赤になった澪を見て、和が心配げに表情を曇らせた。

和「だ、大丈夫?熱あるんじゃない?」

澪「だだだ、大丈夫大丈夫!さ、早く教室に行こう!HR始まっちゃう」

慌てて和から顔をそらし、澪は教室へと向かう。

程なくして授業が始まったが、朝感じていた頭痛などはすっかり収まっていた。

再び体に違和感を感じたのは、午後の授業を受けているときだった。

先生2「――次にこの文は――(ふっ…この時間をずっと待っていたよ。愛しの秋山のクラス…。最高だ)」

高くのぼった太陽からは、温かい日差しが教室の中に差し込んでくる。

窓際の席に座った澪は、開いた窓から流れ込む風に心地よさを感じるも、朝と同じ体の違和感に頭を抱えていた。

澪(ん…なんか、頭が痛い…)

澪はずきずきとする頭を押さえ、重い息を吐いた。

先生2「…つまりここには所有代名詞のmineが――(ため息をつく秋山の憂鬱げな表情も美しいなぁ。ハァハァ)」

和「先生。その文の日本語訳、”その秋山は私の物です”になってますよ」

先生2「ん?お、おぉ…。す、すまない、次、秋山を当てようと思ってたんだ。それじゃ秋山、この文を――」ドキドキ

先生2は顔を上げ、澪が珍しく授業中に机に突っ伏しているのを見て固まった。

先生2「お、おい秋山!!どうした、気分が悪いのか!?」

澪「え…えっと、あの…はぁ…」

ガンガンとこめかみを殴られているような頭痛と、照り付けてくる日差しが鬱陶しくて、澪はやつれた顔で先生を見やる。

和「澪…酷い顔してるわよ…。保健室、ついて行こうか?」

澪「え、でも…授業が…」

先生2「無理をしてはいけないぞ秋山!抜けたところは私が後で個人授業してやるから、早く行きなさい!」ハァハァ

澪「えっと、それは大丈夫です…。自分で復習しますから…」

和「じゃ、行こう?」

絶望に打ちひしがれた面持ちの先生2を尻目に、澪は和と共に教室を出た。



放課後。

ベッドで一眠りしてだいぶ楽になった澪は、とりあえず部活に顔を出すことにした。

澪「おす」

準備室に入った澪を出迎えたのは、心配そうに表情を曇らせた律だった。

律「澪!和から聞いたぞ!大丈夫なのか!?」

澪「り、律…」

慌てて駆け寄ってくる律を見て胸が熱くなると同時に、昨日の出来事を思い出して顔も熱くなる。

律「お、おい…やっぱ熱あるんじゃないか?」

澪「いや、その、もう平気だけど…昨日さ…」

律「あー…あれな。もう気にすんなって」

ぽんぽん、と背中をたたいて澪を机に促す律。唯と梓も心配げな表情で澪を見ていた。

唯「びっくりしたよ…あの澪ちゃんが、授業欠課するなんてさ。もう大丈夫なの?」

澪「うん、平気。ごめん、心配かけて」

梓「疲れたときは、無理せず休むのが一番ですよ」

優しく声をかけてくれる皆に、澪は小さく微笑む。

紬「待っててね、澪ちゃん。すぐにお茶とケーキを用意するわ」

紬が紅茶を入れながら、澪を振り返った。

皆、全然昨日のことを気にしてはいないようだ。

澪(私一人テンパッちゃって…恥ずかしいな)

澪は自分の髪をきゅっと握り締め、小さくなった。と、その時。

紬「あっ…!!」

紬が小さく悲鳴を上げ、床にナイフが転がった。

皆、驚いて彼女を振り返る。紬は片手を押さえて蹲っていた。

紬「あいたたた…」

律「大丈夫か!?むぎ」

紬「大丈夫、心配かけてごめんなさい…。ちょっと手元が狂って、ナイフで切っちゃった…」

律「大丈夫じゃないじゃん…。見せてみ」

紬の手を取りのぞき込む律。傷は深くなかったが少し大きく、血が流れ出していた。

さすがの律も、少し目を背けたくなる。

律「うわ…こりゃ保健室行った方が良いよ」

梓「大丈夫ですか、むぎ先輩!」

唯「む、むぎちゃ――」

唯の言葉は、急に椅子を蹴るように立ち上がった澪に驚かされて、そこで止まった。

律「澪…?」

怪訝な表情をする律の横でしゃがみ、澪は紬の手を――そこから滴る赤い血を見つめる。

澪は律から紬の手を奪い取ると、無言のまま、彼女の傷に口をつけた。

唯「!!」

梓「!?」

律「うぇっ!?ちょ、澪!!」

慌てて引き離そうと、律が澪の肩に手をかける。が、澪は紬の手に口付けたまま動かない。

律「澪よせって――」

澪に声をかけながら、肩に置いた手に力を入れる律は、ちらりと紬に目をやる。

律「…?」

紬は自分の手を無我夢中で舐める澪を、無言で眺めていた。

だが、彼女の顔は、驚いて放心しているというよりも、どこか観察をしているような…そんな感じがした。

紬「…っ。み、澪ちゃん!!どうしたの!?」

少し間をおいて、紬がハッとした様に澪の口から強引に手を離す。

澪「…あ、わ、私…」

今度は少し自覚があったのだろうか。何か取り返しのつかないことをしたかのような蒼白な顔で、澪は紬を見た。

紬「大丈夫?澪ちゃん…やっぱり疲れてるんじゃ…」

澪「う、いや…私、何でこんな…」

律「澪、とりあえず落ち着けって」

涙目になって震える澪の手をとり、律は小さく語りかける。

澪はその律の手を、きつく握り返す。よっぽど自分の異変を怖がっているのか、すごい力だ。

律(いつつ…)

律「唯、むぎを保健室に連れて行ってやってくれ」

唯「あ、う、うん!」

律と澪、梓の三人だけになった音楽室で、澪は律の手を握り締めたまま、ただ震えていた。

律「…どうしちゃったんだよ、澪」

澪「うぅ…わかんない」

梓「……」

静寂が、重く三人にのしかかる。

澪の握力はかなり強くて、律は手の痺れる様な痛みに彼女の手を振り払ってしまいそうになった。だが、

律(ここで澪の手を払ったら、澪は立ち直れないだろうな…)

親友のために、律はばれないように歯を食いしばって我慢する。

と、澪は黙ったまま律から手を離すと、ふらふらと鞄を手にした。

澪「ごめん、今日も…先に帰るな」

律「澪…」

梓「…ゆっくり休んでくださいね」

何も言わずに出て行く澪の背中にかけてやる言葉が見つからず、律は居た堪れない思いで彼女を見送ることしかできなかった。



さらに翌日。

終わりのHRの前、律は教室の机に座って、ぼんやりと窓の外の空を眺めていた。

律(澪…一体どうしたんだろ…?)

ちらり、と自分の右手を一瞥する。

昨日澪に握られていたその手は、少し痣ができていた。

いくらなんでも、握力が強すぎるような気もする。

律「…まさかな…」

ぽつりと呟き、その痣を指でなぞる律。と、

唯「何がまさかなの?りっちゃん」

律「うおおおおぃ!!?」

突如声をかけられ、律は椅子をひっくり返しそうになるほど驚いた。

机の向かい側に立っている唯も、驚いて目をぱちくりさせている。まったく気付かなかった。

律「び、びっくりした…。唯、いつの間にいたんだよ?」

唯「いつの間にって…失礼だなぁ。もうちょっと前からいたよ!りっちゃんが珍しく憂鬱げな顔してたから、声かけるの我慢してたのに」

ぶぅと頬を膨らませて唯は不機嫌そうにぼやく。

唯「むぎちゃん、部活ちょっと遅れるって」

律「ん、そうか。あれ?HRの前なのに、どこ行ったんだ?」

唯「わかんない。伝言だけお願いされたんだ」

律「そっか…。でも、良かったよな、むぎ。あんまり酷い怪我じゃなくてさ」

唯「うん…。澪ちゃんといい、むぎちゃんといい、大丈夫かな?」

肩をすくめる唯。律も小さく頷いた。確かに二人とも、最近少し様子がおかしい。

律「悩み事を無理に聞き出すのも悪いからな…。向こうから相談してくれるのを待ってようぜ」

担任が教室に入ってくる。唯はあわてて自分の席へと戻っていった。

澪(部活…どうしようかな…)

HRと掃除を終え、澪は教室で鞄を手にしたままぼーっとしていた。

昨日と一昨日のこともあり、部活に顔を出すのが少し憂鬱になっていた。

とりあえず教室を出て、ゆっくりとした足取りで部室へと向かう澪。と、

紬「澪ちゃん」

後ろから声を投げかけられ、澪は振り返る。紬が、真剣な面持ちで立っていた。

紬「…ちょっと、話があるんだけど…付き合ってもらえる?」

正直昨日のこともあって、紬とは二人きりになりたくないのが澪の本音だった。

だが、紬がこんなにも真剣な表情をしているのを見るのは初めてだった澪は、断るのを躊躇った。

澪「…うん、いいよ」

しばらくの沈黙の後、澪はしっかりと紬の方を向いて頷いた。


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最終更新:2010年11月20日 23:11