一方部室では。
梓「こんにちはー」
扉を閉めながら、梓は小首をかしげた。
梓「あれ?まだ律先輩しか来てないんですか?」
唯「失礼な!私もいるよ!」
ホワイトボードの影から身を乗り出して、唯は機嫌が悪そうに言う。
梓「わっ!す、すみません…全然気がつきませんでした」
唯「――私今日そんなに影が薄いかなぁ…」
紬の代わりに紅茶を入れようとしていた唯は、ポットを手にしたまま涙目になった。
澪「…こんな所で話すのか?」
紬に連れられて校舎裏へとやって来た澪は、怪訝な表情を浮かべる。
紬はやはり真剣な表情のままで、いつも浮かべている笑みのかけらも見せずに頷いた。
紬「あまり…人に聞かれたくない話だから…」
澪「それって…もしかして、昨日のこと関係してる?」
紬「――えぇ。澪ちゃんの体に起きている、異変にもね…」
思いがけぬ言葉に澪は驚き、問い質そうと口を開きかけたが、用務員が台車を押しながら傍を通ったので、彼女は慌てて口をつぐんだ。
澪「…それって、どういうことなんだ?」
ちらりと横目で用務員の姿を追いながら、澪は小さく問う。
視界の端に映った紬の表情が、曇ったような気がした。
紬「ごめんね、澪ちゃん」
和「あら…澪とムギ…」
生徒会長に頼まれ照明の点検に校舎裏に来ていた和は、遠くに二人の姿を認めた。
和(こんなところで何を――)
声をかけようと、二人に向かって歩き出しつつ口を開く。が、
和「…!!?」
驚愕の光景に、和は口をつぐんで立ち止まった。
紬が澪に手を伸ばしたかと思うと、突然澪がその場に崩れ落ちたのだ。
一瞬走った閃光で、紬がスタンガンを使ったのだと和は理解した。
慌てて傍にあった物置の影に和は身を隠す。
和(何…一体どういうことよ…!?)
紬「……」
ぐったりとした澪を、見下ろす紬。喉の奥が、つんとする。
紬はその場に跪くと、無言で澪を抱きしめた。その横に、先ほどの用務員が台車と共に戻ってくる。
古びた帽子を取って、紬に愁いを帯びた瞳を向けたのは、彼女の執事である斉藤だった。
斉藤「お嬢様…本当によろしいのですね?」
紬「…連れて行きなさい。お父様には私が連絡する。しばらくしたらあの人達も来るでしょうから、その後は全部あちらに任せて」
斉藤「…かしこまりました」
斉藤は台車に澪を乗せ、カバーをかぶせると、裏口へと向かう。
紬はしばらくその後ろ姿を眺めていたが、弱々しい足取りで、音楽室へと向かった。
紬「ごめんなさい、遅くなっちゃった」
偽りの笑顔と共に、部室へと入る紬。
律「…どこ行ってたんだよむぎ!遅いぞぉ!」
唯「…やっぱ紅茶はむぎちゃんが入れないとおいしくないよ!」
梓「唯先輩、派手にお茶っ葉ぶちまけてましたもんね…」
変わらぬ笑顔の仲間達が出迎えてくれ、紬は胸の奥が抉られる感覚を覚えた。
ただ、どこか…何かいつもとは違う空気が、音楽室を流れているような気もした。
紬「ごめんね、唯ちゃん。すぐにおいしいお茶入れるから」
鞄を置き、紬は茶菓子の準備に取りかかる。
と、律が大きくのびをしてから、ふいに口を開いた。
律「むぎ…澪、どこにいるか知らないか?何も聞いてないんだけど、まだ来てないんだ」
心臓が跳ね上がる。紬は振り返らずにティーセットを用意しながら返事を返す。
紬「…わからないけど、たぶん帰ったんじゃないかしら?最近、様子がおかしかったし…疲れてるのかもしれないし」
そう言い終わった紬は視界の端に、唯がこっちを見るのをかすかに捉えた。
一瞬伺えたその表情は、酷く悲しげな表情だったように思えた。
紬(…え…)
律「むぎ…」
紬「えっ、な、何?りっちゃん?」
律が静かに立ち上がる。振り返った紬が見たのは、悲しげな律の表情だった。
律「――嘘はやめるんだ」
紬「え――…」
扉が閉まる音がして、入り口の方を見ると、さわ子と和がそこにいた。
和「…澪をどうするつもりなの、紬…?」
眼鏡の奥から鋭い視線が紬に投げられる。紬は引きつった笑顔を彼女に向けた。
紬「えっと…どうするって、どういうこと?」
梓「むぎ先輩…無駄ですよ、とぼけるのは…」
震える声に、紬は梓を見る。潤んだ瞳が自分を見つめていた。
唯「むぎちゃん…正直に答えてよ。澪ちゃんを、どこにつれていくの…?」
今にも泣き出しそうな顔の唯が口を開く。
紬は何も言えず、震える足で立つのが精一杯だった。ちらり、と和の顔を見る。
和「全部…見てたわ」
そうか。そういうことだったのか。
紬は観念したかのように項垂れ、その場にへたり込んだ。
紬「――ごめんなさい…っ」
消え入りそうな声で謝罪を述べる紬。震える彼女に、さわ子が歩み寄った。
さわ子「残念だけど、謝るだけじゃ済まされないことをあなたはしたのよ。ちゃんと説明してくれるかしら…?」
紬「…はい…」
唇を噛んで少し黙った後、紬は絞り出すように小さく言い放った。
紬「私は…軽音部のみんなを…実験台にしたんです…」
唯「ふぇっ…!?何、実験台…?」
澪の話をするのかと思いきや予期せぬ言葉が飛び出して、唯は眉をひそめた。思い当たる節のあった律は、ただ黙っていた。
今にも澪を助けに行きたかったが、状況がよくわからぬうちに動くのは不安だった。
紬「お父様が、ある製薬会社の博士と契約を行ってから――奇妙な薬の開発に興味を持ち始めたんです」
紬「最初は私、変だ、やめてって、抗議したんです…。だけど、なんだかお父様…どんどん怖くなってきて…逆らえなくなって…」
紬「ある日、急にお父様が私に出来上がった薬を渡してきたんです。そして…それを軽音部に持って行く茶菓子の中に入れろ、と命令してきました」
紬「薬は人数分あって、数日毎に一人ずつ飲ませろと…。様子を観察し、報告することも命じられました。…もう私は、お父様の言いなりになるしかできませんでした」
紬「お父様…本当に怖くて…どうしたらいいか、わからなくて…」
紬「言われた通り、数日毎にお菓子に薬を混ぜて出しました。最初は唯ちゃん、次にりっちゃん、梓ちゃん、そして澪ちゃん…」
梓「く、薬って…どういう物なんですか!?」
口を押さえて梓が訊ねる。それもそうだ。知らぬ間に奇妙な物を飲まされていたなんて知ると、不安で仕方ないだろう。
紬「お父様が知り合った博士は、空想の生物を実現させるのが夢の、変わった人でした」
紬「彼がお父様に研究させていたのは…人をその類の物に変化させる物だったと思います。それ以外は別に副作用もない」
紬「でも、効果が現れる確率は低かった。事実、三人は別段何ともなかったでしょ?」
自分の手をまじまじと見つめたり、頬をつねったりする唯。梓も安心したかのように胸をなで下ろした。
律は、やはりただ黙っていた。
紬「でも、澪ちゃんは違った。薬をお菓子に混ぜた次の日から、様子がおかしかったわ。体調を崩したのはおそらく日光が原因で、あれだけ苦手だった血を見ても、それを舐めに行ったりして――」
梓「ま、まさか…澪先輩が飲んだのって…」
紬「えぇ…吸血鬼になる薬よ」
身震いする梓。小さく息を吐いて、律は紬に向き直った。
律「大体の状況はわかった。そろそろ教えてくれ、むぎ。…澪をどうするつもりなんだ?今澪は、どこにいるんだ?」
早く、助けに行かねば。逸る気持ちを抑え、冷静に問う。
紬「澪ちゃんは…お父様の実験助手に連れられて、私の家の傍にある古い研究所に向かっているわ」
紬「外から見たらただの廃墟だけど…地下を改造して、実験室を新たに作っているの」
紬「澪ちゃん、常識を越えた新薬の研究のための重要なサンプルだもの…。きっと、お父様…酷いことすると思う…」
律の全身に悪寒が走った。静かな怒りを秘めた瞳で紬を睨みそうになるが、一度それを閉ざし、歯を軋ませる。
諸悪の根源は紬の父だ。紬にも罪はあるが…彼女も好きでやった訳じゃない。恨むのは間違っている。
律「それは…澪が、実験のモルモットにされるってことか…?」
目を閉じ、俯いたまま、小さく律は訊ねた。
その言葉を聞いた瞬間、紬は堰を切ったように泣き出した。
紬「ごめんなさい!ごめんなさいごめんなさいごめんなさい…ごめん、なさい…!!」
泣き叫ぶ紬を見つめ、律は決心したように夕日で染まった橙色の窓の外を見た。
皆の前で、あの姿をさらすのは嫌だったが…そんなことを言っている場合ではない。
律「――澪を助けに行く」
紬「無理よ…。うぅ…私の家…ここから遠いし…研究所の中には、登録された人しか入れないの…。車で行ってもっ間に合うかどうか…ぐすっ…」
律「間に合うよ――」
律は自分のドラムを見つめた。円形を描いた部分に、焦点を合わせる。
ざわ…
もはや慣れてしまったざわめきが、背筋を駆けていく。
獣のような鋭い瞳をあまり見られたくなくて、カチューシャを取って、机の上に置く。
皆が息を飲むのが、見なくてもわかった。
半狼人間と化した自分を見て涙の溢れる目を見開く紬に、律は薄く微笑んだ。
律「――今の私なら…」
唯「りっ…ちゃん?え、えええええぇ!?」
梓「」
和「凄い…」
紬「…りっちゃん、狼人間の薬…効いていたの…!?」
さわ子(狼人間、か…。耳としっぽがないのが惜しいわね…そうだ、今度作ってry)
呆然とする皆に、律は困った笑顔を向ける。
律「人前で簡単に変身しちゃわないように家で何度も訓練したからな。それが裏目に出ちゃったか…」
きつく拳を握る。手のひらに、鋭い爪が食い込んだ。
律「薬が効いてるってばれてたら、私が澪の代わりになれたのに…」
悔しげに呟きながら、律は窓の傍に行き、開く。
夕暮れの涼しい風が、夕焼けを浴びて黄金に輝く律の毛をさわさわと揺らした。
律「研究所はむぎの家から近いんだな?」
紬「そうだけど…本当に行くの?りっちゃん、澪ちゃんより薬の効き目が出てるから…逆に研究対象にされちゃうかも――」
律「澪がやばいかもしれないのに、大人しくしてろっていうのか?そんなの無理だよ」
がっ、と窓の縁に足をかける。それを見て、唯が驚愕の声を上げた。
唯「ちょ、りっちゃん!?窓から行くの!?ここ三階――」
律「――待ってろ澪」
唯の言葉を聞き流し、律は朱い空へと跳んだ。
唯「り、りっちゃあああん!!」
梓「律先輩!!」
唯と梓が窓から身を乗り出して叫んだ。
律は空中で身を翻し、着地と同時に疾走する。
まさに疾風のごとく、律はあっという間に姿を消した。
エリ「な、なんか今校舎から人が落ちたように見えたんだけど…」
アカネ「なにそれこわい。見間違えでしょ――」
立ち話をしていた二人の間を、風が吹き抜ける。
エリ「きゃ…」
アカネ「凄い風ね…」
今までずっとため込んできた力が爆発するかのようだ。面白いぐらいに体が動く。
律は風のように不可視の存在となって翔けた。
学校を出、家々の屋根の上に跳び、ただひたすら紬の家の方角へと走る。
薄暗くなりかけてきた橙の空に、うっすらと月が姿を現し始めていた。
ぽかーんとしていた唯は、ハッと我に返ると、慌てて皆を振り返った。
唯「りっちゃんを追おうよ!!」
梓「当然――…いや、でも…むぎ先輩は…」
律が飛び出していった窓をじっと見つめていた紬は、一度目を伏せ息をつくと、決心した面持ちになった。
紬「私も行くわ…。りっちゃんのあの覚悟を見たら…私も自分の行動にけじめを付けなきゃいけないって…そう思えたから」
和「私も行くわ。澪はもちろんだけど…律も無茶しそうで心配だし」
さわ子「よぅし!そういうことなら任せなさい!!私が車でかっ飛ばしてあげるから!!」
さわ子(唯ちゃんと梓ちゃんからはりっちゃんのスカートの中丸見えだったと思うけど、問い質している暇はなさそうね…。残念だわ…スパッツだったのかしら、縞パンだったのかしら、いやはやry)
唯「さっすがさわちゃん先生!頼りになる!!」
梓「先生!お願いします!!」
がくがくと揺さぶられる感覚に、澪はゆっくりと目を開いた。
辺りは薄暗くて、体は何故か痺れていてなかなか動かせない。
だんだん頭がさえてくると、自分が車に乗っているということにようやく気付くことが出来た。
澪(え…私、何で…)
澪「…っふ…む…!?」
澪(猿轡!?っていうか…体が縛られてる!?)
黒服1「なんだ、目を覚ましたのか…」
黒服2「もう少し寝ていてもらいたかったな」
澪(だ、誰…この人達…。何が…何があったんだっけ…)
未だにぼんやりとしている頭で、必死に記憶を呼び起こす。だが、車にはかなりの人数の黒服を着た男達が乗っていて、恐怖のせいでなかなか思考を巡らすことに集中できない。
黒服3「まだ着かんのか」
黒服1「仕方ないだろう…。あの高校からじゃ、電車でも時間かかるんだから」
澪(どういうことなんだ…?私、どこに連れて行かれるの…!?)
恐怖と不安がない交ぜになった澪の脳内に、ようやく記憶が戻ってくる。
澪(そうだ…私、むぎに…!!)
意識が吹き飛ぶ前に目に焼き付いた、紬の憂鬱げな表情が蘇る。
澪(むぎ…どうして…一体私を、どうするつもりなんだ…?)
澪は小さく呻いてもがいたが、横に座っている屈強な男に一睨みされ、どうしようもなくすぐに大人しくなった。
それから、どれぐらい車の振動に揺すられていただろうか。
黒服1「ふぅ…ようやく到着だ…」
黒服2「意外に時間がかかったな…」
黒服1「早く連れて行くぞ」
澪は男達に連れられ車を出る。目の前に、廃墟のようにぼろぼろの建物があった。
暴れて逃げようにも、三人もの男達に体を掴まれている上、体はロープでぐるぐる巻きだ。
きっと逃げ切ることは不可能だろう。
しかも、自分たちが乗っていた車の後ろにも、まだ数台同じような車が並んで止まっていて、そこから大勢に黒服の男達が降りてくる。
澪(……)
澪は為す術もなく諦めたように歩き出しながら、猿轡を噛みしめた。
廃墟のドアを、男の一人が開ける。
エントランスのような広い部屋には、ぼろぼろになったソファや、枯れ果てた植木鉢が放置されていた。
天井には穴が開き、すでに暗くなった外が丸見えだ。
しかし、そんなボロ部屋の奥には、この光景に全く持って不釣り合いな頑丈そうな扉があった。
黒服3「ほら、歩け」
気味が悪くて入るに入れなかったが、背中を小突かれ、澪はよろけながら入り口をくぐる。
一体自分はこれから何をされるのか、全くわからない。
澪は不安と恐怖で、泣き出しそうになった。
黒服4「おい、ぐずぐずするな」
黒服3と黒服4が、澪の体に巻かれたロープに手をかけ、強引に引っ張ろうとした。刹那。
激しい破壊音が轟き、その二人は入り口の扉と共に面白いぐらい吹っ飛んだ。
もわっと埃が舞い上がり、男達は咳き込みながら、何事かと身構える。
轟音と埃で怯み、目をきつく閉ざしていた澪は、体の拘束が解かれるのを感じ、俯いたままそっと目を開いた。
誰かの足が、視界に入る。
澪は顔を上げ、そこにもっとも頼れる人物の姿を認めた。
最終更新:2010年11月20日 23:13