律「間に合った…」
汗の滲んだ顔に笑みを浮かべ、肩で荒く呼吸をしながら、律は乱れた髪を頭を軽く振って整えた。
澪(律!!)
思わず抱きついてしまう澪。律はちらりと澪を見て、はにかんだ笑みを浮かべた。
カチューシャがないことを除けば、いつもの律の笑顔だった。
律「大丈夫か~澪。助けに来てやったぞ~」
男達を睨んだまま、律は澪を猿轡から解放する。
澪「律!律…ありがとう!!」
律(突入したと同時に変身解けちゃったよ…。タイミングが良いというか、悪いというか…)
澪にあの姿を見られずに済んだが、さすがこのままではあっという間にやられるのがオチだろう。
しかし、男達から見れば、自分が一体何をしたのかまだ理解できていないはずだ。
その証拠に、まだ距離を取ったまま自分たちの出方を伺っていた。
律「澪、空飛んだり出来ないの?」
澪「は、はぁ!?そんなこと、できるわけないだろ!」
そうか、澪はまだ自分の体に何が起きているのかよく理解できていないのだった。
男達を睨んだまま、律は苦笑する。
しびれを切らしたように、男達がゆっくりと距離を詰めてくる。
律と澪もそれにあわせて、じりじりと下がる。が、
澪「り、律…」
澪の不安げな声に振り返ると、後ろにも男達が数人壁を作っていて、じわじわと迫ってきていた。
知らぬ間に、二人は黒服の男達に囲まれていた。
律(くそ…やっぱり、変身するしか――)
ちらり、と律は澪を振り返った。目が合い、澪は眉をひそめる。
律(澪には…見られたくなかったなぁ…)
黒服1「お嬢ちゃん、この子のお友達か?…余計なことに首突っ込んじゃったなぁ」
男達が迫る。袖を握る澪の手に、力がこもったのを感じた。
律(――でも、これ以上澪に怖い思いをさせるわけにはいかない…!)
律は自分の腕を、ゆっくりと顔の前に持ってくる。
少し警戒の色を見せる男達を尻目に、律は袖のボタンに視線を集中させた。
体を走る、ざわめき。
律(あ、でも…私の変身した姿が、余計怖い思いさせちゃったりして…)
黒服5「嬢ちゃん。何をしたのか知らないし、今から何する気かもわかんないけど、ここは大人しくしといた方が良いぜ?な?」
スキンヘッドにサングラス。いかにもな胡散臭い感じの男が、胡散臭い笑顔で近づいてくる。
澪は震える手で、ただ律に縋りつくことしかできなかった。
澪(律…?)
先ほどから彼女は自分のブレザーの袖を睨んだまま動かない。
そうこうしているうちに、男との距離はかなり縮まっていた。
澪(駄目だ…このままじゃ二人とも…)
澪は自分たちを取り囲む黒服の男達に目をやる。凄い人数だ。
澪(何でかわからないけど…この人達の目的は私…。――律は関係ない)
律が助けに来てくれたのは、本当に嬉しかった。
だが、彼女をこれ以上巻き込むわけにはいかない。
自分の身を差し出そう。そして、律は見逃してもらうんだ。律の頑張りを無駄にすることになるが、やはりそれが一番いい。
澪はきゅっと目を閉じて恐怖を身の内に押し込む。
決心がついたところで、キッと目を開き、澪は口を開こうとした。その時だった。
律「何したかわかんなかったの?」
ずっと黙っていた律が、顔を上げて男を睨んだ。
心なしか、ただならぬ気配を律の背中から感じ、澪はずっと握っていた律の袖から手を離す。
律「――なら、よく見てなよ」
下がっていろ、と言うかのように、律は男を睨んだまま澪を後ろへ軽く押しやる。
その手は――あのパワフルな音色を奏でる、見慣れた小さな手ではなかった。
澪「――え…」
状況が飲み込めず、澪は顔を上げて律を見る。
だが、一瞬前まで目の前にいた彼女の姿は、視界から消えていた。
黒服5「へ?」
ぽかん、と開けた口から間抜けた声がこぼれる。
次の瞬間、男は空を飛んで、他の男達を巻き込んで転がっていた。
男の頬に赤く残った靴の跡だけが、彼は蹴られたのだという事実を男達に教えてくれる。
黒服6「な…――うわっ!!」
着地音が聞こえ黒服6が振り返ると、律がすぐそばに立っていた。
黒服6「こ、こいつ――」
腰に差した警棒型のスタンガンを抜こうとする黒服6。前髪の下の黄金の瞳が走り、その得物を捉える。
風を切る勢いで律の腕が振るわれ、男が握った警棒は、バラバラになって床に転がった。
黒服6「ぎゃっ!?」
驚きの光景に目を見張る間もなく、男の顔面に拳がめり込んだ。
崩れ落ちた黒服6と、変わり果てた姿の律を、男達も澪も、ただ呆然と眺める。
律はふぅ、と一息つくとブレザーを脱ぎ捨て、爪を構えて小さく微笑んだ。
律「――がおー…なんちって」
…
さわ子「オラオラオラァ!!飛ばしていくわよぉ!!」
眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせて、さわ子はハンドルを握る手に力を込める。
唯「さ、さわちゃん先生、早いのは助かるけど…捕まっちゃったらお終いだよ!?」
さわ子「ふん!!その時はその時よ!!カーチェイスって奴を味わってみようじゃない!!警察も現場に連れて行けて、一石二鳥よ!!」
唯「いや…警察には圧力がかかってるってむぎちゃん言ってたじゃん」
梓「う、うぅ…何だか気持ち悪くなってきた…」
紬「あ、私も…何だか気持ち悪いの通り越して楽しくなってきちゃった♪うふふふふふふ」
和「――…これ、本当に大丈夫かしら…」
束になってかかってきた男達を、殴り飛ばす。
律は、次々と溢れてくる力に任せ、男達を文字通り蹴散らしていた。
律(うわぁ…無数の大人の男に勝てちゃってるよ)
背後から迫ってきた男に裏拳を一撃。かえす刀で正面からかかってきた男のスタンガンを破壊し、股間を思い切り蹴り上げる。
悶絶する男をさらに蹴飛ばして、奥にいた男を転ばせ、腹に蹴りを入れる。
澪「きゃ…」
澪の小さな悲鳴が耳を掠め振り返ると、どさくさに紛れて再び澪を拘束しようと、男が一人彼女に迫っていた。
律「――澪に近づくなぁ!!」
律は側にいた男が振り下ろしてきたスタンガンを避けると、それを奪い取って思い切り澪に迫る男へ投げつけた。
回転しながら空を切るそれは、見事に男の頭にぶち当たり、彼の意識を狩る。
投擲の姿勢のまま息をついて、頬を伝う汗を拭ったときだった。
澪がこっちを見て、焦燥を含む悲鳴に近い声で叫んだ。
澪「律!危ない!!」
律「え――」
バスッ
律(痛っ…!!)
くぐもった銃声が聞こえたと思うと、首筋に衝撃が走った。
ちくりとした痛みに、律は眉をひそめて首に手をやる。
――何かが刺さっている。それがわかったと同時に、思考が鈍り、足先がしびれ始めた。
慌てて律はそれを引き抜き、地面に放り捨てた。麻酔だ。
人が動く気配がして、瞳を走らせると、無数の銃口がこちらを向いていた。
律「嘘だろっ…」
バスッバスッ、と何発も鈍い音が響き、律は慌てて駆ける。が、
律(足が―…!!)
思うように動かない。逃げるどころか、絡まって体勢を崩してしまった。そして、
律「あぅっ…!!」
背中に針が刺さる小さな痛みが数回。
思うように体が動かず、律は業を煮やしながら麻酔銃を構える男達を振り返った。
しかし。
律「えっ――」
かく、と片膝が折れ地面に付いた。男達が勝利を確信した笑みを浮かべた。
黒服1「ふう…一時はどうなるかと思ったが…捕獲完了だ」
澪「り、律!!」
歪む視界に律は頭を振り、何とか立ち上がろうとするも、意志とは逆に体は言うことを聞かずその場に横倒しになってしまった。
律「…ぁ…」
律(最悪…)
黒服1「まさか、お嬢ちゃんも薬が効いてたとはね…。手土産が増えたな」
黒服2「さて、連れて行きますか…」
律(ちくしょ…二人仲良く実験台か…)
律は痺れる体を地面に横たえたまま、瞳を動かし、天井を見上げた。
所々穴が開いたそれからは、月光が差し込んでいる。
あぁ、だから妙に明るかったんだな、と律は何だかわからず納得した。その時。
律(…――!!!)
天井に開いた一際大きな穴に目をやると、そこからはっきりと月が見て取れた。
それは、影一つ無い綺麗な綺麗な――満月だった。
どくん
何人かの男が、律の体を束縛しようと迫る。
全てを諦め、途方に暮れて崩れ落ちる澪に、再び男達が歩み寄る。
牙が軋み、体毛がざわめく。
――一瞬、頭の中が真っ白になった。
律「ぐ、う、あああああああああああぁっ!!!」
気付けば自分でも驚くような咆吼を上げて、自分を囲んでいた男達を壁に叩きつけていた。
苦しい。ブラウスに体が圧迫されて息がしにくい。
何も考えずに、ボタンをブラウスと下着ごと引きちぎる。全身がふさふさした体毛に覆われていた。
すぐ後ろで小さな悲鳴が聞こえ、人がまだ傍にいたことに気付いて、そいつを尻尾でぶん殴る。尻尾?いつの間に?
瞳を走らせると、澪が再び拘束されようとしていた。
痺れが吹き飛んだ体で、一気に肉薄する。
こちらに気付いた男達が、驚愕の表情を浮かべながら麻酔銃を構えるが、それを爪でことごとく粉砕する。
牙の生えそろった口から、狼の咆吼そのものが飛び出し、大の大人が悲鳴を上げて、腰を抜かした。
澪「り、つ…?」
澪の目に映ったの律は、狼そのものだった。
黒服1「ひ、ひぃ…」
律「大の大人がなっさけないのー。女子高生一人相手にびびるなんてさぁ」
律(ま、どこにこんな格好した女子高生がいるんだって話だけどね…)
天井の穴から満月を見上げる律。
青白い光りが、体の底から満たしてくれているような気がした。
律「なるほどねぇ…満月見ると、完全に狼になれるのか」
黒服2「こ、この化け物が!!」
男の一人が震える手で麻酔銃を構えて発砲する。が、
豊かな体毛に包まれた尻尾を器用に動かし、律はその弾を弾き落とした。
黒服2「う、うわあぁ」
律「化け物、か。誰のせいでこんなことになったと思ってるんだよ。私だって、好きでこんな格好してるんじゃないんだぞ」
爪と牙を光らせて、律はニヤリと笑った。
律「さぁて、覚悟はできたよな?」
数分後。
ぱんぱんと手を叩く律の前には、全ての男達が地面に突っ伏して気を失っていた。
殺してしまわないように手を抜いたが、しばらく全員起き上がることはできないだろう。
律は改めて窓に映った自分の姿を見て、顔を歪める。
律(うわ…もう完璧に狼だよ…。すんごい暴れちゃったし、こりゃ澪に引かれたかな…)
男達でさえ、恐怖に顔を引きつらせ、中には涙と鼻水で顔面ずるずるの者もいたのだ。
はぁ、とため息を牙の間から漏らし、律はその場に座り込んだ。
後ろから、足音が近づいてくる。
律「見ないで…」
澪「律…」
足音が止まる。今まで散々見られてたに決まってるのに、今更何を言っているんだ、と律は自嘲めいた笑みを浮かべる。
律「澪にだけは見られたくなかったんだけどなぁ…。まさか、まだ誰にも見せてない完全変身まで見せちゃうことになるなんて」
澪「……」
律「――怖い、よな…。こんなの…」
何故か、消え入りそうな声。何だ私。泣きそうになってるのか。
澪「怖くなんか、ないよ」
立ち止まったまま、澪は優しく囁く。律の体毛がふわっと揺れた。
澪「ありがとう、律…。律が来てくれなかったら、私どうなっていたか――」
律は振り返ろうとしなかったが、腰の辺りから生えたフサフサの尻尾が二、三度ぱたぱた振られた。
澪の表情に思わず笑みが浮かぶ。恐怖心なんて、全くなかった。
律の背中にふわっと重みがかかった。体毛のせいか少し大きくなった様に見える律の体を、澪は優しく抱きしめる。
ふわふわの体毛に、澪は顔を埋めた。獣特有の匂いではなく、温かく優しい匂いを感じる。
澪「――あったかい…律の匂いだ…。どんな風になっても、律は律なんだよ」
律「澪…」
澪「…律達も見てただろ?私も最近やばくてさ…。血を見ると、自分を見失っちゃうんだよ。我を忘れて、ただ飲みたいっていう衝動にだけかられる。気持ち悪いだろ」
律「全然。どうなったって澪は澪、だろ?」
先ほど自分が言った言葉を返され、澪は小さく微笑んだ。
澪「でも…何でなんだろ…。今までこんなことなかったのに、急に血が恋しくなっちゃってさ。――律も…まさか昔からそうだった訳じゃないだろ?」
頭を押さえて澪は呻くように呟く。律は、そっと振り返った。
澪「それに…むぎも…一体何が何だかわかんない…。ここどこなの…?」
今まで考える余裕がなかった分、一気に謎が頭に押しかけて混乱気味のようだ。
律は澪に向き直ると、優しく抱きしめた。ふわふわの体毛に、顔を埋めさせる。
律「大丈夫、落ち着いて澪…。全部説明するからさ」
耳元で小さく囁き、律は澪をなだめる。澪は震える手で、きゅっと律の体毛を握った。
澪「――じゃあ私は…吸血鬼になりつつあるってことなの…!?」
驚愕の面持ちで、澪は涙ぐみながら律に確かめるように訊ねる。
律は黙って頷いた。ショックかもしれないが、事実を黙っているわけにはいかない。
律「で、私は狼人間。唯と梓は薬が効かなかったみたい。――むぎのお父さんがきっと元に戻るためのワクチンを持ってるだろうからさ、落ち着いたらもらいに行こうと思ってる」
澪「でも、むぎのお父さんは私を実験台にするためにここに連れてきたんだろ?ワクチンをもらいに行くなんて…実験台にしてくれって言いに行くようなものじゃないか」
返す言葉が無くて、律は黙り込んでしまう。
確かに、その通りだ。だが…他に方法はあるだろうか。
沈黙に堪えきれなくなったのか、澪は小さくため息をついた。
澪「でも…まさかむぎがそんな薬をお菓子の中に入れてたなんて…」
悲しげな声に、律は顔を上げた。
そういえば、澪を気絶させて男達に引き渡したのも紬だ。彼女に対する不信感を抱いてしまってもおかしくない。
それでも――
最終更新:2010年11月20日 23:17