紬の父が振るった腕が律の脇腹に直撃して、彼女は面白いぐらいに飛んだ。薬の並んだ棚に背中を打ち付け、小瓶が数本落下して割れる。

ムギ父「私に逆らうつもりか紬」

振るった腕でそのまま紬の胸ぐらを掴んでねじ上げる紬の父。紬は浮いた足をばたつかせて必死に抵抗した。

和は放心状態の唯を連れて逃げ回るので精一杯で紬を助けに行く余裕がない。澪も澪でフランケンの相手で手一杯だ。

律は咳き込みながらも何とか立ち上がった。

律「げほっ…何て怪力だよ…。肋骨が折れるかと――まさか…」

この人並み外れた身体能力。心当たりは一つしかない。

ムギ父「紬…どうしてわかってくれないんだ。こんなにも素晴らしい発明なんだぞ。世の中が大いに変わるきっかけになる商品になるに違いない」

紬「嫌!そんなのおかしいわ!こんな人体を弄ぶような発明が素晴らしいはずない!」

ムギ父「そんなこと言わずに見てくれ紬。私が研究した中でも最高傑作のこの薬の効果を――」

紬の父の体が嫌な音を立てて軋みながら一回り、二回りと大きくなっていく。

紬は見た。自分をねじ上げる父の腕が鱗に覆われ、鋭い爪が伸びていくのを。

律「おいおい…こんなのありか…」

呆然と立ち尽くす律の目の前で、ドラゴンが牙をむいて笑っていた。

澪「ちょおおおおお!何だよこれえええぇ!!」

フランケンシュタインの相手しているだけでも恐怖で頭がおかしくなりそうなのに、あんな化け物まで現れたらどうしようもない。

澪は錯乱しながらも必死に巨大な腕をかいくぐってフランケンの足止めに努めた。

和「これは夢。これは夢。これは夢よ」

正直現実逃避しなくちゃやってられない。和は念仏のように同じ言葉を繰り返しながらフランケンの足を唯と共に走り回って避ける。

律「どうしろって言うんだよこのやろー!!」

やけくそ気味に律は駆ける。とにかく紬を助け出さなければ。

紬「お父様…なんてことを…」

紬は紬で変わり果てた父親の腕に抱えられて、どうすることもできず途方にくれている。

律は紬の父の足に向けて鋭い爪を振るうも、固い鱗の表面に傷をつけるだけで終わってしまう。

ムギ父「はっはっは…ほら、もっと頑張りなさい」

大きな足が振り降ろされる。律は避けることができず、それを受け止めにかかった。

律「くっ…お、重っ…!!」

ムギ父「大人しく私に協力するなら助けてやろう。しかしまだ抵抗を続けるなら――申し訳ないがモニターで君の身体能力データはだいたい採れたんでね、後は体さえ手に入ればそれでいいんだよ。つまり手短に言うと――死んでもらう」

律「協力なんて、しませんよ…!どうせ今助かったところで、ひとしきりまた身体能力検査して、体内のデータ採るのに…解剖しまくって、あとは廃棄なんだろ…!?」

ムギ父「ふむ…。君は変なところで頭が回るね。仕方ない、君がそのつもりなら私もそれなりに対処する」

徐々に体重がかけられ、律の腕が支えきれずに曲がっていく。

紬「お父様、やめて!私の大切な友達なのよ!?」

ムギ父「私にとってはもはや役に立たない実験用モルモットだ」

澪「――!律!!」

紬の悲痛な声に律の状態に気付き、そちらに気が取られる澪。瞬間。

澪「うわっ!!」

大きな手のひらが目の前に現れ、気付けば澪はフランケンシュタインに鷲掴みにされていた。

和「澪!!」

澪「わ、私は大丈夫だから律の方を!」

澪はもがきながら必死に声を張り上げる。和は狼狽した。

和「そうは言ってもどうしたら…!」

怪物化する能力のない和はどうしようもなく、何か使えるものがないかあたりを見渡す。目に入ったのは、無数のモニターとそれを操作するパソコン。

その操作画面を見て、和は自分でも操作できそうな事を確認すると、急いでキーボードを叩いた。


律「う…ぐっ…!!」

次第に反り始める背中。先ほど殴られた脇腹がじんじんと痛む。

律(やばっ…苦しっ…)

紬が腕の中で暴れるも、紬の父はそれをものとせず体重をかけ続ける。

律(もう…駄目…!)

律の脳裏に諦めの文字がよぎった。その時だった。

和「――律、左を見て!!」

律「…っ何…!?」

和「早く!左よ!!」

ぎりぎりの状態で、律は言われた通りにその方を見やる。と、

律「――!!」

彼女の目に入ったのは、モニターに映し出された満月だった。

律「――があああああああぁああ!!」

気合いの咆哮を張り上げ、完全変身を遂げた律は思い切り大きな足を押し返した。

ムギ父「なっ!!」

体勢を大きく崩す紬の父。律はその隙に飛び上がって彼の腕にしがみつくと、力任せに紬と鱗まみれの腕を引きはがした。

律「平気か、ムギ」

紬「あ、ありがとうりっちゃん!」

律(このまま機械まで行けるか?――つーか機械どこだよ!?)

紬を抱きかかえたまま、太い腕の上で紬の父を操る機械の位置を探す。だが、見つからない。

ムギ父「貴様ぁ!!」

長い首を巡らせて、紬の父は律を睨んだ。その頭頂部に、それはあった。

律「なんであんなとこにあるんだよ!」

馬鹿みたいに鋭い牙が生えそろった大きな口が目の前で開く。その奥が、かすかに怪しく輝いた。

律「ちょ、マジか!!」

嫌な予感を察知し、慌てて飛躍する律。直後大きな口から業火が放たれ、それはわずかに律の体毛を掠めた。

律「科学の力は恐ろしい…」

紬を降ろしてやりながら、律は呆れたように呟いた。

澪(良かった、律大丈夫そうだ…)

澪「さて、どうしようかな…」

冷や汗が額を伝うのを気にとめず、澪は困った笑みを浮かべてフランケンシュタインを見つめる。

力の限りに指を引きはがそうにもビクともしない。当の本人(?)は足下を逃げ回る和達を追い回すのに夢中になっている。

律「澪!大丈夫か!!」

澪の危機に気付いて律が叫ぶ。だが、紬の父が救助に行くのを許さない。

フランケンシュタインはしばらく和達を追い回すのに夢中になっていたが、痺れを切らしたように澪を顔の前へと持ってきた。

澪「何する気――!」

急に澪を握る手に力を込め始めるフランケンシュタイン。今度はこっちが潰される危機に瀕した。

データ採取がまだちゃんとされていないはずだが、フランケンは本気で潰す気でいるようだ。

紬の父は律の反抗があまりにもしぶとくて頭に血が上ったのか、こちらの様子には気付いていない。

澪「嘘、だろっ…!」

すさまじい圧迫感が体中にかかる。息が詰まる感覚に、澪は悲鳴も上げられずに痛みに歯を食いしばった。その時だった。

地の底から唸るような声が、部屋に響き渡った。


フランケンの動きが止まる。刹那、ぽっかりと開いたままになった床の穴から、大きな黒い影が飛び出した。

澪は見た。その影の正体は、ライオンのように大きな黒猫だった。ふたまたに分かれた尻尾がうごめいて、鋭い牙が光り、フシャーと威嚇するような鳴き声が轟く。

澪「次から次に…何なんだよもう…。勘弁して…」

次々と現れる異形の存在に、抵抗する気も失せて澪はうな垂れる。と、

大きな黒猫は飛び上がってフランケンに襲いかかり、澪を掴む腕に食いついた。バチバチと火花を立てて、ロボットのフランケンの腕はへし折られて千切れる。

力が抜けた指から澪はもがいて逃げ出す。その様子を、黒猫が鋭い目で見つめていて、澪は体勢を立て直すと身構えた。と、

黒猫「大丈夫でしたか、澪先輩」

澪「へ?」

黒猫「すみません。早く上がってきたかったんですけど、四足歩行に慣れるのに時間がかかっちゃって…」

澪「その声…もしかして、梓か!?」

梓「はい、心配をおかけしました」

澪「もう、何が何だか…」

父から逃れていた紬が、二人に駆け寄ってきた。

紬「梓ちゃん、今になって薬の効き目がでたのね…」

梓「みたいですね。何ですかこれ」

紬「何だったかしら…。えっと――」

ムギ父「猫又だよ。日本妖怪に化ける薬も作ってみたかったんでね」

梓の存在に気付いた紬の父が、牙をむいて微笑みつつ彼女達の方を見やる。

梓「何ですかアレ…」

紬「――紹介するわ。私の父よ」

律「あ、梓なのか!?良かった、無事だったんだな!」

ムギ父「だが、何も解決してはいない。結局の所、重要なサンプルが増えただけだ」

律(くそっ…それが問題なんだよな。どうしようもないだろこれ…)

小さく唸り声を上げつつ、律は紬の父を睨み上げた。

梓「律先輩、苦戦してそうですね…。とにかくこっちのでかいのを壊して、早く援護につきましょう」

澪「そうだな。ムギ、危ないから和の所に行っててくれるか」

紬「えぇ…ごめんね」

小さく澪に謝ってから、紬は和と合流する。

和「良かった…梓ちゃん、無事だったのね」

紬「うん。本当に良かった」

和「これで唯も安心でき――あら?そういえば、唯はどこに…」

紬「え?」

二人は慌てて辺りを見回す。どこにも唯の姿はない。

紬「和ちゃん、一緒に逃げてたんじゃ…」

和「えぇ。でも、律を助ける為にモニターいじりに行ったから…その時にはぐれたのかも」

紬「一体どこに…?」

二人が困惑していることなどつゆ知らず、律は果敢に紬の父に攻めていく。

律(やばいな…そろそろ変身が解ける…。また変身するまでにはちょっと時間がかかるから――その隙に襲われればアウトだぞ!どうする!?)

焦る律。すでに牙や尻尾は元に戻りつつあった。変身中は丸いものを見ても意味がない。

それに気付き、勝ち誇った笑みを浮かべる紬の父。

ムギ父「チェックメイトだ!!」

大きな爪が振り上げられる。律はきつく目を閉じた。と、その時。

「やっほ~」

緊張感のない声がどこからともなく聞こえてきた。

律「…唯?」

ムギ父「どこだ…。どこにいる…!?」

割と近くから聞こえたその声の出所を探す。だが、二人とも見つけることができない。

唯「ここだよ、ここ」

またも聞こえてくる声。

唯「ムギちゃんのお父さんの、頭の上」

驚愕に目を見開き、律は瞳を巡らせた。確かに唯はそこにいた。先ほどまではそんなところにいなかったはずなのに。

ムギ父「貴様、いつの間に――」

紬の父も全く気が付かなかったというように、口をあんぐり開けている。

唯はゆっくりと彼を操る機械に足をかけ、微笑んだ。

唯「チェックメイトだよ」


――唯によって機械を破壊された紬の父は、すぐに正気に戻った。

フランケンロボの方も、澪と梓の活躍により、見るも無惨に破壊されてしまった。

長い首を振って何度も頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返す紬の父。

ドラゴンに頭を下げられるという貴重な経験をした唯達は、無事にワクチンを手に入れることができた。

律「しっかし、何で唯は誰にも気付かれずにムギのお父さんの頭の上まで行けたんだ?――ってあれ?唯どこ行った?」

和「あら…?まただわ。さっきも急にどこかに行っちゃって――」

唯「失礼だなぁ、ここにいるよ。和ちゃんの前」

和「え?…きゃ!びっくりさせないでよ…」

唯「ビックリさせるも何も、さっきからいたよ!」

澪「な、何が起こってるんだ?」

ムギ父「たぶん、彼女が飲んだこの薬の能力だろう」

紬の父が差し出した薬の瓶には、『ぬらりひょん』と書かれたラベルが貼ってあった。

ムギ父「自由奔放にのらりくらりと行動するつかみ所のない日本妖怪だ。人に気付かれずに動き回るのが得意な妖怪だね」

律「なるほど…だから今日はよく唯を見失ったんだな…」

紬「日本妖怪の薬は、効き目がでるのが遅かったのね…」

唯「いやぁ、あずにゃんが無事で本当に安心したよ~。っていうか、あずにゃん本当にあずにゃんになったんだねぇ」ダキッ

梓「意味がわかりませんよ」

猫又梓をよーしよしよしと声をかけながらなで回す唯を見て微笑みつつ、紬の父は再度頭を下げた。

ムギ父「君たちには本当に迷惑をかけたよ…。薬は全て処分する。資料も全てだ。博士達の処遇も、こちらが引き受けよう」

こうして、今回の騒動は幕を閉じた。


律「ふー…とりあえず一件落着だなぁ」

廃墟から出た律は大きくのびをしながら息を吐く。そして、ワクチンの入った小瓶を見つめた。

律「この厄介な体ともおさらばか…」

唯「んー、もうちょっとぬらりひょんライフを堪能したかったよ」

梓「私は一刻も早く戻りたいですね。このままじゃサーカス行きですよ。…あれ?唯先輩どこですか」

唯「だからここにいるよ!」

笑い合う唯達。そして、ワクチンのふたを開けた。

澪「それじゃあ、元に戻ろっか」

律「あぁ」

唯「――ちょっと待って!」

小瓶の中の液体を律達が飲み干そうとした時、ふいに唯が声を上げた。

唯「良いこと思いついたよ!」


――時刻はすでに九時を回っていた。

連絡も無しに帰ってこない姉を、心底心配する妹がいた。そう、憂だ。

憂「お姉ちゃぁん…」

涙目になって時計を見つめる憂。警察に連絡しようかと電話の前をウロウロしていたとき、インターホンが鳴った。

憂「――!はい!!」

慌てて駆け出す憂。ドアの外には、紬と和がいた。

紬「憂ちゃん、今大丈夫?」

憂「は、はい。あの、お姉ちゃん知りませんか?帰りがまだなんですけど――」

和「その唯のことでちょっと話があるの」

憂「…?」

暗い夜道を駆け、学校へとたどり着く憂達。と、次の瞬間。

梓「フシャアアアァ!!」

憂「!?」

大きな黒猫が背後から突然現れた。

憂「きゃあああああああ!!」

驚いて駆け出す憂。追いかける梓と紬と和。

澪「憂ちゃん…」

憂「――!澪さ…」

声が聞こえてきた方へ目をやると、牙をむいた澪が木に逆さまになってぶら下がっていた。

澪「血を飲ませてくれないかな…?」

憂「!?!?」

憂「ひいいいいいいいぃ!!」

涙目になって逃げ出す憂。その視線の先に、律が立っているのが見えた。

憂「り、律さん!助け――」

律「う、う、うぅ…ウオオオオオオオオォン!!」

憂「!?!?!?」

救いを求める憂の目の前で、律は満月を仰いで狼人間と化す。凍り付く憂。

憂「いや、いやぁ…」

猫又と吸血鬼と狼人間に囲まれ、憂は震えあがる。そして、

唯「――…トリック・オア・トリートォ…」

憂「」

締めに憂の前に気付かれずに移動した唯が、おどろおどろしい声でそう言って姿を見せると、憂はその場に卒倒した。


唯「ういいいいいいいいいぃ!!」

律「まぁ…シャレにならんわな」

澪「仮装なんて可愛いものじゃないからな…」

梓「だからやめましょうって言ったのに」

唯「あずにゃんノリノリだったじゃん!!」

和「ホント、騒がしいわね…」

紬「まぁせっかくのハロウィンだから…やってみたかったっていう気持ちはわかるかも」

騒ぐ唯達を眺めつつ、紬と和は小さく笑った。



その後目を覚ました憂に、みんなこっぴどく叱られたそうな。



おしまい。



最終更新:2010年11月20日 23:20