「行ってきます」

ただ広いだけで何の温もりも感じさせない家を出る。
今日は雨が降りそうだ。
傘、持って行かなきゃ。

「斉藤」
「はっ」

執事の斉藤は、名前を呼んだだけですぐに私の求めるものをくれる。
だけど、そんな斉藤でも私が一番欲しているものは与えてくれない。
斉藤から傘を受取ると、私は重いカバンを肩に引っ掛け歩き出した。

――――― ――

駅に着いた途端、待っていたように雨が降りだした。
私は電車が来るのを待つ間、携帯のメールボックスを確認した。
誰からもメールは届いていない。

雨の中を走ってきた電車に乗り込む。
いつもは朝の通勤、通学ラッシュを避けて乗っているので比較的空いている電車は、
今日は雨の日のせいか、人が多くて混んでいた。

混みあった電車に乗るのは初めてで、すごくわくわくした。
だけど、電車を降りると慣れていないせいでひどく気分が悪くなった。

まだ始業の時間まで少しある。
少し休んで行こうかな。

駅の改札を出たところにあったベンチに腰掛けた。
その時、「ムギちゃーん!」と声がした。

「唯ちゃん!」
「ムギちゃん、おはよう」

見ると、唯ちゃんが息を切らせながら私に駆け寄ってきた。
背中にはギターケースを背負っている。

「ムギちゃん、どうしたの?学校行かないの?」
「ううん、ちょっと電車で酔っちゃったみたいだから休憩してたの」
「え!?大丈夫!?」

唯ちゃんは私の言葉に驚いたように言って飛び退いた。
私が「唯ちゃんの顔を見たら平気になっちゃった」と冗談交じりに言うと、
「ほんとー?」と嬉しそうに笑った。

「でも、本当に無理はしちゃだめだよムギちゃん」
「えぇ、大丈夫」
「そっかー。それじゃあムギちゃん、一緒に学校行こう!」

私が頷くと、唯ちゃんは元気に歩き出した。
私もその後に続く。

少しだけ、冷たかった心が温かくなった。
誰かに本気で心配される。
それだけで、こんなにも嬉しくなる。

私は朝が苦手だった。
誰も居ないような家を出て、一人で学校へ向かうことが、寂しくて仕方なかった。
車での送り向を断ったのは私だけど、それでも一緒に登下校する他の子たちを見て
羨ましくなった。
それに何より、私には送り出してくれる家族がいることが羨ましかった。

私は、家から送り出してくれたり、帰りを待っててくれる家族がいない。
だから、なんだと思う。
私が「愛して欲しい」「愛したい」と思うようになったのは。

「あ、そうだムギちゃん」

突然、唯ちゃんが立ち止まって振り向いた。
ぼーっとしていた私は、唯ちゃんを追い越しそうになって慌てて足を止めた。

「なに、唯ちゃん?」
「ムギちゃん、何か考え事でもしてたの?悩み事?」

唯ちゃんが心配そうに眉を顰めて訊ねてきた。

「えっと……」
「ずっと前から思ってたんだけど、ムギちゃん、朝はあんまり元気ないよね?」

吃驚した。
朝の私はそんな風に見られてたのかな。
確かに、教室に着くまで私は暗い顔をして歩いてるって自分でも自覚していたけれど。

「低血圧、かな?」
「えー、絶対違うよー!低血圧の人はもっと不機嫌そうなんだもん!」

唯ちゃんはそう言うと、私の顔を覗きこんできた。

「ゆ、唯ちゃん?」
「ムギちゃん、絶対に何かあるでしょー?」

その顔は、ただの好奇心や何かと違って、本当に真剣で、思わず目を逸らしたく
なった。

「……ちょっと寂しいから、かも……」

私は小さな声で答えた。
本当はもうちょっと違うけど、嘘ではない。

「寂しい?どうして?」

唯ちゃんが、きょとんとしたように訊ねてきた。
私はそっと足を後ろに踏み出して近過ぎる唯ちゃんから少し距離をとる。

「一緒に学校、行く人がいない、からかな」

私はゆっくりと考え込みながら言った。
これも間違っては無い。

「あ、そっかー!ムギちゃんは電車通学だもんね!」
と唯ちゃんが納得したように声を上げた。

「え、えぇ、そうなの」
「それじゃあ私、明日からムギちゃんと一緒に学校行くよ!」

「え!?」
「あれ、だめかな?」

私が驚いて声を上げると、唯ちゃんが困ったように首を傾げた。
私は慌てて首を振る。

「そ、そんなことはないけど……でも唯ちゃん、いいの?」
「いいよー!最近憂ね、あずにゃんとか純ちゃんと一緒に行ってるし、ちょうど
私も一人だったんだー!」

だから一緒に行っていい?

唯ちゃんは確かにそう言った。
私は頷いた。嬉しかった。

「えへへ、それじゃあムギちゃん、今日は走ろうか!」
「え、どうして?」
「学校、遅れちゃうよ!」

時計を見るとあと少しでチャイムが鳴る時間だった。
立ち止まって話していた私たちは、走り出した。

朝、いつも重い身体が、今日は軽かった。

――――― ――

少しだけつまらない授業も、今日はなんだか楽しくて仕方がなかった。

早くお茶したいなあ、なんて考えていると、あっという間に時間が過ぎていく。
気が着けば、放課後のチャイムが鳴っていた。

私はカバンを持つと立ち上がる。

「ムギちゃん、一緒に行こ!」

教室を出ようとすると、唯ちゃんが追いかけてきた。
私たちは並んで歩き出す。

「今日のお菓子はなーにかなー?」
「なーんでしょう?」

二人で言葉に節をつけふざけながら歩く。
唯ちゃんは、鼻歌まで歌い始めた。

「あ、私の恋はホッチキス!」
「えへへ、せーかい!」
「やった!」

何の曲かが当たって、喜びながら部室に入る。
そこは私の大好きな空間が広がっていた。

「おーっす、唯、ムギ!」
「遅いぞ」
「こんにちは、唯先輩、ムギ先輩」

りっちゃんが、澪ちゃんが、梓ちゃんが。
皆がいる。

私は唯ちゃんと顔を見合わせると、弾む心を抑えながら皆の元へ歩き出す。

「ねえねえりっちゃん澪ちゃん!これすごくない!?」
「おぉ、すげーなあ!」
「そんなことはどうでもいいだろ、梓、練習しよう」
「あ、はい」

四人の会話を聞きながらお茶を淹れる。
幸せで贅沢な温かい時間。

私はこの中には入らない。
違う、入れない。

「あずにゃーん」

唯ちゃんが梓ちゃんに抱き着いた。
りっちゃんが澪ちゃんに叩かれる。

あ、いいな。
いつも思う。羨望と、そして少しだけ、感じる妬み。

お茶を淹れて持って行く。皆はそれを待っていましたとばかりに熱いそれを
喉の奥に流し込んでいく。

私は見ているだけで、この輪の中には入れない。
だって、それだけで充分なんだもの。

でもね、何でだろう。今日はちょっとだけ、苦しい。
朝唯ちゃんに少し自分の気持ちを話してしまったせいだろうか。
ぎゅっと胸に手を当てる。こんな気持ち振り払おうと皆から目を逸らして俯く。

「ねえねえムギちゃん!」

突然、唯ちゃんがさっき梓ちゃんにしていたように私に抱きついてきた。
私は吃驚してしまい、持っていたティーカップから手を離してしまった。

「わ、ムギちゃん危ない!」

咄嗟に唯ちゃんが手を出して、ティーカップが落下するのは免れた。
けど、唯ちゃんの手に熱い紅茶が掛かってしまい、微かに手が赤みを帯びている。

「ご、ごめんね唯ちゃん!火傷してる!」
「えー、大丈夫だよこのくらい」

唯ちゃんはそう言って笑うけど、私は申し訳なくて、唯ちゃんの手を引いて
立ち上がった。

「とにかく、保健室に行って冷やそう!」
「う、うん……」

私の剣幕に驚いたのか、唯ちゃんは大人しく頷いた。



保健室には誰も居なくて、私は勝手に入らせてもらうと氷を探し出して唯ちゃんに
渡した。

「ごめんねー、ムギちゃん」
「私のほうこそごめんなさい。唯ちゃんに怪我させちゃうなんて……」

どんなことがあっても、私は誰も傷付けたくはなかった。
誰かが傷付くところなんて見たくなかった。
それが、心の傷でも、身体の傷でも。

「ムギちゃんのせいじゃないよ!」
「でも……」
「それよりさ」

唯ちゃんは、私の言葉を遮るようにして言った。

「ムギちゃん、やっぱり何か悩み事、あるの?」

「……どうして?」

訊ねると、唯ちゃんは「わかんないよ」と言って首を振った。
そして、「でも」と続けた。

「何となく、そんな気がするんだ。だって、伊達に三年間、ムギちゃんと一緒にいた
わけじゃないもん!」
「……唯ちゃん」
「ねえ、ムギちゃん。私には言えない悩み?朝も聞いたけど、本当のこと、言えない?」

言えないよ、唯ちゃん。
そんなこと、言えない。

愛して欲しいって。愛したいって。
今まで隠してた家のこととか、そんなこと全部ひっくるめて説明するのが嫌なんじゃ
なくって、ただそんなこと言って唯ちゃんに引かれるのが、嫌われるのが怖かった。

私が黙っていると、唯ちゃんは「ムギちゃん」と私の手を握ってきた。

「朝、言ってたよね。ムギちゃん、寂しいって」
「え……?……うん」
「もしかして、やっぱり寂しいの?」

唯ちゃんの目が、私を真直ぐに射抜く。
嘘を見抜かれそうなほど、真直ぐな目。

「あのね、今日ずっと考えてたんだけど……ムギちゃん、本当に朝登校する人が
いないから寂しいの?」
「それは……」
「私ね、何でムギちゃんが寂しいのか理由がわかんないよ。わかったらムギちゃんの
ために何かしてあげられるのに……」

唯ちゃんの顔が、見る見るうちに歪んでいった。
大きな瞳に、涙の粒が浮かぶ。

「唯ちゃん……」

握られた手を、私はぎゅっと握り返した。

自然と、言葉が漏れていく。
私は唯ちゃんに、話した。家のことも、自分の家族のことも。

「私ね、ずっとおかえりなさいって、お母さんやお父さんに言ってほしかった。
けど家にはほとんど帰ってこないから……会うことだって難しいくらい」

私がそう言って笑って見せると、唯ちゃんはまるで自分のことのように泣き出した。

「ゆ、唯ちゃん!?」
「わ、私もお母さんとかお父さんはよく家にいないけど……、憂がいてくれるし……
何も知らなかった、ムギちゃんのこと……!誰もいないなんてそんなの、寂しいに決まってるのに……!」

唯ちゃんの頭を撫でながら、私が「でも、慣れてるから」と言うと、唯ちゃんは
「そんなのおかしいよ!」と首を振った。

「おかしいよムギちゃん……」
「唯ちゃん……」

唯ちゃんは泣き続けた。
泣けない私の代わりに。

やがて、優しい赤が保健室を染め始めたとき、唯ちゃんは涙を拭って
私を見た。

「ムギちゃん、家においでよ!」

「……どういうこと?」

「家、私や憂しかいないけど……でも、ムギちゃんにおかえりっていえるよ!
ううん、私がムギちゃんにおかえりって言いたい!」

きらきらと輝く瞳で、唯ちゃんは。
私はどう返事したらいいかわからなくて、うんともううんとも言えずに唯ちゃんに
縋りつくように抱き着いた。

「ムギちゃん?」
「……唯ちゃん、私……」
「何も言わなくていいよ、ムギちゃん」

唯ちゃんの暖かな手が、私の頭をゆっくりと撫でていく。
それがとてもとても心地よかった。


「それじゃーな」

りっちゃんと澪ちゃんが、続いて梓ちゃんがそれぞれの家へ帰って行った。
いつもなら私も、梓ちゃんと同じ場所で反対方向に曲がって駅に向かうけど、
今日は唯ちゃんの隣をずっと歩いた。

「なんか新鮮だねえ」
「そうね」

唯ちゃんがそう言って笑い、私も笑い返す。
何度も来てるはずなのに、見える景色全部が新鮮で気持ちよかった。
家には「暫く唯ちゃんの家にお世話になる」と言って連絡しておいた。

「ムギちゃんムギちゃん!憂にメールしたらね、今日はご馳走作って待ってるって!」
「別に気遣わなくてもいいのに……」
「いいのいいの!憂の作る料理は美味しいよー!」

唯ちゃんは嬉しそうに笑いながら「楽しみだなあ」とスキップする。
私の心まで、いつも部室に入るときに感じるみたいに弾んでいく。

唯ちゃんの家の前に着くと、まるで見ていたかのように憂ちゃんが家から出てきた。

「お姉ちゃん、紬さん、お帰りなさい!」

お帰りなさいと言われた私は、嬉しさと驚きと、色々な感情が混じって、ちゃんと
「ただいま」って言いたいのに震える声になってしまった。

「早く入って!晩御飯の用意はもうできてるよ!」
「さっすが憂~!それじゃあさっそく……」
「手を洗ってから!紬さんも早く!」

「憂のケチ~」と唇を尖らせながら、唯ちゃんは家の中に入っていく。
憂ちゃんが私の背中を押して、中に入らせた。

唯ちゃんが、多分洗面所のほうから顔を出して「ムギちゃんこっちー」と手を
振った。

「手洗わなきゃ憂にご飯食べさせてもらえないよー」
「え!大変、すぐ行くね!」

私は靴を脱ぐと、洗面所に向かう。
憂ちゃんが後ろで「そんなに急がなくてもいいですよ」と笑っていた。

手を洗ってリビングに行くと、確かに豪勢な料理が並んでいた。
クリスマス会や年末年始で何度か泊まったこともあるけど、こうして何もないのに
友達の家に泊まることは初めてな私は、わくわくもしていたけど少しだけ緊張した。

「ムギちゃん、そんなに緊張しなくても大丈夫だよう」
「う、うん、そうだよね!」

唯ちゃんに言われて、私はふっと肩の力を抜いた。

「紬さんの口に合うかどうかわかりませんけど……どうぞ」

憂ちゃんがお茶碗にご飯をいっぱいよそって私に渡してくれた。
ありがとう、とお礼を言って受取る。
私は一口食べると「美味しい!」と憂ちゃんを見た。
憂ちゃんは嬉しそうによかったです、と言って他のものも勧めてくれた。

一人で食事するより、やっぱり誰かと食べるほうが、
どんな料理でも美味しく感じさせる。
いつも家に居るシェフが作る料理とは違ったけど、とても温かくて本当に
美味しいと思った。

ご飯を食べ終えると、唯ちゃんが私を唯ちゃんの部屋に誘ってくれた。
けど、その前に何も泊まらせてもらうお礼を持って来ていなかった私は、せめて
何か手伝わなきゃと思って憂ちゃんのお皿洗いを手伝わせてもらった。

「別に私一人でも大丈夫ですよ?」
「いいのいいの!美味しい料理いっぱいご馳走になっちゃったし、これくらいは
させて」

申し訳なさそうな憂ちゃんにそう言うと、「気にしなくていいのに」と言いながらも
私に仕事をくれた。憂ちゃんの洗ったお皿を布巾で拭いて、食器棚に戻す。
それを数十分かけて終わらせると、唯ちゃんが待っていたように駆け寄ってきて
私の手を引いて二階に駆け上がった。

「ムギちゃん、私の部屋で遊ぼう!」
「お姉ちゃん、もう夜だからギターとかあんまり大きな音たてちゃだめだよー?」
「はーい」

下から聞こえた憂ちゃんの声に、唯ちゃんは元気よく返事した。


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最終更新:2010年11月21日 02:45