律「っ!」

その開始の合図と同時に、律先輩が動いた。
素早く箸を掴み、猛然と巨大ドンブリに挑みかかる。

紬「りっちゃん早いっ」

梓「凄いスピードです……!」

律先輩はモヤシをガンガン切り崩し、口へ運んで行く。
モヤシの層に穴が空き、麵が見えると目を見張る量を一気にすすり込む。
山盛りの具が雪崩のように崩れて穴を塞いでしまうと、再び具だけをガツガツと食べ進み……それを、延々と繰り返す。
凄まじいスピードで。

律「はむっ、んぐっ!」バクバク

その女子高生とは思えないあっぱれな食べっぷりに、店の客たちは手を叩いて大喜びだ。

唯「んんっ、あむあむ!」

澪「……!」パクパク

対する唯先輩と澪先輩は、律先輩と比べると一見地味だ。
しかし、二人とも確実に具を切り崩して食べ進めている。
特筆すべきは唯先輩だ。

唯「むぐむぐ……」

紬「唯ちゃん、苦しくないのかしら?」ハラハラ

律先輩と澪先輩は麵と具、交互にバランス良く食べ進めているのに対し、唯先輩は具のみをほっぺたがパンパンになるまで詰め込み、咀嚼している。
具ばかりを食べ続けるのに苦痛を感じないのだろうか……その消費はあくまでも「上から順に」だ。
唯先輩の動きは派手に食べ進める律先輩や機械のように正確で素早く箸を動かす澪先輩と比べると緩慢に映るが、一口の量が尋常ではなく、また無駄がない。
たちまち唯先輩のラーメンに乗っていたはずの具の山は姿を消し、箸が麵を捉え始めた。

律「……!」

澪「……!」

それを横目で見た二人は、さらにスピードを上げる。
鬼気迫る表情、とはこのことを言うのだろうか。

そして私たちが――――周囲にいた野次馬たちが事の重大さに気付き始めたのは、スタートして15分を経過しようとしていた頃だった。

「お、おい、全部食っちまうぜ……」

誰かがそう呟いた。
まずは律先輩が、ドンブリに手をかけてスープを飲み干しにかかった。
十秒ほど遅れて唯先輩が、さらに数秒遅れて澪先輩がそれに続く。

紬「す、凄い……」

ムギ先輩の感嘆の言葉と共に、ドンブリの中身がどんどん減って行く。
そして――――ドンッと、ドンブリを机に置く音が店内に響いた。

……

一服つけるか……
厨房全体の作業に睨みを効かせていた如月十郎は、腕組みを解いて白衣のポケットを探った。
――鉄人定食を頼んだ連中は、そろそろギブアップする頃だろうか。

「お、親方あっ!すげえ、すげえっすよあいつら!」

「んバカやろうぅ!」

煙草を探り当てると同時に厨房に飛び込んできた雑工の顔面に、如月十郎はカウンターを浴びせた。
雑工はカエルのようにひっくり返る。

「てめえ、お客を捕まえて『あいつら』たあどういう言い草だ!」

「いつつ……そ、それより親方!早く餃子を出して下さい!もうじきラーメン完食っす!」

「なにい?」

そして、客席から津波のような歓声が押し寄せてきた。
ここしばらく聞かれなかった歓声だ。
如月十郎の表情が静止する。

「おいおい、マジかよ……」

「まだ15分経ってないぜ」

「どんな化け物が来たんだ?」

「いや、女子高生三人らしいぞ」

厨房で鍋や包丁を振るっていた料理人たちもどよめいた。
無理もない、開始15分にしてラーメン完食……これは過去の記録に照らし合わせても最速の部類である。

「親方、鉄定の客ってどんな奴なんすか?」

「プロレスラーや関取みたいな女っすか、それともギャル○根みたいな……」

「うるぁ!喋ってないで手ぇ動かせ!それとドンブリをとっとと下げて来い!」

如月十郎が一喝した。
厨房にいた全員が飛び上がり、各々の仕事に慌てて戻って行く。

「親方、鉄人餃子三丁上がりました!」

如月十郎はスイングドアを肩で押し、客席を覗いた。
野次馬たちの中心にいる、三人の客。
ふん、と鼻を鳴らす。
最近は情けない客ばかりを相手にしていたので、どうやらこちらの目が曇ってしまっていたらしい。

「なるほど、いい面構えしてるじゃねえか……」

「親方、餃子出します!」

「……待て、器が戻って来てからだ」

そう。
次の料理を出すのは、前の料理が戻って来てから。
鉄人定食における鉄の掟である。

これは挑戦者にとっては決して些事ではない。
器の上げ下げなどせいぜい一分もかからないし、その間はストップウォッチも止められる。
だが、「途中で嫌でも休まなければならない」というのは大食い早食いにおいては重大な悪影響を及ぼす。
休んでいる間にも血糖値は上がり続けて満腹中枢が悲鳴を上げるし、集中力が途切れるのも痛い。

「根性、見せてもらおうじゃねえか……」

過去の挑戦者たちの多くも食べている最中ではなく、この「休み時間」の終わり際にギブアップしている。
どうしようもない満腹感に苛まれる中、「さあ次はこれだ」と次の料理を突き付けられて気持ちが一挙に挫けてしまうのだ。

……

唯「……」

律「……」

澪「……」

静かだ。
食べ終わった直後は荒い息を吐いていたが、今は三人とも椅子に身を預けて深呼吸を繰り返している。

紬「りっちゃん、こっち向いて。ほら、澪ちゃんも……」

澪「……ん」

梓「唯先輩、失礼します」

唯「うん……」

私とムギ先輩は、二人がかりで唯先輩たちのお世話をしていた。
大量の汗や顔にかかったスープを優しく拭き、飛び散った具を拾っていく。
少しでも熱くなった体を冷ませるよう、必死に扇いで風を送る。

梓「風、来てますか?」

律「ああ……」

もうこの三人の闘いを止めることは、私たちには出来ない。
ならば――――せめて、自分たちの出来ることしよう。
そして、見届けよう。

「おいおい、まさかこんな娘たちが鉄人ラーメンを食っちまうなんてな……」

「すげえ根性だ、なかなかいないぜ」

「おい、誰に賭ける?」

野次馬たちは大騒ぎだ。
全員が席を立ち、テーブルの周囲には分厚い人垣が出来ていた。
賭けが始まっており、壁に掲げられた黒板の「本日のおすすめ」は勝手に消されてオッズが書き込まれていた。
わずかに律先輩が有利なようだ。

梓「……」

紬「……」

不謹慎だとは思うが、私もムギ先輩もそんなことに構っている余裕はない。

……

薄く目を閉じ、必死に心を落ち着ける。
――――大丈夫、まだ行ける。
私はまだ、食べられる。

律「……」

目を開き、澪と唯を見つめる。
別に目的は鉄人定食を完食することではない。
心の中で自らを鼓舞する。

目的は、唯と澪に勝つことだ。
目的は、唯と澪がゲロを吐いてもう勘弁して下さいと頭を下げる時まで食べ続けることだ。
食べきることではなく、食べ続けることだ。

律「……ムギ、水を貰えるか?」

紬「はい、りっちゃん」

律「ありがと」

水を少しだけ飲み、集中力を高める。
……ムギと梓には悪いことしてるな、これが終わったらしっかり謝ろう。
でも、今だけは。
絶対に、譲ってやるつもりはない。

律「ふう……」

ゆっくりと、息を吐く。
何故こんな勝負になってしまったのかは、自分でもよく分からない。
しかし。
今さら後には引けず、絶対に怯んではならず、一歩たりとも譲ってはならない。

……

左手のどこかでスイングドアが大きく軋む音がして、周囲の野次馬たちが悲鳴にも似た声を上げた。
どうやら、次のメニュー……鉄人餃子とやらが、その姿を現したらしい。

梓「ムギ先輩……」

紬「ええ……」

私とムギ先輩は、唯先輩たちの介抱を止めて一歩下がる。
ただ見ているだけしか出来ない自分が口惜しい。
テーブルの上に、いくつもの巨大な皿が並べられた。

紬「ひっ!?」

梓「こ、これは……!」

その姿を見た瞬間、私は「少ないな」と思った。
……しかし、それはひどい勘違いだった。

よくは知らないが、大食いメニューにおける餃子の数の相場はどれくらいなのだろうか?
私は、何となくだが50個や100個くらいが妥当だと思う。
しかし、これはどうだ。

紬「あ、ああ……」ガタガタ

梓「落ち着いて下さい、ムギ先輩っ!大丈夫、大丈夫です」ギュッ

紬「梓ちゃん……でもあれは……」

梓「……」

でかい。
信じられないくらい、でかい。
皿に乗っている餃子の数は、わずか5個。
しかし、それが意味することは――――

紬「あ、あれは何?オムレツなの?」

梓「……いえ、あれは大きいけど餃子ですよ」

紬「ぎ、餃子って箸で掴んで小皿のタレをつけて食べるのよね?」

梓「私の記憶が正しければ、そうだったと思います」

紬「あの餃子……箸で掴めるとは到底思えないんだけど……」

梓「……」

一口で食べきれる大きさではあり得ない。
二口でも絶対に無理だ。
「皿の上の5つの餃子」というのは視覚的な錯覚を起こしやすいが、この鉄人餃子とやらはもう正気の沙汰とは思えないサイズだ。

唯「……」

律「……」

澪「……」

先輩たちは三人とも、鉄人餃子を前にしても身じろぎ一つしない。

「鉄人餃子、お待ちどうさまでした。それでは卓から手を離して――」

周囲のざわめきが沈黙に飲み込まれていく。
私とムギ先輩も、固唾を飲んで見つめる。

「どうぞっ」

先輩たちがゾンビのように身を起こし、ピラニアのように餃子に襲いかかって行った。

突然だが、もし自分の前にオムレツのような巨大餃子が現れたら、どうやって食べるだろうか。
その答えの一つが――いや、おそらく一般人なら誰もが取る答えが、澪先輩のやり方だろう。

澪「はむ、はむっ!」カチャカチャ

タレを直接かけて、スプーンを使って食べる。
澪先輩はこれを実践し、正確かつ凄まじいスピードで食べ進める。
ところが、唯先輩と律先輩は。
第三の道を、選択した。

唯「あむっ!」

律「んぐぐ……!」

紬「ひっ!?りっちゃん唯ちゃん、熱くないの!?」

二人はスタートと同時に……箸を、捨てた。
油ぎらぎらの巨大餃子を素手で掴み、かぶりついたのである。
まさかの出来事に野次馬たちは悲鳴を上げ、瞬く間に消えていく餃子を茫然と見つめた。


唯「むぐ……えほっ、えほっ!」

律「はあ、はああ……あむっ!」

開始30秒足らずにして、もう一つ目がなくなろうとしている。
信じられない早さだ。
あの澪先輩が置いて行かれようとしている。

澪「く……!」ガチャガチャッ

そのことに気付いたのか、滅茶苦茶にスプーンを動かす澪先輩。
しかし、唯先輩と律先輩の勢いは止まらない。

唯「はぐっ!」ブチュッ

「ぎゃあーーーーっ!?あぢあぢあぢあぢぢぢぢぢ!」

唯先輩が3個目に喰らいついた時、思わぬ悲劇が起こった。
餃子の分厚い皮に封じ込められていた肉汁が噴き出し、野次馬の一人に直撃した。
その野次馬は床を転げ回り、人垣がわずかに後退したが……こちらはそれどころではない。

梓「先輩っ!手は、手は大丈夫なんですか!?」

……

大丈夫じゃないよ、あずにゃん……
返事が出来ないので、心の中で可愛い後輩の問いかけに答える。

唯「はぐっ、はふはふっ!」

手のひらがぢんぢんする。
口の中の感覚が鈍い。
それでも食べ続ける。

紬「っ!……っ!」

梓「唯先輩……!……っ!」

あずにゃんとムギちゃんが何かを叫んでいるけど、何を言っているのか分からない。
ただただぬるぬるした餃子の皮を歯で食い破る。
肉汁のあまりの熱さに、気が遠くなりそうだ。

……あれ?
そもそも私、どうしてこんなことをしているん、だっけ……?
確か、りっちゃんにごはんはおかずを否定されて……

唯「んんんっ!?」

食べている最中に余計なことを考えたのが悪かったのか。
お腹の中で何かがぐるりと痙攣し、喉が「いやいや」をした。

唯「んむ~~~っ!」

止めようとしたけど、無駄だった。
何もかもが逆流した。
反射的に唇を固く窄め、何とか戻すことは阻止したけど……口の中にまだたっぷりと残っていたものが胃液に塗れたようだ。

唯「ぐっ、んんぐう……」

苦しい。
血の気が引き、全身から冷汗が噴き出しているようだ。
涙が溢れる。
もうやめたい。
もう楽になってしまいたい。

唯「……!」

律「むぐぐ……!」

澪「はむはむっ!」

涙で歪み、滲み、霞んだ視界の中、りっちゃんと澪ちゃんの姿が目に入った。
――――負けたくない。
絶対に、負けたくない!

唯「んんっ!」

慌てて私に近寄って来ていたあずにゃんとムギちゃんを振り払う。
鼻から息を吸い込み、意地のすべてを注ぎ込んで喉の動きを制御する。

唯「むぐ……んぐっ、ごくんっ」

ゆっくりと、しかし確実に口の中のものを飲み下して行く。
5回ほど喉を動かし終えたところで大きく息を吐く。
口の中には、もう何も残っていなかった。

唯「はあ、はあ……あむっ!」

すぐさま食べるのを再開。
周囲の野次馬たちが大歓声を上げている。
うるさいなあ。

……

――――信じられない。
唯も律も、もう食べ終わりそうだ。

澪「……」

私ももう少し、ではあるのだが。
どうしてなのか……私の手は、ぴくりとも動いてはくれなかった。
いや、手だけではない。

澪「う……」

声を出すことが出来ない。
身じろぎすることも出来ない。
視界はぼやけ、今にも意識を手放してしまいそうになっている。
これ以上食べようものなら――――自分がどうなってしまうのか、見当もつかない。

紬「澪ちゃん、お願い!もうやめて!」

ムギが何かを叫んでいる。
泣くなよムギ……

澪「あ、ああ……」

体が震え始める。
歓声が聞こえた。
どうやら、唯と律が完食したらしい。

紬「澪ちゃん!澪ちゃん……!」

ははっ、すごいな二人とも。
私より小さいのにさ。
あ、そういえば私ダイエットしてたんだっけ……どうしよ、絶対に増えたなこれ。

梓「澪先輩……!ギブアップして下さい!」

梓も泣いている。
気力を振り絞って顔を上げると、辛そうな唯と律の顔が見えた。
……負けたよ、二人とも。
私はもう、食べられない。

澪「でも……」

このまま終わるわけにはいかない。
私だけ、頑張らないわけにはいかない。
意地を見せつけないわけには、いかないんだっ!

紬「澪ちゃん!?」

梓「ちょ、澪先輩!?」

スプーンをゆっくりと掲げる。

澪「今日死んでも、悔やまないってくらい――」

狙いはもちろん、この皿に残っている餃子だ。
見ててくれよ、みんな……

澪「――――全力で、生きたいんだ!」

最後の力を注ぎ込み……かきこんだ。
意識が、途絶えた。


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最終更新:2010年11月26日 00:48