ブーンブーンと言う音が布団の中から聞こえる。

唯「こんなの付けてちゃ眠れないないよぉ…」

私がアンドロメダで機械の身体を貰ったと言う訳ではない。

ただ、腕にセットされた血圧計が、

一時間ごとの仕事を果たしているだけなのだ。

だが、その血圧計が動作するごとに、

私は深くない睡眠から確実に呼び戻される。

唯「寂しいなぁ…」
一つベッドを挟んださらに先のベッドの患者がまた絶叫している。
二時間おきと言う時間を正確に守っていて、

私はそうじゃ無いんだけど、

あの人は実はロボットなのでは無いかと思えてしまう。

良く考えてみれば、

看護婦が二時間おきに体勢を変えるようにしているので、

その絶叫がタイマー仕掛けのように時間に正確なのも当然の事だった。

患者「痛い、痛いからぁ!」

看護婦「そんな事言っても、

足上げないと~~さんの位置変えられませんから」

患者「止めてよぉ、そんな嫌がらせぇ!」

看護婦「嫌がらせじゃないですから」

看護婦は患者の抗議を冷静に受け流して、作業を淡々と続ける。

その度に患者は絶叫する。

患者「痛い痛いぃ!!」

私は耳を塞いだ。

救急病棟の夜と言うのは静かになる事が無いらしい。

唯「憂ぃ…」

涙を吸った枕は、私の頬を冷やしてくれて、それが少し気持ちが良かった。


―――

その日の私の体調は最悪だった。

しゃっくりが止まらず、またそのしゃっくりをする度に、

身体が激しく揺さぶられる。

私は働いていない事もあって、日中ずっとベッドで横になっていたけど、

体調は一向に良くならなかった。

ダルさと言うのが極限状態に至るとこのようになるのか、

と言う感じで、身体に命令を出しても手は上がらず、

足に力は入らず、それどころか、手も足も、

いや心以外の全てが私のもので無いと言った方が早いように思えた。

禁断症状の事を別名離脱症と呼ぶ。

字義通り、私の心が身体から乖離した場所にあるようだった。


―――

私は気付くと救急車で搬送される途中だった。

残業で遅くなった憂が帰ってきた時、

私はまったく灯りのついていない居間で、

ペットボトルの紅茶を飲もうとしていたらしい。

そして、帰ってきた憂に「お帰り」と言おうとした瞬間倒れて、

突然激しい痙攣を始めたと言う事だった。


―――

私は気を失った事どころか、紅茶を飲もうとしていた記憶も無いので、

これは全て後から憂に聞いた話だ。


病院に着くと、ストレッチャーで運ばれ、

そしてこの救急病棟に運び込まれ、ベッドに下ろされた。

私は、テキパキと点滴の準備をする看護師を見て、

「私、血管細いからなぁ…、一発で綺麗に入れてもらえると良いなぁ…」

なんて事を考えていた。

幸いにも、いや、看護師の彼女の錬度に拠るのだろうが、

点滴は大した痛みも無く私の腕にセットされる。

それを待っていたように医師が横になったままの私に説明を始めた。
医師「数日間は幻覚が出る事もあります。

その場合強制的に拘束衣を着せることもありますから、

それは了解の上でお願いします」

私は入院を了承する書類に署名しようとしたが、手が震えて上手くいかず、

半分憂に書いてもらうような形で何とか自分の名前を書く。


私は、医者の「数日間は~」と言う言葉に、そこで退院出来るんだろうか、

また元の生活に戻れるんだろうかとぼんやりと考えていた。

でも、元の生活に戻ったところでどうなのか、

というところまでに考えは回らなかった。

憂「お姉ちゃん、じゃあ、明日夕方にまた来るからね」

憂は最後に私の手を握ってくれた。


―――

医者「何でそんなにお酒を飲むようになったのか、

この入院はそれを考える良い機会だと思ってください」

医者は何度もそう言った。

何でこうなったんだろう。

幾つか考えられる理由に、高校時代の事がある。


高校に入学したばかりの頃、

幼馴染が「あなたそのままじゃニートになるわよ」

と忠告してくれた事があった。

私は当時その忠告をあまり重く考えずに、

無視して、結果無為な高校時代を送った。


私は当時その忠告をあまり重く受け取らずに、

無視して無為な高校時代を送った。

あまり勉強も頑張らず、短大に進学。

あまり熱心に就職活動をせずに、地元の中小企業に就職。

あまり仕事を真面目にせず、リストラ。

あまり再就職活動に身を入れず、ニート。

結局、その幼馴染の忠告と言うか予言は的中した形となった。


今考えれば、高校時代を無為に過ごした事が、

このような状況を招いていると言う事なのだろう。

世間的には、リストラされて酒に走ったと認識されるんだろうが、

私の中ではこう言う理解だった。


―――

入院一夜目はまったく寝付けないままに朝がやって来た。

食欲は無かったが、私の意思とは無関係にベッドの上に朝食が用意される。

看護婦が私が食事をするのを見張っているので、

無理矢理にでもと、口に運んでみる。

味は薄いように感じたけど、たぶん不味くは無い。

でも、いつも憂の用意してくれる食事と比べてしまうと、

急に味が数段落ちたように感じて、ますます私の箸は進まなかった。

いつもだって、きっと食事を取っている時の私の状態を考えたら、

ちゃんと味を感じられるような状態と言う訳では無かった。

だけど、やっぱりこの病院食はどう考えても、憂のそれと比べると、

一段どころか数段落ちるとしか思えないものだった。


―――

朝食を取ると、本格的にする事が無くなる。

相変わらず、一時間おきに血圧計はブーンブーンと私の腕を圧迫し、

~~さんは二時間おきの絶叫を聞かせてくれる。

夜中まったく眠れなかった反動がやっとやって来てうとうとするが、

その二つの自動機械は私を眠らせてはくれなかった。

医者は最初に「睡眠をきっちり取るのが治療の第一歩ですから」と言っていたが、

この状況で睡眠を取れる人がいるのであれば、それは相等に鈍感な人であろう。

私は眠たいのに眠れないと言うこの状況にちょっとイライラするが、

「眠れない場合は看護師に相談してくれれば、睡眠導入剤を処方します」

と言われた事を思い出す。

ボタンを押して看護師を呼ぶ。

唯「すいません…、睡眠導入剤を頂けると…」

看護師はちょっと、呆れたような顔をする。

看護師「平沢さん、昨晩聞いた時に、

睡眠導入剤はいらないとおっしゃいましたよね?」

唯「で、でも、あの時は、その…」

看護師「大体、今の時間に飲んで寝たらまた夜寝られませんよ?」

唯「よ、夜は夜で、あ、あそこのベッドの~~さんとか血圧計があるから…。

眠気の来てる今、導入剤使って一気に…」

看護師は大きなため息をつく。

看護師「昼食が終わったら、午後には内科の方に移動になりますから、

そしたら今晩は眠れるんじゃないですか?」

唯「け、血圧計の方は…」

看護師「それも明日一杯で外しOKが先生から出ると思いますから、

今日明日ぐらいは我慢して下さい」

看護師は、それだけ言うと、

もう私の相手をしてる暇は無いとばかりに行ってしまう。

午後には内科の方に移れる。

それは少しだけだが、私の心を上向きにしてくれる事実だった。


―――


憂「着替え持って来たから。取り合えず、一週間分だけど」

取り合えず、一週間。

「取り合えず」と言う憂の言葉は、内科に移って少しだけ上向きになっていた、

私の心をまた折り曲げるには十分だった。

憂「それから、退屈だと思ったから…、

はい、これ。お姉ちゃんのipodも持って来た」

唯「ありがとう…」

私は、出来るだけ憂の手を煩わせないようにと、

ベッドの横の棚に着替えを入れるのを手伝おうとするが、未だ左手に入っている点滴が邪魔で、その努力は徒労に終わった。

憂は寂しそうにクスリと笑う。

憂「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私はずっとそばにいるからね」

実際ずっと、憂は私のそばにいてくれていたけど、

今はその気遣いがとても苦しかった。

憂「そうだ、これ」

憂はタッパーをトートから取りだす。

憂「リンゴね、切ってきたの。

お医者さんに聞いたら、大丈夫だって言うから食後にでも食べて」

唯「あ、ありがとう…」

今日、私は憂に対して「ありがとう」としか言えていない。

本当はもっと色々な事を伝えたいはずなのに。


―――


朝、起きると憂はもう横にはいない。

ここ最近、私が起きた時間に憂が隣で寝ていたと言うのは記憶にない。

ベッドを同じにしたのは、確か私が何回か大きな遅刻をして職場で叱責された事から、

憂が言い出した事だった。


憂「お姉ちゃん、起こしてもすぐ二度寝しちゃうからね…」

憂も既に就職していたので、

私が二度寝していないかを一々確認する事に時間を割く事は中々難しい状況だった。

隣で寝ていればいくらかはマシだろうと言う苦肉の選択だったに違いない。


同じ布団で寝るようになってすぐ仕事を辞めてしまったので、

本来の狙いと言う点では、あまり意味のある事では無かったと思う。

だが、その後、夜幾度となく訳の分らない対処不能な不安に襲われる事になった私は、

近くに感じられる憂の体温によって安心を得る事が出来たので、

そう言った点では良いアイデアだったと言えた。


――

朝起きると、まずテーブルに憂が用意してくれている朝食を食べる。

そして、その時にコストコで箱買いした500ccのコントレックスを、

半分だけ飲む。

朝食が終わると、

コントレックスのペットボトルに継ぎ足すようにジンロを注ぎ入れ、

振ってかき混ぜる。


こうしておけば、昼間に外で飲んでいても、

周囲の人に非難の視線を浴びる事は無い。

職を辞めてから、普段あまり頭は働かせる事も無いのに、

こう言う事だけは思いつく自分の駄目さと言うものに酷い嫌悪感を抱くが、

だが、それでも酒を止める事は出来なかった。


―――

こうして、作った特製の水筒を持って散歩に出かける。

お金も無いので、近くの公園を散策したりするのがメインだ。

午前中、そうして訪れた公園のベンチに座っていると、

私とそう年齢の変わらないママさん達が子供達を連れて遊びに来ているのに、

良く遭遇する。

私と年齢が変わらないと言う事は憂とも変わらないと言う事だ。

もはや後戻りの出来ない私はともかく、

憂はこの場にいてもおかしくない感じがする。

私は、私の存在が憂の人生を奪ってしまっている可能性に関しては、

考えないようにしていた。

確かに憂は、

よく「大丈夫、私がお姉ちゃんのそばにいるから」

「お姉ちゃんは今は少し疲れてるだけ。また、動き出す時のために力を貯める時なんだよ」

と言ってくれる。

だけど、そんな事は無いだろう、と言うか憂の欲目だろうと私は思う。


―――

そんな毎日を過ごしていると、

たとえ手に持っているのがミネラルウォーターのペットボトルとは言え、

不審に思う人も出て来るらしい。

老人「ちょっと、あなた」

唯「はい?」

老人は、まだ60を少し過ぎたばかりだろうか、

最近の老人に良くある感じであまり「老人」と言う感じのしない男の人だった。

老人「毎日ここにいるね」

唯「あ、はい」

老人「私はね、そこの家に住んでいるものだけどもね」

唯「はぁ」

私は、老人の指さす公園と隣接する家を見る。

老人「あんた、ここ最近ずっとこの公園にいるでしょ。

公園に来る奥さん達から苦情出てるんだよね」

唯「はぁ」

老人の家の壁には地域の防犯連絡所の看板が掛けられている。

なるほどと私は思う。

老人「あんた、仕事何してるの」

唯「あ、あの、その…」

私はその場を立ち去ろうと立ちあがる。

上手い言い訳の言葉は出て来ず、

ただ、喉の奥から苦い汁だけが込み上げて来る感覚。

そして、最近良く感じる胸のムカつき。

吐き気と言う訳ではない。

異変を訴えているのは横隔膜だった。

私はしゃがみ込んで何度も激しくしゃっくりをする。

老人「ちょ、ちょっとあんた…」

私は答えようとするが、口から洩れるのは「ヒーヒー」と言う異常な呼吸のみだった。

その老人は私を病人か何かだと勘違いしてくれたようで、

私の発作が止まった頃には消えてくれていた。


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最終更新:2010年11月28日 03:57