―――

憂「じゃあ、また明日夕方にね」

唯「あ、憂…」

憂「ん、何、お姉ちゃん」

唯「その、仕事忙しいようだった無理しなくて良いから…」

憂「大丈夫。お姉ちゃんは良くなる事だけを考えて」

憂は雑誌や、TV視聴用のカード、コップと言った入院生活用の様々なグッズをベッド横の棚に並べ、

私に一々説明し終えると帰って行った。

私は、ベッドに身体を横たえ、布団に潜り込む。

睡魔は、私の瞼を落そうとしたが、

その瞬間また例の自動機械が振動し、私を眠りから引き戻す。

―――

唯「憂?」

ベッドを区切っているカーテンが揺れたような気がした。

いや、こんな時間に憂が来るわけ無い。

唯「誰…」

暗闇の中、目を凝らすとカーテンの合わせ目のところに人が立っている。

看護師の巡回もさっき終わっている。

看護師でも無い。

あ…。

えっと、名前は思い出せないけど、高校の時部活に誘ってくれて人だ。

なんで、あれから十年近くたってお見舞いに来てくれるんだろう。

いや、こんな時間にお見舞いなど有り得ないと言うのは、

今自分自身で思ったことでは無いか。

私は激しく狼狽し、けれどその狼狽も長く続かず、

また眠りと覚醒の間のような状態に戻って行く。

彼女は、あと一人入部しないと、

高校で頑張ろうと考えていた部活が廃部になってしまうとかで、

私を随分熱心に勧誘してくれた。

でも、私は自信が無いとか確かそんな理由で断ってしまったのだ。

結局、その部活は廃部になったらしい。

医者は何度も

「どうしてそんなにお酒を飲むようになったのか、良く考えてみてください」

と言っていた。

明確な理由の一つに、その時の後悔を忘れるためと言うのがあるように思う。

カチューシャの彼女の悲しそうな姿の幻覚なんていうのを見たのが、

なによりの証拠だ。


―――


再び、働き出さねばならない。

憂の手取りがその年齢の女性の平均給与を大きく超えない以上、

そう言う風に考えるのは当たり前だった。

バイトの面接の日、私は朝からアルコールを控えて出かける。

いつもの水筒に偽装した焼酎も持たない。

だが、結局、店の近くの自動販売機を探してしまう。

結局、この日、面接の前に二本の缶ビールを開けてしまっていた。

憂「帰りに玉ねぎとパン粉買って来て。明日はハンバーグにしようと思うの」

最近は一回に一つの事しか覚えていられないようになってしまっていた。

仕方が無いので、言われた事、

やらなければならない事を手の甲にメモしていく。

手の甲はそんなメモで真っ黒になっていた。


当然、面接でも、手の甲の事を聞かれる。

慌てて気の効いた返答をしようとするが、出て来ない。

かわりに心臓の鼓動が早くなって、

胃の奥から出て来るようなおかしな咳き込み方をする。

口の中にさっき飲んだビールの味が広がる。

面接官にもその臭いが伝わってしまったのであろう。

そのバイトには落ちたのは、それが理由なのは確実だった。


駅前のスーパーで憂から頼まれた買い物を終えて、帰ろうとしたところ、

アコースティックギターとウッドベースと言う女の子の二人組みが演奏をしているのに気付く。

一人は何か猫みたいな感じの子で、

もう一人は髪がほわほわした感じの子だった。

私は最初何となく足を止めて見ていたけど、次第に腹が立って来て、

聞こえるようにわざと悪口を言ってしまう。

唯「何、自分に酔っちゃってるの?

こんなとこで安っぽい青春応援歌なんか歌っててプロになれると思ってるの?」

二人の女の子は私の言葉を無視して演奏を続ける。

その態度にますますイライラが募る。

唯「ねえ、これ周りの人から別に求められて無いよね?

こう言うの何て言うか知ってる?」

猫っぽい女の子がちらっと私の方に視線を送る。

私はやっと相手にされたと言う感覚からか、

ますます調子に乗って言葉を続ける。

唯「オナニーって言うんだよ。

オナニーは人に見られないように、押入れの奥か、

シャワーを最大にして音が聞こえないようにしてやるもんじゃない?」

常軌を逸した行動だと言うのは分かっていた。

でも、今の私は普通の人なら押し留められるような行動や発言に、

まったく歯止めが掛からなくなっていた。

この頃は、この時だけに限らず、

幾度となくこう言った行動に出てしまう事が多かったのだ。

ギターの方の子が演奏を止めて、立ち上がり、私の方を睨む。

?「ちょっと、貴女がどう言う人か知らないですけど、

聞きたくなかったら立ち去れば良いだけの話じゃないんですかっ?」

ウッドベースの子はギターの子の手を引いて、押しとどめようとする。

?「ちょっと、梓止めなよ。ただのよっぱらいだから」

梓「純、悔しくないの?」

純「そうじゃなくて…」

遠巻きに二人組の演奏を見ていた歩行者達もおかしな雰囲気を感じたのか、

私とその2人組の周りに寄って来る。

憂「お姉ちゃん?!」

その時、憂の声。

唯・梓・純「憂?!」

私だけでなく、2人組もまた、憂の方を見てその名前を呼んでいた。

憂は二人組に何度も頭を下げていた。

私は、少し離れたところでその様子を見ている。

憂「お姉ちゃんがごめんね」

純「いや、良いよ良いよ、気にしてないからさ…」

梓「憂も不幸だね、あんなお姉さんがいて」

純「梓!」

梓「だってそうじゃない」

純「憂、ごめんね、この子意地っ張りでさ」

憂「いいよ、純ちゃん…。梓ちゃんごめんね、迷惑かけちゃって」

梓「…、私も言い過ぎた…、ごめん…」

最後に憂は二人組に頭を下げると、私の方に駆けて来る。

私と憂は手を繋いで歩いていた。

唯「あの…、あの二人憂の友達だったんだね…」

憂「うん、高校の時の同級生なの」

唯「そうなんだ…、その…、ごめんね…?」

憂「良いよ、お姉ちゃんのことだもん、何か理由があったんだよね…」

理由はきっとアルコールで、ただそれだけの事だ。

それは憂も分かっていると思ったけど、

私は気を使ってくれた憂の言葉を肯定も否定もせず、口をつぐんだ。

酒に溺れた姉。

それを甘やかす妹。

どこにでもある話だった。

一体何番煎じになるのだろう。

私達はしばらく言葉を交わさず歩いていたが、

私は繋いでいた憂の手が震えているのに気付く。

憂は声を押し殺すようにして泣いているようだった。

憂がポソリと呟く。

憂「私がいるせいでお姉ちゃんが悪い方に行っちゃうのかなあ…」

違う。

憂にそう思わせてしまう、私が全面的に悪いんだ。


―――

脳波の検査が決まったと告げられたのは入院してから、

二週間が過ぎた頃だった。

この脳波の検査結果によって、

あとどれだけ入院していなければいけないか、と言うのが判断されるらしい。

三日を過ぎた辺りで点滴は外され、

一日一回の入浴、

敷地内の散歩を許されていたので、

アルコールが摂取出来ないと言う事以外は、

ほぼそれまでの生活と同じようなサイクルで生活出来るようになっていた。

それでも、いったい何時になったら退院出来るのだろうと言う焦りはある。

同じ病棟には、何度もここに運び込まれ、

それでも酒を止められないと言う人が溢れていた。

このまま退院出来ないでいると、

結局彼らのようになってしまうのでは無いかと言う恐怖、

それがその焦りの主な原因だ。

何度も病室を間違えて入って来る人がいて、

その○○さんと言う人は、

退院の日に、誰も迎えに来てくれなかったため、

思わず立ち呑み屋に入ってしまい、そこで急性アルコール中毒で倒れ、

再度運び込まれ入院した人と言う事だった。

私はその話を聞いた時に、夜中だと言うのに憂に

「退院の日は絶対迎えに来てね」

と言うメールを送ってしまうほど恐ろしくなったものだ。

脳波の検査では頭に電極を幾つも貼り付ける必要がある。

入院中はしっかりコンディショナーを使用せずに洗っていた私の髪は、

痛んで寝癖がキレイに直らないような少しゴワゴワした感じだったので、

電極を上手く固定出来ないようになってしまっていた。


―――

待つ事二日。

検査の結果、私の退院は決定した。

脂肪肝。

これに関しては断酒が守られれば、これまでの食習慣とあわせて考えて、

それほど問題になると言うものでも無いらしかった。

私のような症状で入院した患者としては例を見ないほど、

正常に近い状態だったらしい。

憂の用意してくれていた食事のお蔭と言っても良かった。

問題は脳の方だった。

CTスキャンの映像を見せられる。


これを見せられれば誰でも納得せざるを得ない。

頭蓋骨と脳の間に隙間が出来ているのだ。

脳の萎縮が始まっていると言うことだった。

医者の言う「もう二度と酒は飲めない」と言う言葉が、

これほどまでに納得させられる材料と言うのは他には無いだろう。


―――

憂「大丈夫?本当に?」

唯「うん、大丈夫だから」

憂は私から○○さんの話を聞いていたので、

「久しぶりに外をブラブラしてから帰りたいから、先に帰ってて」

と言う私の言葉を中々受け入れる事は出来ないようだった。

それでも、ほんの10分だけ、と言う事で、久々の散歩を許してもらう。

私は公園のベンチの指定席に腰を下ろす。

いつもは幼稚園前の子供を連れた母親達で賑わっている公園だが、

何故か今日は子供が一人ブランコを漕いでいるだけのようだった。

このまま、お酒を止めて健康になったら、

憂は私から離れていってしまうかも知れない。

とは言え、憂の事なので、

現在無職の私を放り出すようなことはないだろうけど。

だけど、お酒を本格的に止めれば、再就職しない理由も無くなってしまう。

そして、お酒は二度と飲めない。

唯「憂…」

私のネガティブな思考は、唐突に草むらから飛び出して来て、

何の躊躇も無く私の足に飛び付いて来た猫によって中断させられる。

生まれてまもない感じのする、ほんの赤子の猫だ。

どうして、その子が立った一匹でそこにいたのかは分からないが、

自活する能力もまだ碌に備わっていないに違いない。

その赤子猫は見知らぬ人間である私に怯える事も無く、

サンダル履きの私の足に顔を寄せてくる。

唯「あはは、何だぁ、君、珍しい猫にゃんだねー?」

私は猫を抱き上げる。

唯「そろそろ10分だね…」

私は一つ思いつく。

たった一つの冴えたやり方。

唯「ね、君、一緒に来る?」

赤子猫は私の問いに「ニャア」と答えて賛意を示す。

唯「そっか…。じゃあ、おいでー」

私はその赤子猫を抱いたまま、家に向かい歩き出す。


―――

家の前では泣きそうな顔をした憂が私を待っていてくれた。

私が酒を飲んでしまわないか、随分と心配だったに違いない。

憂は、私が胸に抱いている赤子猫を見つけて、少し驚いたような顔をする。

憂「あれ、お姉ちゃん、その子どうしたの?」

唯「うん、なんかね、私に懐いてるみたい」

憂「へー、そうなんだ…。飼う?」

唯「うん。憂さえ良ければそうしようと思って連れて来ちゃった…」

憂「かわいいねー」

唯「ね、憂?」

憂「なーに?」

唯「飼っても良い?」

憂「もちろん」

唯「あ…」

憂「何?」

唯「名前はどうしよっか」

憂「うーん…。お姉ちゃんが決めて良いよ」

唯「えー…」

急に言われても名前なんて出て来ない。

憂は久し振りに真剣な表情を見せる私がおかしかったのか、クスリと笑う。

唯「憂、酷いー」

憂「えへへ…、ごめんね」

唯「あ…」

私は、以前町で見かけた憂の友達の猫っぽい方、

梓と言う名前の女の子の事を思い出す。

憂「もしかして良いの思いついた?」

唯「あずにゃんって言うのはどう?」

憂は苦笑する。

唯「駄目…、かな?」

憂「ううん、可愛いと思う。それにこの子メスみたいだし、丁度良いよね」

憂は赤子猫の首筋を撫でながら賛同してくれる。

唯「よーし、君の名前はこれからあずにゃんだよ」

私があずにゃんを高い高いしてやると、

あずにゃんは一際力強く感じる声で「にゃーん」と鳴いた。

きっと、あずにゃんが自活出来るようになり、

そして私達がこの子から親離れ出来るようになるには、

半年ぐらいはかかるに違いない。

それぐらいの少しの間なら、憂を繋ぎとめていても許されるよね?

ね、それぐらいなら…。

私がそう思いながら抱きしめ、そして愛撫してやると、

あずにゃんは私の頬をペロリと舐めた。

                 That good continue?



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最終更新:2010年11月28日 03:58