内科と神経科からそれぞれ数種類ずつの薬を受け取る。

どれが、何のための薬か説明を受けた筈なのだけど、

その説明は冗長でさっぱり覚えていられなかった。

マイスリーと言う薬だけは何となく睡眠導入剤なのだと言う事は、

その包装に書いてある小さな文字からは分かる。

それ以外で、確実に覚えているのは、

どの薬も毎食後に服用しなければならないと言う事だけだった。

ただ、薬の摂取だけを続けていれば、

自分の足で立って歩けるようになる訳では無い。

少しづつでも訓練が必要なのだと、私は考えるようになっていた。

これまでは、朝食、昼食は憂が出勤する前に用意していってくれたものを食べるだけだったし、

また、食べ終えた食器でさえ、ただ流しに出しておけば、

帰宅した憂が夕食の用意前に洗ってくれる、と言う感じだった。

私はいつか憂が離れていってしまう日の事を考えて、

まず、食器洗いぐらいは私の仕事にしようと申し出る。

今のうちに少しずつでも自立の準備をしなければならないのだ。

憂「大丈夫?お姉ちゃんまだ本調子じゃないでしょ?」

唯「大丈夫だよ、これぐらいは憂の事手伝わないと、

お姉ちゃん失格になっちゃうからね」

憂の顔には心配と言う文字がありありと浮かぶ。

唯「ね?」

憂「そ、それじゃあ、お願いしようかな」

唯「憂、ありがと」

私は遠慮がちに憂の背中に手を回す。

憂「お姉ちゃん…」

私は自分の食器を洗うと言うこと、

そして、憂が仕事に行っている間のあずにゃんの世話、

と言うのが、私の取りあえずの社会復帰訓練となった。

私は、これはまだ第一歩なのだと、自分を鼓舞する。


その内、自分の昼食、憂の分まで含めた夕食を自分が用意するようにしよう、

そう言うところまで行かなければならない。

最終目標は当然再就職なので、洗い物程度で止まる訳にはいかないのだ。




だが、私のその盛り上がりはすぐに腰を折られることとなった。


―――

どれぐらい寝たのだろう。

私は尿意を感じて目を覚ます。

トイレにいかなきゃ、と思うのだが、身体が動かなかった。

どうやら、睡眠導入剤が効き過ぎているらしかった。

必死で起き上がろうと苦闘するが、身体は動かず、

その間にもドンドン尿意は強まるばかりだった。

膀胱の筋肉も上手く働かないようで、結局我慢しきれず放尿してしまう。

一度、堰を切ったおしっこは留まる事を知らず、

ダジダジといつまでも止まらない。

私は止めるのを諦めざるを得ず、放っておいたところ、

いつのまにか、また眠りに落ちてしまっていた。

朝になり目が覚め、布団が冷たいことに気付いても、

それが何によるものか、最初すぐには分からなかった。

少しづつ、頭がクリアになり、やっと昨晩のことを思い出す。

唯「あ…、おしっこ漏らしちゃったんだ…」

が、頭が目覚めても身体はまだ半分眠りの中にいるように重く、

普通ならバネ仕掛けのように飛び起きるのだろうが、

それがまったく出来ない。

私はやっとの思いで冷たく湿ったシーツから身体を引き剥がし、

四つんばいになる。

あれだけ大量に出したと言うのに、新たに尿意を覚えていたのだ。

これまでは、リフォームの折込チラシを見ても

「手すりをつけたぐらいでバリアフリーとは笑える」としか思っていなかった。

だが、こうなって見ると、

きっと手すりは大きな意味を持っていると言う事が実感出来る。

壁に必死で手を着いて、芯が入っていないような自分の身体を支え、

何とかトイレに辿りつき、用を足す。

トイレから戻り、シーツを剥がし、

自分の濡れたパンツとパジャマ一緒に洗濯機に放り込む。

シャワーを浴びて、新たなスウェットに着替える。

ベッドマットを何とかベランダまで持ち上げ、柵にかける。


健康な時なら数分で済ませられるようなこの一連の作業を、

フラフラになって何とか終えた時には、既に11時を回ろうとしていた。

取りあえず、睡眠導入剤は今晩からは無しにしようと思った。

毎朝、このような作業をしなければならないのでは、

家の中の簡単な作業をするどころではない。

唯「それに…、おねしょもね…。憂に面倒かけちゃう…」

医者に睡眠導入剤を断つ事を相談したところ、

私が気にしていたよりも簡単にOKが出される。

そして、夜も若干は浅いかも知れ無いが、

私が心配したような事も無く、眠りに付く事が出来た。


―――

睡眠導入剤を中止したあと、意識的に外を出歩くようにしていた。

睡眠導入剤を使用しない以上、身体を動かして疲れた方が良いと思ったからだ。

憂に自分から、買い物を申し出たりした。

未だに頼まれたものをちゃんと買って来れないことも度々あって、

逆に面倒を掛けていたのかも知れないが、

憂も以前のことを考えればと言う事で、喜んでくれていたように思える。

そう言えば、お酒を飲むようになってから忘れていたのだけど、

私は随分な甘いもの好きなので、必要な買い物は忘れるくせに、

一緒に買うアイスだけは忘れる事はなかった。

憂は私が忘れもせずに毎回買ってくるアイスやお菓子に、

苦笑していたけれど、そのことも含めて、

私の安定をそこから感じ取ってくれているみたいだった。


―――


通院はまだ続いていたけれど、断酒する事が最大の治療行為である以上、

医者からも特別な注意事項を告げられる事は無くなっていた。

医者「お酒は飲んでいませんね」

唯「はい」

医者「夜は?」

唯「普通に寝られるようになって来てると思います」

医者「わかりました。じゃあ、ちょっと薬を軽いものに変えてみましょうか」

入院中、病院に出たり入ったりしている人の話を聞いて、

退院後も精神分析やカウンセリングをすると思っていた私としては拍子抜けだった。

だけど、しないで済むならそっちの方が良い。

何しろ、そんな色々なことをしている人が結局、入退院を繰り返しているのだから、

あまり大きな効果と言うのも無いようにも感じるのも事実だ。

勿論、それも人によるのだろうけど。

実際のところ、薬の処方は今も続いている訳で、

今も私がお酒を飲む気にならないのはその薬のせいなのだろうかと考える。

本人の意思より、カウンセリングより薬の力。

医者は薬を少しづつ軽いものにしましょうと言うけれど、

そうやって軽いものにしていって、薬を止めた時、

私はまたお酒を飲んでしまうのでは無いか。

それが私は心配だった。


そんな生活の中、夕方のニュースの一コーナーで、

アルコール中毒に関する小特集が組まれているのを見る。

そこでは、退院後10年間お酒を飲まなかったのに、

つい出来心で飲んでしまい、

それを悔やんで自殺してしまった人の事が紹介されていた。

私は今飲みたいと思わない以上、

出来るだけ先の事は考えないようにする事にした。

今はただ、家の事を手伝って、そしてあずにゃんの世話をしてやる。

それだけだなのだ。


あずにゃんは変な猫で、私を外に連れ出そう連れ出そうとするような子だったので、

私は猫の散歩に付き合って、外に出る事も多かった。

猫だけが通れるような道を通るような事も無く、

私の前をゆっくりと歩いていく。

そして時折、私が付いて来ているかを確認するように首を後ろに向けて

「にゃぉん」と鳴くのが、あずにゃんと言う猫だった。

唯「あずにゃんは本当に変な猫だねぇ」

私はいつものように尻尾をピンと立て、

すすすっと歩くあずにゃんの後ろをのんびりと歩いていた。

立てたしっぽが貴族の兜の羽飾りのように思えて少しおかしい。

唯「あずにゃんが騎士で、私が従者」

あずにゃんはいつものように私の方を向いて、私の言葉を肯定するように一鳴きする。

唯「あずにゃんがドン・キホーテで、私がサンチョ・パンサ」

あずにゃんは従者の私を引き連れていつもの公園に入っていこうとする。

唯「おっと、ここに入る時は、一緒に入らないとねー?」

私はあずにゃんを抱き上げてやる。


ここ最近はベンチに座っていても、

以前私に声を掛けて来た防犯老人は声を掛けて来ない。

私をどのように見ているかは分からないけど、

取り合えず話しかけて来ないでくれる事が一番重要で、

そうあってくれれば、それで良いのだ。

私の抱いているあずにゃんを見て、

公園で遊んでいた何人かの子供が寄って来る。

子供A「わー、猫ちゃんかわいいー」

あずにゃんはあまり人の注目を浴びるのが好きではないようで、

私の腕の中で身体を小さくしている。

子供B「これ、お姉ちゃんの猫さん?」

唯「あー、うん、そうなるのかな?」

子供C「触っても良いですか?」

唯「どうだろうね、この子が嫌がらなければね」

子供達は恐る恐る手を伸ばす。

だが、あずにゃんは、

子供達の手が首の辺りに触れるか触れないかと言うところで、

あまり聞いたことが無いような声を上げて、私の腕の中から飛び出す。

唯「あぁっ!!」

そして、いつものゆったりとした歩みからは想像出来ないようなスピードで、

私達の前から遁走しようとする。

唯「あずにゃーん、駄目だよ、迷子になっちゃうからぁ!」

私もベンチから立ちあがるとヨタヨタとあずにゃんを追いかける。

唯「こんなに早かったんだ…」

あずにゃんは公園を飛び出す。

私は必死で追いかけたが、衰えきった私の身体からは、

あずにゃんに追いつくほどのスピードを出す事は難しかった。

唯「そっちは車が多いから駄目だってばぁ」

酸欠になりそうになりながら必死で追いかけると、

あずにゃんは交差点の縁石の上にちょこんと座っていた。

その姿はまるで、のろまな私を待っていたかのように見えた。

あずにゃんはヨタヨタと走って来る私の姿を認めると一鳴きして、

また追い駆けっこの始まりとばかりに動き出す。

唯「あっ!」

私は目をつぶる。

私の瞼に映し出される一連の映像。

あずにゃんは車道に飛び出す。

走って来たトラックは、突然の飛び出しに急ブレーキをかける。

トラックは「キキィィィィィィ!!!」っと強烈なスキール音を立てて、

減速するが、停止しない。

そして、想像するよりずっと大きい「ドンッッ!!!!」言う音。

高く跳ね飛ばされるあずにゃんの身体。




  ・

    ・

が、そうはならなかった。

脇から歩いて来たギターを肩にかけた女の子がひょいっとあずにゃんを抱き上げたのだ。

あずにゃんは、まったくその女の子の接近に気付いていなかったらしく、

簡単に抱き上げられてしまう。

?「お前ねー、そんなとこに座ってたら危ないよ?この前も、

トラックが内輪差考えずに、そこの縁石でタイヤぶつけてったんだからね」

私は、思わずあずにゃんを抱いている救世主に飛び付く。

唯「あずにゃーん!!」

?「んぁ?!何です、あなた?!」

私は、あずにゃんが無事だった事があまりに嬉しくて、

その女の子とあずにゃんをまとめて抱きしめる。

?「にゃーっ!!!」


―――

?「まったく…、何が起こったかと思えば…」

唯「すいません、あまりに嬉しかったもので…」

私は、公園のベンチに座り、目の前に立つあずにゃんの恩人に弁解していた。

?「大体、あずにゃんって何ですか、あずにゃんって」

私は、あずにゃんを抱き上げて、その子に見せてやる。

唯「この子の名前です。ほら、女の子なんだよ、この子」

私は持ち上げてあずにゃんのお腹を見せてやる。

?「そ、そう言う事言ってるんじゃ無いです」

唯「ふぇ?」

?「そ、そのあずなんちゃらってのがどこから来たのか、って言う事です」

唯「それは、憂の…、あ、憂って言うのは私の妹で…、あれ?」

唯「それは、憂の…、あ、憂って言うのは私の妹で…、あれ?」

私の前に立っているあずにゃんの恩人は、

まさにあずにゃんの名前の元になっている女の子だった。

唯「あ、あの、あなたは、そう言えば、憂の友達の…」

その恩人は、少し呆れたように自己紹介をする。

梓「中野梓です。で、憂のお姉さんはどこから、

そのあずにゃんって言う名前を思いついたんですか」

唯「そ、その…、中野さんの事を、憂が梓ちゃんて言ってたから…」

私が顔を起こして中野さんの方を見ると、

相変わらず呆れたような表情で、私を見ている。

私は、必死で言葉を続ける。

唯「え、えっと、この子の名前をつける時に、

中野さんの事思い出しちゃって…、あ、気を悪くしないで…、欲しい…、です…。

この子がね…、あまりに可愛いから、その…、中野さんの事思い出しちゃって…、

あと、もうこの子も『あずにゃん』って言う名前に慣れちゃってるから、

今から名前変えないようにしたい…、かなって…、思う…、んだけど…」

私達の間に重い沈黙が横たわる。

唯「ご、ごめんなさい…」

中野さんは大きなため息を付いて、ボソリと独り言のように呟く。

梓「どうして、誰も彼も皆、同じようなセンスなんですかねー…」

唯「中野さん…?」

梓「良いですよ、別に」

唯「え?」

その返答があまりに予想していた言葉と違っていたので、

私は思わず聞き返す。

梓「だから、良いですよ」

唯「良いんですか?」

梓「ええ、一匹も二匹も一緒ですから」

唯「一匹も二匹も?」

梓「なんでもありません。じゃあ、私もう行きますね」

中野さんはそれだけ言うと、立ち去ろうとする。

私は、大事な事を伝え忘れていたのを思い出す。

唯「あ、あの!」

中野さんは振り返る。

梓「なんです?」

唯「前の事謝らないと…、その私…、あの時は、

正常な判断が出来なくなっちゃってて…」

中野さんは、少し眉尻を下げて、呆れているとも苦笑しているとも、

微笑んでいるとも取れるような表情になる。

梓「良いですよ、その…、憂からも事情聞きましたし…」

唯「そのね、あの時、中野さん達のやってる曲ね、良い曲だなった思ったんだ。でもね、そう思いながらも、何か悲しいような悔しいような気持ちになっちゃって…」

梓「ふわふわ時間」

唯「え?」

梓「曲の名前です」


4
最終更新:2010年11月28日 03:59