ある朝……

斎藤「お嬢様、おはようございます。」

紬「おはよう、斎藤。」

斎藤「今日、いよいよ…でございますな。」

紬「ええ、そうね……」

大学を卒業して約半年、私は今日大切なものを捨てなければならない。
今まで私の人生を彩ってきたモノ…それを、手放す。

紬「……お母様は?」

斎藤「ただいま書斎の方にいらっしゃるかと。」

紬「そう。」

最後まで聞くやいなや、私は斎藤の顔も見ずにすぐに歩を進める。

人間、人生において何度も選択というものを迫られる。

些細な事柄から、あるいは自分の人生を左右するような選択まで。
私はその後者、人生を左右する選択を今まさに迫られている。

おそらく、お母様のもとには私の婚約者もいるはず。

婚約者…30代前半のIT起業家で、時代の寵児とまで言われている男。顔立ちは悪くは
ないが、ナルシストの自信家。自信に満ちているといえば聞こえは良いが、他者を見下す
ことで自らの立ち位置を確認するような反吐の出る輩。あるいは自身を偉人とでも思い込ん
でいる世間知らずの猿山の大将か。

そんな輩と結婚などと冗談にしては気持ちが悪い話だ。しかし、お母様たっての願い。
私は、断ることが出来なかった。

今日はその最終の返事をすることになっている。

その代償、いや結婚などとは関係なくこの結末は分かりきっていたことだった。
私は先日、大学卒業を限りに放課後ティータイムを脱退した。

メジャーデビューの話が舞い込んできた矢先のことだった。

引き止められたし、私だって本当は残りたかった。
でも、私には琴吹家の一人娘として果たすべき役割があった。

…こんな苦しい思いを何故私はしなければならないのか。

思えば、彼女たちと出会った日。あの日から、私のこの状況に到るまでの道は
始まっていたのだろう。

思い返す、かつてのことを……


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唯「…」ジーッ

紬「唯ちゃん、このギターが欲しいの?」

唯ちゃんは、ある一つのギターをずっと見つめている。値段はおよそ15万円。
一介の女子高生に買えるようなシロモノではない。

唯「うん…でも、高くて買えないよ……」

頭ではわかっているみたいだけど直感というのか、それが唯ちゃんを諦めさせること
を拒んでいるようだ。本来なら、ここで諦めてもらうのがスジなのだけれど…

紬「…ちょっと待っててね。」

私は、彼女の思いに応えたいと思った。安い情などではなく、ある意味高潔な決意を持って。

店員「いらっしゃいませ。」

店員さんは笑顔も浮かべず、余所余所しくお決まりの挨拶をする。楽器店の店員、そんなに
品の良い方を想像していたなんてことはなかったし、私はそんな些細なことは気にせず本題に移る。

紬「あの…あちらのギター値切っていただけませんか?」

今出せる精一杯の言葉で相手に告げる。視線はまっすぐ相手に向けて、相手の気持をへし折るつもりで。

店員「何を言って…て、あなたは社長の娘さん!? しょ、少々お待ちを!!」

紬「……」

随分あっさりと相手が折れる。いや、勝負はこれからといったところか。
私はここまで来て、自分の行動に気持ちを潰されそうになる。

でも、唯ちゃんの…彼女のために力になりたかった。

紬「5万円でいいって。」

唯「ほ、ホント!?」

律「おいおい…ムギー、一体何やったんだよ~?」

紬「ふふ♪」

みんな驚きの表情を浮かべている。無理もない。異常なまでの額の値引きなのだ。
私は唯ちゃんの思いを叶えることには成功した。でも、こんなことをしてしまって
みんなはこれからも私といつも通り接してくれるのだろうか…?

心のどこかが、チクリと痛んだ気がした。

ギターの件から数日後、私は部屋で一人ピアノを弾いていた。

あんなことがあったのに、みんなの態度は何一つ変わっていない。いつも通りの日常を
私は過ごしている。それがとても嬉しく、そして怖い。

斎藤「失礼します、紬お嬢様。」

執事の斎藤が恭しく部屋に立ち入っれくる。たかだか10代の小娘にも深々と頭を垂れる彼。
彼私の幼い頃からの係のようなもので、いつも優しく私に接してくれる。私自身、彼には頼って
しまうことが何かと多い。

紬「何かしら。」


斎藤「ご主人様がお呼びでございます。食堂まで来られるようにと。」

紬「……ええ、わかったわ。」

斎藤は手短に用件を告げると、また深々と一礼をし去っていった。
私が年頃になったからか、最近の斎藤は部屋に一歩しか足を踏み入れなくなった。

あまりに真面目すぎる彼の姿勢に私は思わずクスリと笑ってしまう。

でも、私は同時に気を重くする。お父様の呼び出しがあるからだ。
呼び出された理由は考えなくてもわかる。私は、一つ深く深呼吸をし、部屋をでた。

食堂では、既にお父様が待っていた。
私は「失礼します。遅くなりました。」と一声掛け、お父様の向かいの席に腰掛けた。

紬父「高校には慣れたか?」

父は、私をしっかりと見つめながら尋ねる。
親子で会う時は、お父様はいつもゆっくりと時間をとる。
私との時間を大切にしてくれていることがよくわかる。

紬「はい。新しいお友達も何人か出来ました。」

紬父「そうか。それは何よりだ。さて、それはさておいてだ…」

体が強張る。優しいお父様とはいえ、これからの事を考えると緊張を禁じえない。

紬父「系列のある楽器店からの連絡があってな。紬にせがまれギターを10万円
   も値引きしたというのだ。これは本当のことか?」

紬「はい…本当のことです……」

紬父「そうか。それは、お前の意思でやったことか?それとも、高校の――」

紬「私が!…自分の意思でやりました。お友達は関係ありません。」

紬父「そうか……」

一瞬の沈黙。空気がどこまでも重い。

紬父「…紬。」

紬「……はい。」

紬父「大丈夫なのか、その友人というのは。」

紬「私は……彼女たちのことを信じています。」

紬父「ふむ……ならいいのだがな。」

お父様は、何かを考えているのか「うーん」と小さい唸りをあげている。。
私はいうと、この沈黙の間は俯いてただ時が過ぎるのを待つしかなかった。

紬父「とりあえず…その差額の10万円はお前の口座から引いておくぞ。」

紬「はい……」

紬父「紬。お前は優しい娘だ。私はお前のことを誇りに思っているよ。」

紬「……」

紬父「だが…あまり情に流されて判断や選択を間違ってはいかん。」

紬「……」

紬父「お前の選択が…今回は間違いでなかったことを願う。」

お父様はそこまで言って、次の話題に移った。
でも、私はこれ以上お父様の前にいるのが辛かった。

叱られたり怒鳴られたりするよりも、さっきみたいな顔を見せられること。
私は何よりそれが苦痛だった。大好きなお父様に、悲しい目で見られることが。


その後、お父様の心配をよそに私は高校の新しい友人とは上手くやっていくことが出来た。
イジメられるようなことは勿論、奇異な扱いをされることも気を使われるようなこともなかった。

でも、私は怖かった。

私は中学までは名の知れたお嬢さま学校に通っていたのだが、そこでの常識がまるで
通用しないのだ。私は別に、あんな中学校でのことが一般に通じる常識だとは思って
いない。それでも生じるギャップを埋めるのはそうそう簡単なことではなかった。

いつかボロが出るかもしれない。それによって、私は友人を失うかも知れない。
戦々恐々の日々は続いていた。

ただ、軽音部のみんな。彼女たちは、逆に私にとって奇異な存在だった。

心の壁がないのだ。

人間誰しも、仲の良い人間に対してもある程度の距離を持って接するものだと思う。
踏み入れてほしくない一線があるはずなのだ。

軽音部の仲間には、それがない。

常に、私に対して開かれている。だから、私も彼女たちと接している時は丸裸に
なってしまっている。

そして、家に帰っては思う悩む日々が毎日のように過ぎていく。
私は彼女たちに変な目で見られていないだろうか。そればかりが気になった。

ただ、私のそういった隙にも一々突っ込んでくれる人がいる。

紬「ちょっと狭いかも知れないけれど。」
律「て、もっと広いとこあるんかい!」

紬「本人同士が良ければいいんじゃないでしょうかっ。」
律「いや、そういう問題じゃないだろ…」

紬「今年も良いものを見せていただきました~。」
律「はあ~…相変わらずだなお前も。」

りっちゃん…彼女は出会った当初から変わらない調子でいつもいてくれる。
多分、私は彼女の存在に一番救われているんだと思う。

ある時、私は彼女に聞いてみた。

紬「ねえ、りっちゃん。」

律「ん、どした?」

紬「りっちゃんて本当に誰とでも同じような感じでお話できるよね?」

律「ん~、そうか?」

紬「うん。初対面の人でもだし。私、りっちゃんのそういうところ凄いなって思って。」

律「おお、褒めてくれてるのかい?」

紬「うん、りっちゃんすごい!」

律「はっはっは、もっと言ってくれ。」

律「ってまあそれはいいや。だってさ。色々と面倒じゃん。」

紬「面倒?」

律「うん。人に合わせるって疲れるし、出来る限りしたくないんだ。
  だから、自分から攻めに行くんだよ。お前がわたしに合わせろ~、てな。」

紬「でもでも、それじゃ合わない人とか出たりしない?」

律「うん、いるよ?」

紬「……それって、怖くない?」

律「うんにゃ、全然。そりゃそういうことだってあるだろうさ。
  でも、それ以上に合う人がいるんだし、気にするほどの話じゃないさ。」

紬「そう…強いのね、りっちゃんって。」

律「そうかな? でもそれは、こんなわたしでも仲良くしてくれる人や支えて
  くれる人がいるからだよ。勿論、ムギもそう。」

紬「…私、も?」

律「モチ!…んで、なーんでこんな真剣なおはなししてるんだー?
  もしかしてアレか、恋とか!? 恋愛相談なのか!?」

紬「ふふ、そうかもね…ありがとう、りっちゃん。」

律「おーい、そんなことはいいからさー。その話聞かせてくれよー。」

この後はグダグダとした話になってしまった。けど…もしかしたら、彼女は私の悩みを
わかった上で答えてくれたのかも知れない。そう思えるほど、彼女の言葉は私の胸に強く響いた。

いつしか私は、体面を気にすることは少なくなっていた。

やがて時間は過ぎ、私は高校二度目の春を迎える。

私たち軽音部は、新入部員を一人迎えることとなった。
名は中野梓。小さくて可愛い、まさに「後輩」て感じの子。

仲良くやっていけるだろうか…不安はあったものの私はりっちゃんの教えを胸に
いつも通り、むしろいつもより積極的に彼女に関わるよう努力した。

しかし、私は彼女にまた一つ気付かされる。

梓「ティータイムは廃止すべきです!」

私たちが日常的に実施していたティータイム。それの廃止を彼女が提案した。
確かに、部活として不要な要素と思われても仕方ないし、折角の新入部員である
彼女の提案であるのだから、それは真摯に受け止めるべきことであると思った。

律「え~、いいじゃんかよ別に~。」

唯「そーだよ、あずにゃ~ん。」

しかし、同学年の仲間である彼女たちは渋った。
私はどうしていいか、立ち位置がわからなかった。

その後、試しにティータイムがない練習の日々を過ごしてみることになった。

結果は散々。りっちゃんはいつもグチグチ言っているし、唯ちゃんは明らかに演奏の
レベルがガタ落ちした。

私はというと…平静は装っていたけれど、気づいてしまった。

私自身が、ティータイムに対して依存していたことを。
みんなの為にお菓子を用意し、お茶を入れることによって、私自身の「必要とされている」
という実感を充足しようとしていたことに。

紆余曲折あって、結局ティータイムは存続することになったけれど、私はそれ以来
どこか卑屈になってしまっていた。

私がこの部にもたらしている価値が、私自身ではなく私がもたらした「モノ」によって
生み出されているのではないだろうか。

ほぼ毎日、お菓子を持ってきた。お茶も入れた。みんなの希望を聞いて曲も作った。
もしこれが出来いのなら、私は彼女たちと一緒にいる資格を失うのではないだろうか。

それは嫌だ。

私は、彼女たちと一緒にバンドをやっていたい。

その為なら……

唯「ムーギちゃんっ!」

紬「あっ…唯ちゃん、何かしら?」

唯「ムギちゃん、どうかしたの? なんか怖い顔してたけど。」

紬「あ、いや。何でもないの。ちょっと考え事。」

唯「ふーん…」

紬「大したことじゃないから、それじゃ…」

唯「ムギちゃんっ!」

紬「!…な、何?」

唯「ムギちゃん、笑おうよ! ムギちゃんに怖い顔なんて似合わないよ。」

紬「ゆ、唯ちゃん……」

唯「ねっ?」

紬「う、うん…そうね。ありがとう……」

唯「うん! ね、これからも一緒に楽しいことやってこうよ!!」

紬「唯ちゃん……」

太陽のような明るい笑顔に無垢な眼差し。
彼女は、まさに私にとっての太陽。日陰にいる私を照らしてくれる存在。

彼女の笑顔の為なら……

私は、自己を犠牲しても構わない。
その為なら、私はどこまでも卑屈になろう。


そしてまた、時は足早に過ぎていく。

私はこの時、多分短い人生ながらもこれまでで最高の時を過ごしていた。
大好きな仲間と音楽をし、お茶をして、時には馬鹿やって。

いつまでもこの時を過ごしていたい。そう思った。

高校生として3度目の春が過ぎた頃。
私はお父様と進路について話しあうこととなった。

紬父「大学は決めたのか?」

紬「はい。N女子大にしようと思います。」

紬父「そうか。決めたのなら、勉強頑張るんだぞ。」

紬「…はい。」

紬父「……後悔は、しないか?」

紬「……大丈夫です。私は琴吹家の一人娘として、これからの道は心得ています。」

紬父「そうか……すまないな。」

紬「お父様が謝られることはありません。私が自分で決めたんですもの。」

紬父「そうか……」

紬「一時のワガママを聞いてくれたお父様には感謝しています。」

紬父「………」

私は、本来なら桜ヶ丘高校に入るはずではなかった。
中高一貫のお嬢様学校で過ごす予定だったのを、私がワガママ言って変えさせたのだ。

琴吹家の紬ではなく、一個人の琴吹紬として生きたい。そういうワガママ。

でも、現実を見なければならない時が来た。
私は琴吹家の一人娘として、再び生きることを選ばなければならなかった。

3年生となり、私は高校生活最後の一年をとにかく楽しんだ。

受験勉強を怠りなくやりつつ、一生懸命に音楽をし、お茶をし、そして遊ぶ。
自由にしていられる最後の1年。私は、ただ全力を尽くしていた。

だが、私は残酷な現実に直面することになる。

いや、残酷じゃない。本当は、心底喜ばしいことのはずなのに。
本当は、涙を流すくらい嬉しいことのはずなのに。


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最終更新:2010年11月28日 21:43